冤罪は、警察官や検察官、裁判官のなかの「サディスト」が起こしているのではないか?

2010年03月26日 23時29分17秒 | 社会
◆宇都宮地裁が、足利冤罪事件の菅家利和さんに無罪判決した。これで菅家さんは、晴れて普通の市民に戻ることができた。
しかし、警察官や検察官、裁判官の失敗は、日本の司法史上に拭いきれない汚点を残した。これは、司法に携わる「官憲」の人間性の欠如が起因した失点である。要するに、「人をみたらドロボーと思え」式の病理的な欠陥人間が、とくに警察官や検察官、裁判官が少なくないのではないかとの不信感を国民の多くに与えた大事件で、司法権の権威を揺るがしたと言える。この際、すべての司法官憲に「精神鑑定」を求めたい。ほとんどが、「サディスト」の判定を受けるのではないか。
◆学園紛争が激化していたころ、司法試験受験のための法学研究会のなかに、白ヘルメットに手ぬぐい、手にはゲバ棒という姿の法学生がかなりいた。過激集団である中核派の一員かシンパだったのであろう。
ところが、そのなかから、司法試験に合格して、検事や判事に任官した者が少なくなかった。たとえば、出世街道を歩み、東京地検総務部長や最高検検事、北陸地方の検事正に就任した検事もいる。、いつか会ったときに「Nさん、あのゲバ棒はどうしたでしょうね」と嫌味の一言も浴びせてやりたい気持ちである。要するに、この種の人間は、「権力主義」が強烈なのである。逮捕した相手なら尚更である。とにかく起訴に持ち込んで、有罪なら極刑に処したいという異常心理に取り付かれている。冤罪という事実上の犯罪も、こうした心理のなかで行われるのではないか。冷静な捜査が行われてない要因は、「決め付け」や「見込み」「思い込み」で行われているのではないか。
◆冤罪の「冤」は、<軽冂(けい)と兔>を組み合わせた文字である。兔(うさぎ)が、冂(境界)のうちに捕らえ、逸脱(逃げること)することができない状態を表わしている。無実であるのに犯罪者として扱われ、罪を着せられて刑罰を受けるという意味である。
国家権力の手にかかると、国民は、袋のネズミどころか、頑丈な柵(牢獄)の兔にされて、恐ろしい目に遭わされてしまう恐れがあることを忘れてはならない。「濡れ衣」を着せられて死刑判決を受け、絞首刑を執行された者は、過去に多数いると見られている。
 このところ、「冤罪事件」が白日の下にさらされて、警察、検察の捜査当局ばかりか、罪刑を確定する裁判所の相次ぐ「失態」に国民から厳しい批判の矢が浴びせられている。
まず、鹿児島県の志布志冤罪事件である。平成15年(2003)四月の鹿児島県議会議員選挙で当選した県議らが住民十一人に一九一万円を配った疑いで、志布志市に住む十五人が県警に逮捕された。このうち十三人が公職選挙法違反罪で鹿児島地方裁判所に起訴されている。
 ところが、警部補が取調室で容疑者の男性に「お前をこんな人間に育てた覚えはない ○○(父の名)」「早く正直なじいちゃんになってください ○○(孫の名)」などと書いた紙を、男性の両足首をつかんで「踏み字」を強要したことなどが明らかになったのである。
このため、鹿児島地裁は平成19年(2007)年2月、「強圧的な取り調べによって引き出された被告人たちの自白は信用できない」として、被告人12人全員(1人死亡)に無罪を言い渡した。検察側は控訴をあきらめ、無罪が確定した。警部補は罪に問われて、間もなく退職し、平成20年(2008)3月、「取り調べの方法としてまともではなく違法」として有罪判決を受け、刑が確定している。
次に、富山冤罪罪事件である。平成14年(2〇〇2)年1月と3月に、富山県氷見市で女性への暴行事件などが発生した。富山県警は4月にタクシー運転手の男性を逮捕し、長時間の取り調べを行い、自白を迫ったのでした。
富山地裁は、男性に懲役3年の実刑判決を言い渡しました。二年一か月、富山刑務所に服役し、仮釈放された後の平成十八年(二〇〇六)八月、別の男が「自分が氷見市の二つの事件をやった」と自白したことから、冤罪事件と判じ、男性は平成⑲年(2007)10月、再審(裁判のやり直し)によりで無罪が確定している。
しかし、男性は「顔と名前を公表した富山県警の行きすぎた取り調べは、法律違反である」と訴えている。
◆さらに多くの国民に衝撃を与えたのは、足利冤罪事件であった。平成2年(1990)5月12日、父親が足利市内のパチンコ店でパチンコに熱中している間に、同店駐車場から女児(四歳)が行方不明になり、五月十三日、渡良瀬川の河川敷で遺体が発見された。
 栃木県警捜査本部は、総勢一八〇人余の態勢で捜査をしていたが、平成3年(1991)12月2日、「女児の下着に付着していた体液のDNA型と、被疑者のDNA型が一致した」として、同市内に住む幼稚園バス運転手・菅家利和さん(当時四十五歳)を猥褻目的誘拐と殺人の容疑で逮捕した。
菅家さんは、警察や検察の厳しい取り調べに堪え切れず、犯行を自白。しかし、第一審・宇都宮地裁の公判の途中(第六回公判)から否認に転じ、無罪を主張していた。だが、無期懲役判決を受け、東京高裁(高木俊夫裁判長)は平成8年(1996)5月9日、控訴棄却。最高裁も平成十二年(二〇〇〇)年七月十七日、「DNA型(MCT118)鑑定の証拠能力を認める」との初判断を示し、第一審の無期懲役判決が確定したのであった。
その後、菅家さんは優秀な弁護士に恵まれ、平成14(2002)12二月、宇都宮地裁に対し、再審請求を申立てた。だが、同地裁(池本寿美子裁判長)は、平成20年(1008)2月13日、これを棄却していた。これに対して、菅家さんは、東京高裁に即時抗告した。
弁護側は、「事件当時、DNA鑑定(正しくはDNA型鑑定)は警察庁科学警察研究所に導入されたばかりであり、信頼性に疑問がある」と主張し、これを受け入れた同高裁はDNA再鑑定を行うことを決定、同鑑定の結果、菅家さん犯人の同一性に疑問が生じたため、平成21年(2009)6月23日、同高裁(矢村宏裁判長)は原決定を取り消して、再審開始を決定した。DNA鑑定を盲信した結果、招いた冤罪であったが、幼児のシャツが残されていたのが、幸いした。しかし、菅家さんは、千葉刑務所に14年間も、服役していた。
釈放後、記者会見に臨んだ菅家さんは、逮捕されてからの取り調べの状況に対し「刑事達の責めが酷かったである。『お前がやったんだろ、お前は現場に行ってた筈だ』とか『早く吐いて楽になれ』と言われました」と述べており、その他、殴る蹴るの暴行や、頭髪を引っ張られる等、拷問に等しい暴行を受けていた。甲を取り調べた刑事達については「私は刑事達を許す気になれません」とも述べている。
足利事件とほぼ同時期に起きた事件で、DNA型鑑定により被疑者が逮捕されたのが飯塚事件であった。
平成4年(1992)2月20日、福岡県飯塚市の小学校一年生だった女児二人(当時七歳)が登校中に行方不明になった。その後、同県甘木市(現在の朝倉市)の雑木林で殺害され遺棄されているのが発見された。死因は窒息死であった。同じ「MCT118」という検査法を用いて、DNA型鑑定により、久間三千年が逮捕、起訴され、死刑判決を受けた。死刑囚となった久間は冤罪を主張し、弁護団は再審のための準備をしていた。
しかし、死刑判決確定から2年2か月弱の平成20年(2008)10月28日に福岡拘置所でKの死刑が執行された。70歳であった。再審を待たずして死刑が執行されたのである。
死刑執行命令を出したのは、麻生太郎内閣の森英介法相だった。大臣就任後一か月しか経っていなかった。執行時のKの死刑判決順位は100人中61番目で、先に死刑が確定している死刑囚で再審請求をしていない者も数多くいたにも関わらず、異例に速い死刑執行であった。
ところで、戦後の大事件のなかで、「四大死刑冤罪事件」と呼ばれているものがある。死刑判決が確定した死刑囚が、再審裁判を受けて、無罪を勝ち取り、晴れて自由の身になった事件である。
①免田事件=昭和23年(1948)、熊本県人吉市の一家4人が就寝中に襲われ夫婦が即死、娘二人も重傷を負った。翌年、免田栄さんが別件で逮捕され、無罪を勝ち取るのに三十四年を費やした。
②財田川事件=昭和25年(1950)、香川県財田村の闇米ブローカーが惨殺される。同年4月に強盗傷害事件で逮捕された19歳の少年(谷口繁義さん)がこの事件の犯人とされ、無罪獲得まで33年を費やした。
③島田事件=昭和29年(1954)、静岡県島田市の幼稚園から六歳の少女が連れ去られ、のちに遺体で発見。五月に軽度の知的障害と精神病歴のある男性(当時25歳)が窃盗(賽銭泥棒)容疑で別件逮捕され、厳しい拷問を受けて、自白を強要された。死刑判決を受けて服役し三十四年以上が経った平成元年一月に無罪判決が下されている。
④松山事件=昭和30年(1955)10月、宮城県志田郡松山町で農家が全焼し、焼け跡から一家4人の惨殺体が発見された。斉藤幸夫(当時24歳)が12月に、別件で逮捕、起訴され、死刑判決を受け、死刑囚として28年7か月を獄中で過ごしている。
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