世界の中の日本―これからの50年

2006年01月04日 18時05分31秒 | 政治
 日本は戦後60年、人間で言えば「還暦」を経て「熟年国家」になった。自民党は昭和30年(1955)11月15日に立党して以来、十か月の野党時代を除き、ほぼ半世紀にわたり、政権政党として日本の平和と安全を確保し、繁栄を築くことに貢献してきた。平成17年(2005)11月22日には、立党50周年記念大会を無事終えて、次なる「50年」に向けて第一歩を踏み出している。
 だが、自民党は立党時に決定の党綱領に掲げた「文化的民主国家の完成」「自主独立の完成」「民生の安定と福祉国家の完成」という三大目標を完全に達成できたかと問えば、まだ不完全であると言わざるを得ない。このため、これからの50年はこの「三大目標」を名実ともに「実現」させるべく、引き続き全力を上げて行くことが求められる。日本は、いよいよ「円熟した文化国家」の「完成」を図り、国際社会において「名誉ある地位」を築いて行く段階に入っている。しかも、これは単なる「努力目標」であってはならず、「コミットメント(必達目標)」として必ずや実現しなくてはならない。
 この大会では自民党憲法起草委員会委員長の森喜朗前首相が、新憲法草案を正式に発表した。「憲法改正」は立党以来、党是の柱の1つであり、新憲法草案は、「戦争放棄」を定めた現憲法の「第九条一項」はそのままにして、「第二項」で「自衛軍」を明記している。「立党50年」にしてついに悲願達成の目前にまで到達したことを印象づけた。
 日本国憲法は、連合国軍最高司令官・マッカーサーが昭和21年(1946)2月3日、GHQ民生局に戦争放棄など三原則を示し、日本国憲法草案の作成を命令、同月13日、GHQが日本政府に憲法草案(英文)を手交して制定された。
 しかし、日本国憲法は、「独立国」としての憲法とは言えず、歴史と文化伝統を踏まえた「日本民族の魂」が打ち込まれていないため「画竜点睛」を欠いている。主な「欠陥部分」は、以下のようである。
 ①明治憲法の規定に基づき改正手続きを経ているとはいえ、未だかつて一度も国民投票により賛否を問うていない。
 ②国連憲章を受けた「前文」に「国際協調主義」をうたいながら、「協調」の仕方について明記していない。ちなみにサンフランシスコ平和条約締結後も国連憲章の「敵国条項」から日本が削除されていないので、形式上、日本は未だに「敵国」であり、軍事的な面での国際協調や国際貢献ができる国にはなっていない。
 ③元首であるべき「天皇」の規定が抽象的にすぎる憾みがある。
 ④第九条第二項は解釈上、自然権としての「自衛権」の存在を認めているにしても、実定法上の「自衛権」の根拠が曖昧であり、国民の「愛国心」と「国を守る気概」を希薄にさせ、萎えさせるマイナス効果を有している。
 ⑤第十三条の「個人の尊重」規定は、当然の規範であるとしても、「過度の個人主義」が社会に蔓延し、親殺し、子殺しなど凶悪犯罪が多発している現状に鑑み、憲法規定上も是正、改良されるべきである。
 ⑥第二十五条は生存権を認めながら、「住居保障」の規定がなく、ホームレスを生む元凶になっている。守るべき最低限の住居が保障されていなければ、国家防衛に対する国民意識を喚起、高揚することはできない。
 ⑦第九十六条(改正条項)の「各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案して」という行は、「硬性憲法」と言われるように「改正」しにくい規定になっており、激変する現代社会に臨機応変に対処できない。
 何よりも肝に命じておかなくてはならないのは、日本国民は、有史以来、一度も国民の手により憲法を制定したことがないという事実である。「十七条憲法」は聖徳太子が下された憲法であり、「明治憲法」は、明治天皇による欽定憲法であり、「日本国憲法」はマッカーサー憲法である。日本国憲法の改正が実現すれば、日本史上初の「国民憲法」の制定となり、文字通り画期的な出来事となる。
 もう一つ「日本民族の魂」にかかわる重要な問題がある。それは、「教育基本法」に「愛国心」や「国を思う心」の記述が欠落している点である。戦前、国民教育の淵源として重んぜられた教育勅語は戦後、廃止され、歴史的文献として棚上げされ、これに代って教育基本法が昭和22年(1947)年3月31日公布され、新しい教育の拠所とされてきた。
 なぜ教育基本法に「愛国心」や「国を思う心」という言葉が盛り込まれなかったのか。この疑問を氷解させてくれる文章が、「新渡戸稲造全集第1巻」の付録の小冊子に掲載されている。教育基本法制定当時、文部省学校教育局長の職にあった日高第四郎・元学習院次長兼同短大学長の「教育基本法とその日本的背景」と題する文章である。日高氏は旧制第二高等学絞教授から文部省に臨時に転出し、教育刷新委員会(後に審議会と改称)の会議で事務的世話役を務めていた。この委員会は、文教刷新に関する諸法律と諸制度の要綱案を諭議し作成するという重大な責任を担当していた。日高氏は、こう明かしている。
 「かくして要綱が決定され内閣に正式に答申されると、文部省はそれに基いて法(律)案を作製し、先ずそれを枢密院会議に諮謁しついで最後の貴、衆両院の議会(第九十二帝国議会)に上程されたのである。その際私共も政府委員として陪席し条文等に関する質疑に応答しなければならぬ立場に立たされたのである。その節私は『個人としては』先に述べた荒木文相の指摘されたような欠陥をはっきり自覚して、前文のどこか適当な個所に日本とか祖国とかいうが如き『国を思う心構え』を表現して欲しいと切望していたのであるが、占領後間もない時期であったから、下手をすれば、戦捷国に対する反抗もしくは復讎の意図を以て国家意識を強調するのではないかという疑惑や誤解をまねく恐れもないとは言えなかったので『政府としては』やむを得ず慎重を期して国民的自覚という意味を伏せておかざるを得なかったと解せられる。(中略)現にあの当時の貴族院議員憂国の志士ともいうべき佐々木惣一博士及び羽田享博士も質疑応答において政府の答弁をきいてその苦衷を十々察知し乍らも、この重要法案の内に、祖国を思う心構えが明確に表明されていないことに深い遺憾の意を表せられたのである」
 教育基本法の改正に当たっては、新憲法の理念を受けて、「民族の魂」を打ち込まなくてはならない。この場合、哲学者や思想家などの専門家に通用しても一般国民にわかりづらい「難解で抽象的な言葉」ではなく、だれにでもわかる「徳目」を盛り込む必要がある。
 日本は、人類史上初めての「人生百歳時代」を迎え、「超高齢社会」に突入している。国民の「個人資産倍増」を図り、高齢者の所得保障と健康維持政策を確立し、「円熟した文化国家」を築いて行く段階に入っている。
 国際社会においては、諸外国との間で「健全で良好な関係」を築いて行かなくてはならない。日本は、太平洋の西端、「極東」の東アジアの一角に位置し、四面海に囲まれた「海洋国家」であり、この地政学的な位置から、日本が進むべき外交路線は、かなり限定されてくる。結論的に言えば、日本は日米同盟を堅持し、日米安全保障条約による安全を確保しながら、大陸国家・半島国家との間での「政治的・軍事的関係」に介入したり、ましてや深入りしたりすることなく、むしろ「通商・文化交流」を中心に「穏やかな関係」を維持して行かなくてはならない。
 中国や韓国、ASEAN諸国は、もはやかつてのような「後発国」ではない。「青年国家」からさらに「成人国家」へと急速に成長してきている。日本でも「反米闘争」が繰り広げられた時期があったように、これらの諸国も成長期には「反抗期」を経験することになる。とくに日米に対しては、ナショナリズム的感情から強く反発する動きも多発するだろう。だが、日本には、「円熟した文化国家」を目指す立場から、「反日デモ」や「反日暴動」が起きても、いたずらに感情的、情緒的になるのではなく「大人の対応」が求められる。
日本は戦後、一度も戦禍に見舞われたことがなく、また一人の戦死者や戦没者を出すこともなく、平和と安全を確保し、繁栄を築き維持してきた。今後もこの経験と実績を活かし、「真に豊かさを実感できる幸福社会」を建設して行く必要がある。
 改めて言うまでもなく、日本の平和と安全、そして繁栄は、数多くの戦死者をはじめ先人たちの犠牲のうえに成り立っている。このことを忘れてはならない。新たな「50年」に踏み出したいま、たとえば、「戦艦大和」の副砲射撃指揮官として特攻作戦に参加して戦死した臼渕磐中尉が遺している言葉を改めてじっくりと噛みしめてみるべきである。
 「進歩のない者は決して勝たない。負けて目ざめることが最上だ。日本は進歩ということを軽んじ過ぎた。私的な潔癖や徳義にこだわって、本当の進歩を忘れていた。敗れて目ざめる、それ以外にどうして日本が救われるか。今目覚めずしていつ救われるか。俺たちはその先導になるのだ。日本の新生にさきがけて敗れる。まさに本望じゃないか」(吉田満著「戦艦大和の最期」より引用)
 政権政党・自民党は、日本の平和と安全そして繁栄のため、また世界人類のために尽力、貢献して行く崇高な目標に向かって、いまこそ勇猛果敢に前進するべきときである。
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