◆現在のメディアのなかには、いまもマイケル・ジョナサン・グリーンが小沢叩きを続行していると見ているところがあるようだが、それは大きく違っている。八丈島で小沢一郎前幹事長と会談をして以来、マイケル・ジョナサン・グリーンによる「小沢は叩き」は終息している。ただし、小沢前幹事長が代表選出馬を決意するまでには、紆余曲折のなか、ディビッド・ロックフェラー側から「花道は用意しているから、今は動くな」との意向が出て、一時身動きが取れなかった。
しかし、そうした動きを察知したロスチャイルドが、ディビッド側に、「日本の邪魔をするな。もし妨害をするなら、こちらは小沢につく。手を引け」と釘を刺した。現在の世界情勢のなかで、ディビッドは、ロスチャイルドに頭が上がらないのである。内心快く思わないながらも、従わざるを得ない。ディビッドの都合で、日本から資金を何もかも吸い上げられてしまっては、やがて日本経済は破綻してしまう。
アメリカにとっても、日本が破綻してしまっては立ち行かなくなることは目にみえている。現在、小沢一郎前幹事長は、決してアメリカの敵ではない。対等とまではいえないまでは、関係は決して悪くないのである。そのことを踏まえて、日本の政治情勢の今後の動向を見据える必要がある。
ということで、現在のマスメディアによる小沢批判は、もはやマイケル・グリーンの指令に基づくものではない。言い換えれば、もはやマイケル・グリーンの後ろ盾もないまま、これまでの既得権益の路線にしがみついている人々が最後の猛攻撃をしているといったところである。
ところで、ロスチャイルド側は、小沢総理が誕生すると、思い切った財政出動により日本経済が浮揚すると見込んで、日本にその潤沢な資金を投入するつもりでいるという。その資金の中には、創価学会とのパイプが強い、バチカンの資金も投入されるだろうとのことだ。
◆さて、昨日のリーダー論に話を戻そう。
小沢前幹事長が尊敬してやまない西郷隆盛は「廟堂に立ち大政を為すは天道を行うものなれば、些とも私を挟みては済まぬもの也。いかにも心を公平に操り、正道を踏み、広く賢人を撰挙し、能く其の職に任うる人を挙げて政柄を執らしむるは、即ち天意也。夫れ故真に賢人と認る以上は、直ちに我が職を譲る程ならでは叶わぬものぞ。故に何程国家に勲労有るとも、其の職に任へぬ人を官職を以て賞するは善からぬことの第一也」(南洲翁遺訓)ともいう。
「私的な権力欲」(非合理性=正)「公的な政治目的」(合理性=反)この二つの矛盾したものを、それより一段と高いものに調和統一する(止揚=アウフヘーベン)させることによって、政治家は事故実現できる。「公のために一身を挺する」「国家のために身命を賭する」という自己犠牲による「倫理性」を図ることによって権力を手にでき、「私的な権力欲」を満足できる。これは一種のパラドックス(逆説)である。この点、無能な菅直人首相が「就任してまだ3ケ月しか経っていないので続投したい」と私的な欲望を剥き出しにしているのは、いかにも見苦しい。
この対照的な人物比較で思い起こすのは、吉田松陰の幼少期の有名なエピソードである。
吉田松陰は、少年時代、叔父・玉木文之進の講義を受けているとき、額の汗を拭ったところ座敷から庭に吹き飛ばされて気絶するほど殴られた。叔父はなぜ殴ったのか、その理由をこう論じた。
「勉学というのは『公』のために行っているのである。汗を拭うのは『私』のためである。講義中は『私』のことを考えてはならない」
「僕には夢がある」と書かれたのぼりとともに、小沢一郎の普段と変わらぬスーツ姿は『公』のためにいかなる地獄をも覚悟した、確固たる決意の表れとして感じるところであろう。
また、西郷隆盛は「人を篭絡して陰に事を謀る者は、好し其の事を成し得るとも、慧眼より之を見れば醜状著しきぞ。人の推すに公平至誠を以てせよ。公平ならざれば英雄の心は決して取る攬られるもの也」(南洲翁遺訓)と言っている。権謀術数にかまけている仙谷由人官房長官のような邪悪な奸臣のような所業を諌めているのである。
◆読売新聞は5日付け朝刊2面(総合面)の記事「ドキュメント代表選 見えぬ党員 笑顔で訴え」で「35度近い猛暑にもかかわらず、紺色のスーツにネクタイ。服装は普段と変わらなかったが、演説の前後に盛んに見せた笑顔は、いつものこわもてとは異なり親しみやすさをアピールするのに懸命だった」と報じた。
9月4日午後東京・新宿駅前、そして5日は大阪で、民主党主催の立会演説会が繰り広げられた。とくに印象的に目に映ったのは、この炎天下のなかでも、小沢前幹事長は長袖のワイシャツに赤のネクタイに背広といった正装に身を包み、しかも額の汗をほとんど拭くこともなくただひたすらに聴講者に訴えている姿だった。国民に向かって頼みごとをするのに、正装して、威儀を正すという礼儀を重んじる昔かたぎの律儀な小沢前幹事長の姿がそこにあったのである。一方、菅直人首相は、白いワイシャツの腕をまくり上げるというクールビズ姿で表れ、ガッツポーズを何度も振り上げ対抗していた。どちらを選ぶかは、国民の選択次第である。
板垣英憲マスコミ事務所
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しかし、そうした動きを察知したロスチャイルドが、ディビッド側に、「日本の邪魔をするな。もし妨害をするなら、こちらは小沢につく。手を引け」と釘を刺した。現在の世界情勢のなかで、ディビッドは、ロスチャイルドに頭が上がらないのである。内心快く思わないながらも、従わざるを得ない。ディビッドの都合で、日本から資金を何もかも吸い上げられてしまっては、やがて日本経済は破綻してしまう。
アメリカにとっても、日本が破綻してしまっては立ち行かなくなることは目にみえている。現在、小沢一郎前幹事長は、決してアメリカの敵ではない。対等とまではいえないまでは、関係は決して悪くないのである。そのことを踏まえて、日本の政治情勢の今後の動向を見据える必要がある。
ということで、現在のマスメディアによる小沢批判は、もはやマイケル・グリーンの指令に基づくものではない。言い換えれば、もはやマイケル・グリーンの後ろ盾もないまま、これまでの既得権益の路線にしがみついている人々が最後の猛攻撃をしているといったところである。
ところで、ロスチャイルド側は、小沢総理が誕生すると、思い切った財政出動により日本経済が浮揚すると見込んで、日本にその潤沢な資金を投入するつもりでいるという。その資金の中には、創価学会とのパイプが強い、バチカンの資金も投入されるだろうとのことだ。
◆さて、昨日のリーダー論に話を戻そう。
小沢前幹事長が尊敬してやまない西郷隆盛は「廟堂に立ち大政を為すは天道を行うものなれば、些とも私を挟みては済まぬもの也。いかにも心を公平に操り、正道を踏み、広く賢人を撰挙し、能く其の職に任うる人を挙げて政柄を執らしむるは、即ち天意也。夫れ故真に賢人と認る以上は、直ちに我が職を譲る程ならでは叶わぬものぞ。故に何程国家に勲労有るとも、其の職に任へぬ人を官職を以て賞するは善からぬことの第一也」(南洲翁遺訓)ともいう。
「私的な権力欲」(非合理性=正)「公的な政治目的」(合理性=反)この二つの矛盾したものを、それより一段と高いものに調和統一する(止揚=アウフヘーベン)させることによって、政治家は事故実現できる。「公のために一身を挺する」「国家のために身命を賭する」という自己犠牲による「倫理性」を図ることによって権力を手にでき、「私的な権力欲」を満足できる。これは一種のパラドックス(逆説)である。この点、無能な菅直人首相が「就任してまだ3ケ月しか経っていないので続投したい」と私的な欲望を剥き出しにしているのは、いかにも見苦しい。
この対照的な人物比較で思い起こすのは、吉田松陰の幼少期の有名なエピソードである。
吉田松陰は、少年時代、叔父・玉木文之進の講義を受けているとき、額の汗を拭ったところ座敷から庭に吹き飛ばされて気絶するほど殴られた。叔父はなぜ殴ったのか、その理由をこう論じた。
「勉学というのは『公』のために行っているのである。汗を拭うのは『私』のためである。講義中は『私』のことを考えてはならない」
「僕には夢がある」と書かれたのぼりとともに、小沢一郎の普段と変わらぬスーツ姿は『公』のためにいかなる地獄をも覚悟した、確固たる決意の表れとして感じるところであろう。
また、西郷隆盛は「人を篭絡して陰に事を謀る者は、好し其の事を成し得るとも、慧眼より之を見れば醜状著しきぞ。人の推すに公平至誠を以てせよ。公平ならざれば英雄の心は決して取る攬られるもの也」(南洲翁遺訓)と言っている。権謀術数にかまけている仙谷由人官房長官のような邪悪な奸臣のような所業を諌めているのである。
◆読売新聞は5日付け朝刊2面(総合面)の記事「ドキュメント代表選 見えぬ党員 笑顔で訴え」で「35度近い猛暑にもかかわらず、紺色のスーツにネクタイ。服装は普段と変わらなかったが、演説の前後に盛んに見せた笑顔は、いつものこわもてとは異なり親しみやすさをアピールするのに懸命だった」と報じた。
9月4日午後東京・新宿駅前、そして5日は大阪で、民主党主催の立会演説会が繰り広げられた。とくに印象的に目に映ったのは、この炎天下のなかでも、小沢前幹事長は長袖のワイシャツに赤のネクタイに背広といった正装に身を包み、しかも額の汗をほとんど拭くこともなくただひたすらに聴講者に訴えている姿だった。国民に向かって頼みごとをするのに、正装して、威儀を正すという礼儀を重んじる昔かたぎの律儀な小沢前幹事長の姿がそこにあったのである。一方、菅直人首相は、白いワイシャツの腕をまくり上げるというクールビズ姿で表れ、ガッツポーズを何度も振り上げ対抗していた。どちらを選ぶかは、国民の選択次第である。
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