「たちあがれ日本」は中川一郎の亡霊と中曽根元首相の生霊とが結合したようで気味悪い

2010年04月10日 23時11分17秒 | 政治
◆「グズラ」と言われてきた平沼赳夫元経済産業相が4月10日、すったもんだのわ末にやっとこさ新党「たちあがれ日本」結成の記者会見を同志とともに行った。党名の発案者である東京都の石原慎太郎知事は、「このままでは日本、大変なことになる」と憂国の情を発散させていたけれど、「こんな日本にしたのは誰か?」と質問する記者は、一人もいなかった。もっとも責任が重いのは、自民党の政務調査会長、財務相などを務めたのは、与謝野さんだったのを思えば、ヘソから茶が沸いてくる。
◆それはともかくとして、メンバー5人の政治歴を振り返ると、怪死した「中川一郎」(元農水相=病死した中川昭一元財務相の父)の「亡霊」に当たる。もう一つは、中曽根康弘元首相の「生霊」である。
中川一郎は昭和57(1982)年、鈴木善幸の後継を狙い、自民党総裁選にいち早く名乗りを上げたが、予備選で最下位に敗れた。この選挙に当たり中川は、「闇将軍」と言われた田中角栄元首相を訪ね「池の鯉は跳ねちゃ駄目か」と出馬について伺いをたてたところ、「跳ねたはいいが戻れなければ日干しだ」と諭された。新総裁・首相には中曽根康弘が就任した。その後、中川は昭和58(1983)年1月、札幌パークホテルのバスルームにて首吊り自殺した。その死について、いまでも謎があり、いまでも議論されている。
◆平沼は昭和55(1980)年の総選挙に旧岡山一区で立候補し初当選して以来、10回連続当選を果たしてきた。この間、中川一郎(元農相)が率いた「自由革新同友会」(中川派)に所属し、石原慎太郎、亀井静香らとともに行動し、中川が自殺した後、派閥づくり模索して果たせなかった石原らとともに「清和会」(福田派)に合流した。清和会の創始者・福田赳夫(元首相)は、平沼が自分と同じ名前を持ち、しかも長男・福田康夫(元首相)が麻布中学・高校の三年後輩であることから、可愛がった。
◆しかし、亀井静香が福田派を継承した安倍晋太郎(元外相)と折り合いが悪く、清和会を離脱して「亀井静香らのグループ」を形成して、中曽根康弘が率いていた「政策科学研究所」と合流したのを機に、平成10(1998)年11月30日、「志帥会」(初代会長・村上正邦、会長代行・亀井静香)が発足した際、平沼は、これに加わり、初代事務総長に就任した。ちなみに「志帥会」の命名者は、平沼だった。中川一郎の長男・昭一(元農水相、財務相)は、後に会長代行を務めている。
平沼は、小泉純一郎首相の時代、「ポスト小泉」の有力候補として注目されていた。だが、平成一七年(二〇〇五)七月五日の衆議院本会議で行われた郵政民営化関連法案の採決の際、反対票を投じたため、同年九月一一日の総選挙では自民党公認を得られず、無所属で出馬し、小泉首相から自民党公認の阿部俊子を刺客として送り込まれたものの、これを破り、九回目の当選を果たした。その後、離党し、「平沼グループ」を率いて、新党結成の機を窺っていた。
与謝野は麻布高校で平沼と同級生だった。歌人の与謝野鉄寛、晶子の孫である。東大法学部を卒業して日本原子力発電に勤務し、後に退職して、中曽根康弘(元首相)の秘書になった。昭和47(1972)年12月の総選挙に旧東京都第1区から自民党公認で立候補し、落選した。昭和51(1976)年12月の総選挙で初当選し、中曽根派に所属した。当選10回を数えている。今回の「たちあがれ日本」の結党は、怪死した「中川一郎」の「亡霊」と中曽根康弘元首相の「生霊」とが結合したような気味悪さがある。


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