(承前)
(3)最後の審判を待つ人の心境はビジネスに近い
イスラムには法という人間の行動の善悪を定める客観的な基準があるが、キリスト教にはない。
すると、どうなるか。最後の審判への態度が大きく変わる。
最後の審判こそ、キリスト教の性格を形づくり、さらに資本主義を解く鍵になる。
イスラム教の最後の審判では、本人が何を行い、何を考えたか、生前の詳細な記録が背後にいる天使によって記録される。一人一人にデータファイルがつくられる。イスラム法に照らせば、記録された行いが正しかったか違反したか、すぐわかる。悪行と善行、どちらが重いか秤にかける。こうして責任を追及されるが、弁明のチャンスもある。
そんな手続きを踏んで判決が下る。合理的だけれど、もし善行と悪行どおりに判決が下るなら神の「裁量」の余地はない。裁かれる人間は判決が予測できる。
判決が予想できるなら、イスラム教の最後の審判では切迫感や終末観は薄れていく。
他方、キリスト教の最後の審判はデータファイルを必要としない。善行も悪行も関係ない。神(イエス・キリスト)がすべてを知っているわけだ。弁明も許されない。だから、どのような判決が下るのかわからない。極めて恣意的だ。裁く側の思いのままだ。しかし、本来、キリスト教はすべの人間は原罪を持っていると考えるから、全員有罪の判決しかあり得ない。
「信じる者は救われる」と、聖書に直接そう書いてあるわけではないが、みんなそう信じている。「信じる者は救われる」ならば、敬虔なキリスト教徒は全員無罪だ。しかし、原罪があるから全員有罪もあり得る。一言でいえば、最後の審判で救われるかどうかは、神の胸三寸だ。イスラム教と比べてキリスト教の最後の審判はとても不確定な状況だ。
でも、キリスト教の最後の審判を待つ人の心境は、ビジネスの現場にいる人間の心理に近いだろう。自分の努力ではいかんともしがたい力・・・・運が作用するから、いまは成功しているかもしれないけれど、安心できない。もっと頑張らねば、と危機感を持つ。あるいは一発逆転の希望もある。
私たちは人生数十年、まあまあ長い人生を生きている。生きているうちか死後かわからないが、必ずイエス・キリストが復活して、最後の審判がはじまる。無罪ならばいい。しかしいくら善行を積んでも、無罪になるわけではない。有罪の裁きが下ったら、自分の人生は何だったのだろうか、と大きな喪失感を抱くのではないか。
有罪になると、エルサレムの近くのゲヘナという場所に連れて行かれ、生きたまま永遠にあぶり焼きにされる。苦しい。こんな最後の審判を信じていたら、地上でおちおち生きていられない。
キリスト教が広まったころは、すぐ終末が訪れると考えられていたから、誰もそんな細かいことを真面目に考えていなかった。最後の審判と言われても、ピンときてなかった。
けれども、そのうち社会秩序ができあがり、どう考えてもキリスト教の教えと関係ない封建社会、身分制社会ができた。領主に支配される農奴は、「何で俺は農業をやらなきゃいけないんだ。そんなことは聖書に書いてあるのか、聖書は読んでないけれど、こんな世の中は間違っていることぐらいわかる」と思うわけだ。
そんな不満を持つ人びとに、教会の聖職者はいう、「おまえたち、いまは苦しんでいるかもしれないけれど、教会税をきちんと払っているだろう。それは教会が、最後の審判のときに、執りなしてやるからなんだぞ」。そう言われて貧乏人や不幸な人びとも納得する。
しかし、教会がイエスに「こいつを救ってやってほしい」と言えるのであれば、地上の不合理を固定化してしまう作用を持つ。
しかも中世のカトリック教会は罪を軽減できる贖罪状(免罪符)を発行した。教会や聖職者は神との取り次ぎもしたのだ。信徒にとって教会は絶大な権威だった。
ルターの時代、教会で売る免罪符は「お金がチャリンと音を立てさえすれば、亡くなった親の魂は、煉獄の炎のなかから飛び出して天国に舞い上がるのだ」みたいに宣伝された。むろん、そんなことは聖書に書いてない。それならもう、これはビジネスだ。来世をネタにした地上ビジネス。
問題は、この地上型ビジネスは、ナザレのイエスの思想と何ひとつ関係がないこと。信徒もよく考えればおかしいと思うのは当然だ。
□佐藤優『あぶない一神教』(小学館新書、2015)/共著:橋爪大三郎
↓クリック、プリーズ。↓

【参考】
●第3章 キリスト教の限界
「【佐藤優】イエス・キリストは「神の子」か ~ キリスト教の限界(1)~」
「【佐藤優】ユニテリアンとは何か ~ キリスト教の限界(2)~」
「【佐藤優】ハーバード大学にユニテリアンが多い理由 ~ キリスト教の限界(3)~」
「【佐藤優】サクラメントとは何か ~ キリスト教の限界(4)~」
「【佐藤優】何がキリスト教信仰を守るのか ~ キリスト教の限界(5)~」
「【佐藤優】第一次世界大戦という衝撃 ~ キリスト教の限界(6)~」
「【佐藤優】なぜバルトはナチズムに勝ったのか ~ キリスト教の限界(7)~」
「【佐藤優】皇国史観はバルト神学がモデル? ~ キリスト教の限界(8)~」
「【佐藤優】米国が選ぶのは実証主義か霊感説か ~ キリスト教の限界(9)~」
「【佐藤優】無関心の共存は可能か ~ キリスト教の限界(10)~」
●第4章 一神教と資本主義
「【佐藤優】資本主義は偶然生まれたのか ~一神教と資本主義(1)~」
「【佐藤優】なぜ人間の論理は発展したのか ~一神教と資本主義(2)~」
「【佐藤優】最後の審判を待つ人の心境はビジネスに近い ~一神教と資本主義(3)~」
「【佐藤優】15世紀の教会はまるで暴力団 ~一神教と資本主義(4)~」
「【佐藤優】隣人が攻撃されたら暴力は許されるのか ~一神教と資本主義(5)~」
「【佐藤優】自然は神がつくった秩序か ~一神教と資本主義(6)~」
「【佐藤優】働くことは罰なのか ~一神教と資本主義(7)~」
「【佐藤優】市場経済が成り立つ条件 ~一神教と資本主義(8)~」
「【佐藤優】神の「視えざる手」とは何か ~一神教と資本主義(9)~」
「【佐藤優】なぜイスラムは、経済がだめか ~一神教と資本主義(10)~」

(3)最後の審判を待つ人の心境はビジネスに近い
イスラムには法という人間の行動の善悪を定める客観的な基準があるが、キリスト教にはない。
すると、どうなるか。最後の審判への態度が大きく変わる。
最後の審判こそ、キリスト教の性格を形づくり、さらに資本主義を解く鍵になる。
イスラム教の最後の審判では、本人が何を行い、何を考えたか、生前の詳細な記録が背後にいる天使によって記録される。一人一人にデータファイルがつくられる。イスラム法に照らせば、記録された行いが正しかったか違反したか、すぐわかる。悪行と善行、どちらが重いか秤にかける。こうして責任を追及されるが、弁明のチャンスもある。
そんな手続きを踏んで判決が下る。合理的だけれど、もし善行と悪行どおりに判決が下るなら神の「裁量」の余地はない。裁かれる人間は判決が予測できる。
判決が予想できるなら、イスラム教の最後の審判では切迫感や終末観は薄れていく。
他方、キリスト教の最後の審判はデータファイルを必要としない。善行も悪行も関係ない。神(イエス・キリスト)がすべてを知っているわけだ。弁明も許されない。だから、どのような判決が下るのかわからない。極めて恣意的だ。裁く側の思いのままだ。しかし、本来、キリスト教はすべの人間は原罪を持っていると考えるから、全員有罪の判決しかあり得ない。
「信じる者は救われる」と、聖書に直接そう書いてあるわけではないが、みんなそう信じている。「信じる者は救われる」ならば、敬虔なキリスト教徒は全員無罪だ。しかし、原罪があるから全員有罪もあり得る。一言でいえば、最後の審判で救われるかどうかは、神の胸三寸だ。イスラム教と比べてキリスト教の最後の審判はとても不確定な状況だ。
でも、キリスト教の最後の審判を待つ人の心境は、ビジネスの現場にいる人間の心理に近いだろう。自分の努力ではいかんともしがたい力・・・・運が作用するから、いまは成功しているかもしれないけれど、安心できない。もっと頑張らねば、と危機感を持つ。あるいは一発逆転の希望もある。
私たちは人生数十年、まあまあ長い人生を生きている。生きているうちか死後かわからないが、必ずイエス・キリストが復活して、最後の審判がはじまる。無罪ならばいい。しかしいくら善行を積んでも、無罪になるわけではない。有罪の裁きが下ったら、自分の人生は何だったのだろうか、と大きな喪失感を抱くのではないか。
有罪になると、エルサレムの近くのゲヘナという場所に連れて行かれ、生きたまま永遠にあぶり焼きにされる。苦しい。こんな最後の審判を信じていたら、地上でおちおち生きていられない。
キリスト教が広まったころは、すぐ終末が訪れると考えられていたから、誰もそんな細かいことを真面目に考えていなかった。最後の審判と言われても、ピンときてなかった。
けれども、そのうち社会秩序ができあがり、どう考えてもキリスト教の教えと関係ない封建社会、身分制社会ができた。領主に支配される農奴は、「何で俺は農業をやらなきゃいけないんだ。そんなことは聖書に書いてあるのか、聖書は読んでないけれど、こんな世の中は間違っていることぐらいわかる」と思うわけだ。
そんな不満を持つ人びとに、教会の聖職者はいう、「おまえたち、いまは苦しんでいるかもしれないけれど、教会税をきちんと払っているだろう。それは教会が、最後の審判のときに、執りなしてやるからなんだぞ」。そう言われて貧乏人や不幸な人びとも納得する。
しかし、教会がイエスに「こいつを救ってやってほしい」と言えるのであれば、地上の不合理を固定化してしまう作用を持つ。
しかも中世のカトリック教会は罪を軽減できる贖罪状(免罪符)を発行した。教会や聖職者は神との取り次ぎもしたのだ。信徒にとって教会は絶大な権威だった。
ルターの時代、教会で売る免罪符は「お金がチャリンと音を立てさえすれば、亡くなった親の魂は、煉獄の炎のなかから飛び出して天国に舞い上がるのだ」みたいに宣伝された。むろん、そんなことは聖書に書いてない。それならもう、これはビジネスだ。来世をネタにした地上ビジネス。
問題は、この地上型ビジネスは、ナザレのイエスの思想と何ひとつ関係がないこと。信徒もよく考えればおかしいと思うのは当然だ。
□佐藤優『あぶない一神教』(小学館新書、2015)/共著:橋爪大三郎
↓クリック、プリーズ。↓



【参考】
●第3章 キリスト教の限界
「【佐藤優】イエス・キリストは「神の子」か ~ キリスト教の限界(1)~」
「【佐藤優】ユニテリアンとは何か ~ キリスト教の限界(2)~」
「【佐藤優】ハーバード大学にユニテリアンが多い理由 ~ キリスト教の限界(3)~」
「【佐藤優】サクラメントとは何か ~ キリスト教の限界(4)~」
「【佐藤優】何がキリスト教信仰を守るのか ~ キリスト教の限界(5)~」
「【佐藤優】第一次世界大戦という衝撃 ~ キリスト教の限界(6)~」
「【佐藤優】なぜバルトはナチズムに勝ったのか ~ キリスト教の限界(7)~」
「【佐藤優】皇国史観はバルト神学がモデル? ~ キリスト教の限界(8)~」
「【佐藤優】米国が選ぶのは実証主義か霊感説か ~ キリスト教の限界(9)~」
「【佐藤優】無関心の共存は可能か ~ キリスト教の限界(10)~」
●第4章 一神教と資本主義
「【佐藤優】資本主義は偶然生まれたのか ~一神教と資本主義(1)~」
「【佐藤優】なぜ人間の論理は発展したのか ~一神教と資本主義(2)~」
「【佐藤優】最後の審判を待つ人の心境はビジネスに近い ~一神教と資本主義(3)~」
「【佐藤優】15世紀の教会はまるで暴力団 ~一神教と資本主義(4)~」
「【佐藤優】隣人が攻撃されたら暴力は許されるのか ~一神教と資本主義(5)~」
「【佐藤優】自然は神がつくった秩序か ~一神教と資本主義(6)~」
「【佐藤優】働くことは罰なのか ~一神教と資本主義(7)~」
「【佐藤優】市場経済が成り立つ条件 ~一神教と資本主義(8)~」
「【佐藤優】神の「視えざる手」とは何か ~一神教と資本主義(9)~」
「【佐藤優】なぜイスラムは、経済がだめか ~一神教と資本主義(10)~」
