結論だけを先に述べておこう。「靖国神社」の英霊は、「民族を統合する天皇」が主宰する祭祀により、未来永劫、慰霊・顕彰され続けらねばならない。理由は、以下の通りでる。
小泉首相の「靖国神社参拝」問題で、国論が2分しているうえに自民党の加藤紘一元幹事長の実家・事務所が、右翼メンバーのテロで全焼させられる事件が起きるなど、不穏な情勢になっているのでこの際、「天皇陛下と国民の関係」について、改めて整理しておく必要があろう。
まず、社会科学の学問的立場から、概念を押さえて、そのうえで「天皇陛下と国民の関係」について、分析する必要がある。それは「民族」「国家」「体制」の3つの概念である。
民族は、国家の母体であり、国家の「体制」は、言うまでもなく依って立つ政治・経済体制の違いによって、異なっている。
現代日本において、「天皇」には、2つの意義を持って存在している。1つは、母体としての「民族」を統べている「天皇」、もう1つは、国家機関としての「天皇」である。
この2つの「天皇」が、混同して語られるところに、「靖国神社問題」の混迷の源がある。
近代的な意味の国家を形成していなかった幕藩体制が終焉するまでは、天皇は、民族を統べる権威としての存在であった。明治維新によって、成熟した市民社会を基盤とする国民国家を建設を目指した。その発展途上において、天皇は、「民族を統合する天皇」と「立憲君主制」の統治者という「国家機関の頂点」に立つ機能の両方を担わされた。「民族を統合する天皇」が、京都御所から東京に下向し、さらに「国家機関としての天皇」にもなったのである。
明治天皇が、京都を出るとき、「必ず京都に帰る」と言い残したという伝説を今日まで京都人の多くが信じていると言われるのも、天皇の2つの意味を示している。おそらく、明治天皇は「日本の近代化」を見届けた暁には、京都に帰るお気持ちだったのであろう。 しかし、この明治天皇の願望は、ついに果たされず、大正、昭和と三代にわたり、「立憲君主制」が存続することになった。
昭和20年(1945)8月15日の敗戦を契機に、GHQの強権により、「立憲君主制」は、自由民主主義の下で「象徴天皇」という「国家機関」に改められたものの、天皇は、東京から京都に帰るチャンスも与えられず、旧江戸城に留め置かれたままの状態になっている。
しかし、早とちりしてはならないのは、「民族を統合する天皇」は、単なる「日本国の象徴」というような軽々しい存在ではない。「民族の長」とも言うべき実態を持ったれっきとした存在なのである。
靖国神社は、「民族を統合する天皇」と「国家機関としての天皇」という2つの意味を持った天皇の下で、英霊を祀る「国家機関」として存在してきたけれど、戦後は、新憲法の規定する「政教分離の原則」により、「宗教団体」の1つとして国家から切り離され、見捨てられる存在に貶められてきた。
しかも、「国家機関としての天皇」が参拝する「追悼施設」は、未だに建設されていない。
否、日本国憲法の下では、「軍隊」の保持が許されていないのであるから、軍人は存在せず、実は、「戦死者」が発生することはあり得ない。陸海空の自衛官は、憲法上は、「軍人」ではない。つまり、憲法改正により国軍が再建されない限り、新しい「追悼施設」を建設する必要性がないとも言える。あえて「追悼施設」を建設するならば、それは、戦死者ではなく、「公務死者」の英霊を祀り、顕彰することになる。
この意味では、与野党のなかで「靖国神社」に代わる「無宗教の追悼施設」を建設しようとしている動きは、現憲法上からいっても無意味であり、戦死者もいない施設に参拝するのも、間抜けな話である。
だが、しかし、大事なのは、本来「民族を統合する天皇」が中心になって祭事を行なうべき「靖国神社」の存在が、日本民族の多くから、放棄され、見捨てられたわけではないということである。うつろいやすい「国家機関としての天皇」よりも、「民族を統合する天皇」の意味合いの方が貴重であり、文化的存在としても大事なのである。
「国家機関としての天皇」のあり方が、国家、体制の変化によって変わっても、「日本民族を統合する天皇」の存在は、依然として「神聖」にして「不可侵」である。これに対して、中国、韓国など外国勢力がいちゃもんをつける理由はない。内政干渉も許してはならない。
昭和15年(1940)11月10日、紀元2600年の祝典から、早や66年を経て、この「民族を統合する天皇」の存在は、日本民族がこの地球上に存在している限り不変であり、「靖国神社」の英霊は「千代に八千代に」未来永劫、「日本民族を統合する天皇」主宰の祭祀によって、祀られ、顕彰され続けられねばならない。 ともあれ、秋篠宮紀子妃殿下が、無事、男子を安産されることが待ち遠しい。
小泉首相の「靖国神社参拝」問題で、国論が2分しているうえに自民党の加藤紘一元幹事長の実家・事務所が、右翼メンバーのテロで全焼させられる事件が起きるなど、不穏な情勢になっているのでこの際、「天皇陛下と国民の関係」について、改めて整理しておく必要があろう。
まず、社会科学の学問的立場から、概念を押さえて、そのうえで「天皇陛下と国民の関係」について、分析する必要がある。それは「民族」「国家」「体制」の3つの概念である。
民族は、国家の母体であり、国家の「体制」は、言うまでもなく依って立つ政治・経済体制の違いによって、異なっている。
現代日本において、「天皇」には、2つの意義を持って存在している。1つは、母体としての「民族」を統べている「天皇」、もう1つは、国家機関としての「天皇」である。
この2つの「天皇」が、混同して語られるところに、「靖国神社問題」の混迷の源がある。
近代的な意味の国家を形成していなかった幕藩体制が終焉するまでは、天皇は、民族を統べる権威としての存在であった。明治維新によって、成熟した市民社会を基盤とする国民国家を建設を目指した。その発展途上において、天皇は、「民族を統合する天皇」と「立憲君主制」の統治者という「国家機関の頂点」に立つ機能の両方を担わされた。「民族を統合する天皇」が、京都御所から東京に下向し、さらに「国家機関としての天皇」にもなったのである。
明治天皇が、京都を出るとき、「必ず京都に帰る」と言い残したという伝説を今日まで京都人の多くが信じていると言われるのも、天皇の2つの意味を示している。おそらく、明治天皇は「日本の近代化」を見届けた暁には、京都に帰るお気持ちだったのであろう。 しかし、この明治天皇の願望は、ついに果たされず、大正、昭和と三代にわたり、「立憲君主制」が存続することになった。
昭和20年(1945)8月15日の敗戦を契機に、GHQの強権により、「立憲君主制」は、自由民主主義の下で「象徴天皇」という「国家機関」に改められたものの、天皇は、東京から京都に帰るチャンスも与えられず、旧江戸城に留め置かれたままの状態になっている。
しかし、早とちりしてはならないのは、「民族を統合する天皇」は、単なる「日本国の象徴」というような軽々しい存在ではない。「民族の長」とも言うべき実態を持ったれっきとした存在なのである。
靖国神社は、「民族を統合する天皇」と「国家機関としての天皇」という2つの意味を持った天皇の下で、英霊を祀る「国家機関」として存在してきたけれど、戦後は、新憲法の規定する「政教分離の原則」により、「宗教団体」の1つとして国家から切り離され、見捨てられる存在に貶められてきた。
しかも、「国家機関としての天皇」が参拝する「追悼施設」は、未だに建設されていない。
否、日本国憲法の下では、「軍隊」の保持が許されていないのであるから、軍人は存在せず、実は、「戦死者」が発生することはあり得ない。陸海空の自衛官は、憲法上は、「軍人」ではない。つまり、憲法改正により国軍が再建されない限り、新しい「追悼施設」を建設する必要性がないとも言える。あえて「追悼施設」を建設するならば、それは、戦死者ではなく、「公務死者」の英霊を祀り、顕彰することになる。
この意味では、与野党のなかで「靖国神社」に代わる「無宗教の追悼施設」を建設しようとしている動きは、現憲法上からいっても無意味であり、戦死者もいない施設に参拝するのも、間抜けな話である。
だが、しかし、大事なのは、本来「民族を統合する天皇」が中心になって祭事を行なうべき「靖国神社」の存在が、日本民族の多くから、放棄され、見捨てられたわけではないということである。うつろいやすい「国家機関としての天皇」よりも、「民族を統合する天皇」の意味合いの方が貴重であり、文化的存在としても大事なのである。
「国家機関としての天皇」のあり方が、国家、体制の変化によって変わっても、「日本民族を統合する天皇」の存在は、依然として「神聖」にして「不可侵」である。これに対して、中国、韓国など外国勢力がいちゃもんをつける理由はない。内政干渉も許してはならない。
昭和15年(1940)11月10日、紀元2600年の祝典から、早や66年を経て、この「民族を統合する天皇」の存在は、日本民族がこの地球上に存在している限り不変であり、「靖国神社」の英霊は「千代に八千代に」未来永劫、「日本民族を統合する天皇」主宰の祭祀によって、祀られ、顕彰され続けられねばならない。 ともあれ、秋篠宮紀子妃殿下が、無事、男子を安産されることが待ち遠しい。