辺野古移設の真実


「翁長知事・県議会は撤回せよ謝罪せよ」
「一九七一Mの死」
4月30日より県内書店で発売しました。

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「沖縄に内なる民主主義はあるか」
第六章 八重山教科書問題はなにが問題だったか全文
第五章 普天間飛行場の移設は辺野古しかない全文
第四章 基地経済と交付金の沖縄経済に占める深刻さ全文
第三章 県議会事務局の米軍基地全面返還したら9155億5千万円経済効果試算の真っ赤な嘘全文
第二章 命どぅ宝とソテツ地獄全文
第一章 琉球処分は何を処分したか全文

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辺野古移設の真実
辺野古移設が決まるまでの過程を見ると日本が議会制民主主義国家であることがよく理解できる。国家事業だからといって国が勝手に事業を進めることができないのが議会制民主主義国家である。地方自治体に認められた権利を国が破ることは許されない。国家事業も地元の自治体が同意しない限り進めることはできない。それが議会制民主主義国家である。 
民主主義の冠に「議会制」を置いているのには理由がある。日本は直接民主主義国家ではなく議会制民主主義国家であるが、だからというわけではない。民主主義にはまやかしの民主主義もあり、民主主義といっただけではまやかしの民主主義に非難されたりするからだ。本当の民主主義とか本当ではない民主主義とかで主張し合うのは消耗するだけである。革新も民主主義を主張しているし、辺野古移設反対の翁長知事が当選し、また世論調査でも辺野古移設反対が80%もあり、沖縄の民意は辺野古移設反対であり、民主主義であるならば辺野古移設を中止するのが当然であると革新は主張している。本当に革新の主張が民主主義なのかと論争しても並行線になるだけだろう。はっきり言えることは日本は民主主義国家であることだ。
共産党は資本主義社会の議会制民主主義を資本民主主義と呼んでいる。資本主義社会の国家は労働者階級を搾取している資本家階級のための国家であるということをレーニンが理論にし、日本共産党はレーニンの理論を受け継いでいるからだ。共産党は資本民主主義に対抗して民族民主主義なるものを考えだした。革新が主張している民主主義は共産党が考えだした民族民主主義のことであり資本主義社会である日本の議会制民主主義のことではない。彼らは日本の議会制民主主義を認めていない。翁長知事や革新も議会制民主主義を無視している。無視した上で民主主義を主張している。民族民主主義も翁長・革新の民主主義もまやかしの民主主義である。議会制民主主義のほうが本当の民主主義である。
政府は議会制民主主義に則って辺野古移設計画を進めていった。政府は辺野古区、名護市、県の了承を得るために粘り強く民主的な交渉をした。そして、辺野古移設を決めた。辺野古移設は議会制民主主義の手続きによって決まったのである。それが辺野古移設の真実である。


1995年
9月4日米兵による少女暴行事件発生。

1996年
3月22日 大田知事が橋本首相との会談で普天間基地の早期返還を要求。首相は「現状は厳しい」と発言。
4月12日 橋本首相とモンデール駐日米国大使が普天間飛行場を5年から7年以内に返還すると発表。
4月14日 普天間返還は移設条件付であることが判明。
6月.26日 米軍が普天間移設3候補地(キャンプ・シュワブ、キャンプ・ハンセン、嘉手納弾薬庫)を提案していたことが判明。
9月17日 橋本首相来県、講演で撤去可能な海上基地建設検討を表明。
10月18日 日本政府は関係省庁の専門家で構成するグループ、および学識経験者を中心とするグループ、TAG( 技術支援グループ)を設置し、施工法について研究を行った。TAGの座長は横浜国立大学教授だった合田良実。初会合は10月18日防衛庁で開催された。
海上ヘリポートに求められた土木的な条件
○沖縄本島東岸沖
○滑走路の長さは1500m。
○沖縄本島周辺の100年確率波浪などに対して安全性、耐久性を確保すること。
○想定水深は5m、25mの2案。
これを民間団体や企業に提示して技術提案を募り、その内容を検討した。

検討を経て、最終報告では杭打ち桟橋、ポンツーン方式メガフロート、セミサブ方式メガフロートの3案が現実的に実現可能として併記された。

1、杭打ち桟橋工法(QIP工法)
海底に固定した鋼管杭により、滑走路や建築物の基礎となる上部工を支持する構造。
施工はまず鋼板製のフローティングモジュールを工場等で製作し、次いで海上の設置場所まで曳航する。モジュールには予め支えにする鋼管杭の何割かを取り付けておき、設置場所でジャッキによりおろして海底に固定する。その後、今度は杭を更に伸ばしてモジュールを海面よりも上に持ち上げる。これらの作業が終わった後に残りの鋼管杭を取り付け、隣接するモジュールとの接続作業を実施する。基本計画の作成から設計に1年半、施工には3年程度と見積もられた。費用は100万平方メートル規模で2000億円(想定水深25m)。陸上とは連絡橋を用いて行き来する。設計技術、安全基準の評価が進み、実用化が最も進んだ工法と言われている。

2、メガフロート(ポンツーン方式)案
提案したのは1990年に設立された造船、鉄鋼、建設など96社で構成する「マリンフロート推進機構」であった。1995年4月には運輸省などの支援を受けて造船、鉄鋼など17社からなる「メガフロート技術研究組合」が発足し、3ヵ年で本方式のメガフロートを実現するための研究に着手した矢先に、基地移設問題が出てきた。研究会はこの時既に神奈川県横須賀市沖に、長さ100m、幅20m、厚さ2mの鋼製の浮体ユニットを展開し実験を開始していた。
設計には1年、施工には4年半かかると見積もられた。使用する鋼材は90万トン。1トン当たりの建設費は20万円であった。
 揺れの問題については米軍筋から疑問が呈され、「いくら防波堤があるとは言え、台風が来れば海面は揺れるし、橋の通行が不能になれば軍事基地の用をなさない」と使用上の制約に難色を示していた。

3、メガフロート(セミサブ式)案
関西国際空港1期工事の工法を検討していた1970年代後半に提案されたことがあるが、当時コストと耐久性についての技術的課題が未解決であったため棄却された経緯がある。長さ、幅はポンツーン方式と同じで厚さは12m。内部の利用法もポンツーン方式と同じである。メガフロートとしてはポンツーン方式より先に考案されたが、波浪を防波堤で遮断しないため構造物の強度が必要になる。メリットとしては水深の深い場所でも建設が可能なことである。コスト面ではポンツーン、QIPより割高で、両工法に比較して2倍以上。また、陸上との連絡方式は船舶となる。

その他の提案
SACO中間報告などを前提に日本政府でヘリポート検討が進められるのと並行して、民間からも様々な提案が行われた。

重力着底型プラットフォーム案
英略称SBSP。大林組により1996年10月、防衛庁に提案された。水深100mまで対応可能。コンクリート製の重力式基礎を海底に設置し、海面上に鋼製脚を伸ばしてデッキを上に載せ連結する。波の影響を受けにくく、コストや環境の面でも有利であり、メガフロートよりも安価に出来ると説明された。工事期間は2年から2年半で、波に強い特性から防波堤は不要である。

移動海上基地(MOB)案
アメリカ軍が研究を始めていた。1996年9月に橋本首相が海上ヘリポート案を示した際一気に世間の注目を浴び、一時は有力候補と目され、当時の海兵隊司令官であったクルラックなど、関係者が期待を示している。

11月16日 久間章生防衛庁長官が「キャンプ・シュワブ沖が有力」と言及。

普天間飛行場の移設について海外移設も含め多くの案が検討された。

海外移設案
アメリカ海軍系のある研究機関ではオーストラリアへの移転も含めた撤退シナリオも研究していたという。これは、佐世保と横須賀の海軍基地の維持のために、普天間については手放すシナリオを想定した内容であった。
当時のアメリカ軍には朝鮮半島の緊張状態は早期にカタがつくという楽観論があり、かつ将来の仮想敵である中国との戦いでは海兵隊は有用ではなく、海兵隊の活躍の場は湾岸にあるという考えがあった。
しかし、米豪の国防当局者は「アメリカ海兵隊のオーストラリアでの訓練の拡大は、沖縄における米軍基地の整理、縮小の動きとは関係ない」との理由で海外移転は棄却された。

国内移設の検討
日本本土の移設候補地としては高知県、苫小牧東などが検討対象に上がった。沖縄本島内での移設候補地は、多数の案が俎上に上がった。
日米は移設候補地の選定ではまず嘉手納弾薬庫地区と嘉手納飛行場が候補地として取り沙汰される。候補地に挙げられた地元の反応は早く、この時点で反対集会が実施された。
候補地は嘉手納弾薬庫、キャンプ・ハンセン、キャンプ・シュワブ、嘉手納飛行場となっており、宜野座村の潟原海岸を埋め立てて使う案もあった。その他に浦添沖、ホワイト・ビーチ訓練水域のある本島南部の中城湾なども候補地に挙がったこともあった。
日本側は5月9日に国内調整を進めるために「普天間返還作業委員会」(委員長:古川官房副長官)を組織した。

嘉手納弾薬庫案
アメリカ側から海兵隊のヘリが集結するのに十分な大きさを持つ基地として、嘉手納弾薬庫地区が最適地に挙げられた。しかし、弾薬庫への移転案については読谷村など予定地周辺が農業用ダムの水源となる森林地帯で、希少動物の宝庫であることから環境に悪影響が出るとして強く反対した。
嘉手納弾薬庫地区は開発の波に晒されず、豊かな自然が残された。この点に着目した反対派は同地で調査を行い、15種の希少生物が生息していると発表した。こうした動きから、県も地元と同様の見解を防衛庁に伝え、7月初頭には本案は沙汰止みとなった。

嘉手納飛行場統合案
嘉手納弾薬庫地区の次に浮上したのが、嘉手納飛行場への統合案であった。

アメリカ軍は3点の理由から日本側に反対した。
1.低速のヘリと高速の戦闘機を管制官が同時に管制するのは負担が大きい。
2.移設が実行されれば平時でもヘリ、戦闘機が各々60~70機ずつ訓練を行う飛行場となる。有事には増援などにより2~3倍の機体が集結すると考えられ、それを嘉手納一ヵ所で賄う事は不可能。
3.嘉手納は当時から騒音が問題視されており、P‐3Cの駐機場を移転したり、防音壁を設置したりしていた。普天間の機体を収用すれば嘉手納、北谷両町にとっては更に劣悪な環境となる。

嘉手納統合案については海兵隊は移転可能との意見を出したが、嘉手納に駐留する空軍の第18航空団は否定的意見だった。

嘉手納統合に代わる移設候補地も検討した。

嘉手納弾薬庫地区(新設)
キャンプ・シュワブ(新設)
伊江島への移転(既設)
県外自衛隊基地への移転(既設)

しかし、いずれも普天間飛行場の代替基地には不適当であると判断された。

キャンプ・ハンセン案[
1996年5月27日に開催したSACOで日米は作業班の設置を決め、嘉手納統合案などと平行してキャンプ・ハンセンおよびキャンプ・シュワブに対する検討を実施した。
キャンプ・ハンセン移転案については次の点が問題視された。
○平坦な地形ではないため工事が難航する。
○経費面で問題。
○森林伐採による赤土流出の可能性がある。
○現状でも夜間ヘリ訓練で騒音問題が発生している。

地元の反発は強く、キャンプ・ハンセンでは6月27日、キャンプ・シュワブでは7月8日以降集会や議会による反対決議などが相次いだ。

橋本首相による海上ヘリポート構想の表明
嘉手納案が消えた際、次に考えたのが陸上から離れ、米軍の使用水域を活用したキャンプ・シュワブ沖の活用案であった。
防衛庁は兵員輸送や住宅など陸上の付属施設の点で難題が多いと慎重姿勢だった。
橋本首相は9月17日、沖縄での講演で海上ヘリポート構想について明らかにした。以降、この発想が世間一般でも広く知られるようになった。

11月16日 防衛庁長官であった久間章生は、「現在地からそう遠くてもいけない。騒音問題もある。キャンプ・シュワブ沖合がかなり有力になるのではないか」と発表する。
12月2日 SACO最終報告が提出された。その中で、代替施設となる海上ヘリポートの機能としては1,300メートルの撤去可能な滑走路を備えることを挙げている。

1997年
8月23日 橋本首相来県、講演で「普天間返還は海上基地建設が前提」と明言。
11月5日 久間防衛庁長官来県、名護市と県に海上基地基本案を提示し、協力要請。
12日21日 ヘリ基地建設の是非を問う名護市民投票(反対:16,254票,賛成:14,269票)で反対が賛成を約2300票上回る
12月24日 比嘉名護市長が橋本首相に海上基地受入を伝え、辞職すると表明。大田知事は海上基地の結論を出す前に翌年1月中旬以降の再会談を約束。

1998年 
2月6日 大田知事、海上基地受入れ拒否を表明。

大田知事が海上基地受け入れ拒否をした理由は県内移設だからであった。革新系の大田知事は県内の全ての米軍基地を撤去する考えであったから、例え普天間飛行場の危険性をなくすためであっても県内移設であれば反対であった。
 
※1995年)9月28日に大田知事は代理署名拒否を表明した。海上基地受入れ拒否を表明したのと理由は同じである。
米軍基地反対の大田知事は一坪反戦地主の代理書名を拒否したのである。一坪反戦地主が署名を拒否した時は県知事が代理署名することを法律で決まっていた。ところが大田知事は代理署名を拒否したのである。それは違法行為であった。これに対して政府は、1995(平成7)年9月29日、地方自治法に基づき、駐留軍用地特措法の規定により義務付けられた本件公告縦覧の手続きに応じるよう沖縄県に勧告し、同年11月29日には「命令」を行った。しかし、大田知事は拒否した。国は知事の代理署名拒否は想定外であったので、代理署名を拒否した場合の対処法をつくっていなかった。反戦地主の契約更改ができなければ米軍基地使用に支障する。追いつめられた国は沖縄県知事を被告とする職務執行命令訴訟を、同年12月7日に福岡高等裁判所那覇支部に提起した。判決の結果、県は敗訴した。県は最高裁判所に上告するが、最高裁判所の判決で上告は棄却され、1996(平成8)年8月28日に沖縄県の敗訴が確定した。

米軍用地の強制使用手続きをめぐる代理署名訴訟の上告審で、最高裁大法廷(裁判長・三好達長官、15人は28日、駐留軍用地特別措置法を合憲と認定、大田昌秀知事の署名拒否は「著しく公益を害することは明らか」として、国側が全面勝訴した1審判決を支持して、大田知事の上告を棄却した。 判決は15人全員一致だった。
判決では、駐留軍用地特措法の適用が「わが国の安全と極東における国際の平和と安全の維持にかかわる国際情勢、土地等の必要性の有無・程度、提供することによってその所有者や周辺地域の住民などにもたらされる負担や被害の程度など諸般の事情を総合考慮してなされるべき政治的、外交的判断を要する」として、国の裁量にゆだねられていると判断し、県側の違憲主張をすべて退けた。
審査の範囲については、国による強制使用認定の適否を審査の範囲外とした福岡高裁那覇支部の判断を否定して、砂川裁判最高裁判決を維持。その上で、使用認定には無効にしなければならないような落ち度はないとの判断を示し、合憲とした。
 反戦地主の代理署名を拒否したような大田知事であったから、辺野古海上案に反対するのは当然と言えば当然である。大田知事が望んでいるのは沖縄からすべての米軍基地が撤去されることであり、普天間飛行場が県内に移設することには反対であった。

2月8日 名護市長選で移設容認派が推進する岸本建男氏が1万6253票を獲得し当選、玉城氏に1150票差。投票率は82.35%。
5月15日 普天間飛行場の県外移設など要請で大田知事訪米。
11月11日 小渕首相 海上基地見直し表明。
11月15日 知事選で県内移設容認(15年使用期限付軍民共用)の稲嶺恵一氏が37万4833票を獲得し初当選。大田昌秀氏との表差3万7464表。投票率76.54%。
1999年
8月21日 宜野湾市議会が県内移設要請決議。
9月.24日 名護市辺野古区行政委員会、陸上・埋め立て案反対決議。
9月.27日 名護市議会「北部地域への新空港早期建設に関する要請決議」否決。
10月15日 沖縄県議会「普天間飛行場の早期県内移設に関する要請決議」可決。
11月19日 第13回沖縄政策協議会が開かれる。稲嶺知事が「早期に移設候補地を表明したい」と発言。政府は北部振興策などの取組方針7項目を提示。
11月22日 稲嶺知事、移設先は名護市の辺野古沿岸沖(キャンプ・シュワブ水域内)と発表。
11月25日 稲嶺知事候補地決定を政府へ伝え、15年使用期限を要請。
12年3日 稲嶺知事が岸本名護市長に移設受入要請。
12月23日 名護市議会、徹夜審議で辺野古沿岸地域への移設促進決議。
12月27日 「普天間」で岸本名護市長、条件付き受け入れ表明。
12月28日 代替施設を「キャンプ・シュワブ水域内名護市辺野古沿岸域」と閣議決定。

2000年
8月25日 普天間飛行場代替施設の基本計画を協議する「代替施設協議会」の初会合開催。国と県、移設先地元の名護、東、宜野座3市村で構成。第15回沖縄政策協議会も開かれ、21世紀プラン最終報告を決定。
1月16日 第5回代替施設協議会。
①くい打ち桟橋(QIP)
②メガフロート(ポンツーン方式)      
③メガフロート(セミサブ式)
3工法について協議。
岸本名護市長は使用期限と基地使用協定で「基本計画と同時並行的に進めてほしい」と要望。工法でも環境に配慮した必要最小限の工事・施設を要請。

6月8日 第7回代替施設協議会、第6回北部振興、第4回移設先・周辺地域振興、第4回跡地対策準備協議会を開催。代替協では代替施設案として3工法8案を提示。岸本名護市長は「基地使用協定、使用期限、振興策は平行して進めるべき、それらの問題に進展がない状況では、早急に結論を出すつもりはない」と明言。提示された工法の工期は6年から18.5年、建設費は1400億円から1兆円、年間維持管理費は7000万円から7億7000万円と試算。
12月27日 第8回代替施設協議会、第8回北部振興、第5回移設先・周辺地域振興、第6回跡地対策準備協議会を開催。建設位置「リーフ上」で可能な限り北東側に建設することで合意。岸本名護市長は「軍民共用でできる限り縮小」との考えを表明

2002年
9月27日 稲嶺知事が県議会で15年使用期限の解決なくして着工はないとの立場を表明。
11月17日 県知事選で稲嶺氏が大差で再選。

2002年8月4日 第九回代替施設協議会で合意された普天間代替施設の基本計画に反発している移設先の名護市辺野古区行政委員会(宮城利正委員長)は3日午後、岸本建男名護市長を招いて会合を開き、決定案より施設を100メートル以上外洋側に移すことなどを口頭で要望した。会合後、岸本市長は、地元の要望に対し「努力したい」と述べ、政府に求める構えを示した。同区行政委は要望を四項目にまとめ、5日午後、岸本建男名護市長に正式に文書で要請する。一方、同市豊原区は3日、同区公民館で行政委員会(城間正昭委員長)を開き、決定案がリーフに掛かる外洋を求めた地元要望と違うとして、移設先3区の全行政委員が集まる拡大合同委員会で、岸本建男名護市長や防衛施設庁に説明を求めることを決めた。
辺野古区の要望
(1)基本計画案より施設を100メートル以上外洋側に移す。
(2)施設を南西側に100メートルから200メートルほど寄せる。
(3)施設自体の幅(730メートル)を100メートル縮小する。
(4)作業ヤードは施設工事完了後、区に無償譲渡する。
これまで区が求めてきた案より、踏み込んだ内容。会合では、岸本市長らが基本計画について、工事の危険性などから現在地に決まった、と説明し理解を求めた。行政委は市に提示していた「外洋側」の2案を挙げ、「ぎりぎりの判断で提示した譲れない内容」と強調した。
                                  「琉球新報」参考
※辺野古沿岸移設でも、同じ場所に作業ヤードを作り、施設工事完了後は区に無償譲渡する約束であった。しかし、現稲嶺市長は作業ヤードを作ることを市長権限で取り消した。

2003年
4月8日 政府が辺野古沖で現地技術調査を開始。

2004年
8月13日 米海兵隊ハワイ所属の大型輸送ヘリCH53Dが沖縄国際大学 の一号館本館に接触、墜落、炎上した。
      幸いなことに犠牲者は出なかったが、人口密集地のど真ん中にある普天間飛行場の危険性を浮き彫りにした事件であった。ヘリコプター墜落は辺野古沖への移設に拍車をかけると思われたが、意外なことが起こる。2004年9月9日に防衛施設局の辺野古沖でボーリング調査が開始されたが、移設反対派はボーリング調査用のやぐらを占拠してボーリング調査を妨害したのである。
※沖国大にヘリコプターが墜落炎上したことは、普天間飛行場周辺の住民の生命が危険であり、危険性をなくすためには辺野古海上に移設したほうがいいことは周知の事実である。しかし、革新系市民は移設に反対し、やぐらを占拠してボーリング調査を暴力で阻止したのである。宜野湾市民の騒音被害や命の危険を危惧するよりも県内移設することに断固反対する革新派市民は人権を軽視している。
 政府は反対派の妨害により海上移設を断念する。

10月1日 小泉首相が在沖米軍基地の本土移転推進の意向を初表明

2005年
2月6日 政府が辺野古移設の見直しを検討していることが明らかに。
2月15日 米連邦議会の海外基地見直し委員会が在沖基地視察で来沖。稲嶺知事が海兵隊の県外移設を要求。
3月10日 小泉首相が辺野古移設の見直しを指示していたことが判明。海上移設を断念した小泉首相は、稲嶺知事の要求もあり、県外移設を目指し、調査を開始した。

※馬毛島は鹿児島県にある無人島である。住民の住んでいる島から12キロメートル離れた場所に馬毛島はある。馬毛島は米軍空母艦載機の離着陸訓練の候補地になっていた。完成すれば嘉手納飛行場の戦闘機も馬毛島で離着陸訓練をやる予定であった。
「馬毛島」のある鹿児島県西之表市の市議会議員らが来県し、嘉手納飛行場を視察した。市議たちは嘉手納飛行場の戦闘機の轟音に驚いた。嘉手納飛行場を視察した市議たちを中心に馬毛島の離着陸訓練への反対運動が広がった。県や地元4市町の反対によって馬毛島の滑走路の建設は中止している。12キロも離れている無人島の「馬毛島」で戦闘機の離着陸訓練する滑走路を造るこことにさえ反対するのが本土の住民である。
普天間飛行場用地の大きさは馬毛島の離着陸訓練用滑走路の比ではない。普天間飛行場移転となると馬毛島と違って海兵隊もやってくる。沖縄のマスコミや米軍基地反対派の人たちは米軍基地被害の凄まじさや海兵隊員の恐ろしさを本土の人たちに発信し続けてきた。だから本土の住民は米海兵隊がやってくることに恐怖し拒否反応が起こるだろう。住民の住んでいる場所から12キロメートルも離れている馬毛島の離着陸訓練用滑走路建設にさえ反対するのだから、普天間飛行場の移設ならもっと激しい反対運動が起こるだろう。西之表市の市議会議員らの「馬毛島」の陸上着陸訓練滑走路建設への拒否反応をみれば、本土の住民が普天間飛行場を受け入れるのは不可能であることがわかる。

6月23日 小泉首相「自分の所へ来てくれるなという地域ばかりだ」と普天間飛行場の本土移転を困難視。本土の自治体の「総論賛成、各論反対」のために県外移設を断念する。
9月27~30日 日米審議官級の非公式協議で、日本のキャンプ・シュワブ陸上案と米側の辺野古リーフ内縮小案(浅瀬案)で調整難航
10月1日 稲嶺知事が県選出国会議員らと意見交換し、普天間代替案のキャンプ・シュワブ陸上案と辺野古リーフ内縮小案(浅瀬案)に否定的な見解を示す。
10月13日 額賀福志郎自民党安保・基地再編合同調査会座長が小泉首相に「沿岸案」を提案。
10月15~17日 米国務・国防省高官が県や県議会ら地元関係者に「普天間」の県内移設を条件に、嘉手納基地以
南の基地を北部に集約する案を説明。
10月26日 日米審議官協議で辺野古沿岸案基本合意。
10月31日 稲嶺知事、北原防衛施設庁長官と会談、午後、沿岸部移設拒否を表明。
11月1日 那覇防衛施設局、辺野古沖調査の一時中止を発表。
11月1日 辺野古、豊原、久志3区の区長が北原防衛庁長官と会談、沿岸案拒否を伝える。
11月7日 宜野座村議会、沿岸案反対を可決。
11月8日 額賀福志郎防衛庁長官が来県し稲嶺知事、岸本建男名護市長と会談。
11月9日 額賀防衛庁長官が記者会見、沿岸案の修正を否定。
11月10日 政府、米軍再編中間報告の取り組み方針を閣議決定。
11月16日 ブッシュ米大統領来日、小泉首相と会談、中間報告の合意内容の実施を要求。
12月3日 麻生太郎外相とラムズフェルド米国防長官が会談。3月の最終取りまとめに向け作業内容確認。
12月16日 県議会が沿岸案反対の意見書を全会一致で可決。
1 2月21日 宜野湾市議会、沿岸案反対を賛成多数で決議。
12月26日 自民党の山崎拓沖縄振興委員長が記者会見、沿岸案推進を言明。

2006年
1月22日 名護市長で沿岸案に反対し、修正案に柔軟姿勢を示す島袋吉和氏が初当選。
2月9日 島袋名護市長が上京。小池百合子沖縄担当相、山崎沖縄振興委員長らと会談。沿岸案反対伝える。
2月23日 自民党県選出・出身国会議員が小泉純一郎首相に沿岸案修正を要請。首相は修正を拒否。
3月9日 稲嶺知事が額賀防衛庁長官と会談。沿岸案拒否を伝える。
3月9日 小泉首相と山崎氏らが会談。シュワブ沿岸部移設案修正を否定。
3月17日 政府、沿岸案の滑走路の向き変更の検討明らかに。
3月21日 小泉首相と額賀防衛庁長官が会談。首相が微修正を容認。
3月5日 沿岸案をめぐり島袋名護市長と額賀防衛庁長官が協議。
3月26日 島袋市長と額賀防衛庁長官が再協議。
3月28日 小泉首相、額賀防衛庁長官、山崎自民党安全保障調査会長、守屋武昌防衛事務次官が会合。沿岸案を原則とする方針を確認。
3月30日 額賀防衛庁長官と金武、恩納、宜野座、東の4町村長が会談。
3月31日 名護、金武、恩納、宜野座、東の5市町村長が会合。
4月4日 島袋市長、額賀防衛庁長官との再協議で上京。100メートル以内で沖合移動 辺野古沿岸案 政府が新微修正案。
名護と政府は4日の会談で、
(1)住民の安全を考慮。
(2)環境保全に考慮。
(3)実現可能性のある移設案を追求。
3点の基本方針を確認した。

4月7日 島袋名護市長が滑走路2本案(V字形案)で政府と合意。宜野座村も政府と基本合意書締結。
5月4日 稲嶺知事、キャンプ・シュワブ陸上部に暫定へリポート整備を求めることなどを盛り込んだ「米軍再編に関する県の考え方」を発表。
5月30日 政府、県の反対を押し切り、米軍再編最終報告の実施に向けた方針を閣議決定。「合意案(V字形案)を基本」としたが具体的な内容は見送り。1999年の閣議決定廃止、新協議機関の設置も決定。
8月18日 稲嶺知事と額賀長官、普天間移設の協議機関の早期設置に向け調整することで合意。知事は暫定ヘリポート案本格討議を要求。
9月26日 安部内閣が発足。久間章生氏が防衛庁長官に就任。
10月7日 稲嶺氏後継として知事選に出馬表明した仲井真弘多氏が政策発表「現行のV字形案では賛成できない」と表明。後に「普天間飛行場の3年内閉鎖状態の実現」を公約。
10月30日 仲井真氏、「(移設先の)ベストは県外だが、県内移設もやむを得ない」とキャンプ・シュワブ沿岸部移設容認を示唆。
11月19日 仲井真氏、県内移設反対の糸数慶子氏を退け、知事に初当選
11月28日 久間長官、「3年内閉鎖状態」について「事実上できない」と否定

2007年
.1月19日 第3回普天間移設措置協議会開催。名護市が約350メートル沖合いに移動する修正案提示。政府は2010年1月ごろの埋め立て工事開始を提示。
2月5日 守屋武昌防衛事務次官が仲井真知事との会談で場周経路の見直しを柱とする普天間飛行場の危険性除去策を提示。
4月25日 仲井真知事、島袋名護市長らとともに防衛省で久間防衛相と会談。市、県が求める沖合移動は進展なし。
8月7日 防衛施設局が県などに環境アセス方法書送付。県と名護市は受け取りを保留。
8月14日 環境アセス方法書の公告縦覧。
10月23日 仲井真知事は「環境アセス手続きの一つとして受け取らざるを得ない」とし、方法書の受け取り保留を解除。

普天間代替施設、政府案より沖へ90m…政府が譲歩方針
 政府は、沖縄県のキャンプ・シュワブ沿岸部(名護市)に建設予定の米海兵隊普天間飛行場(宜野湾市)の代替施設を、2006年に日米両政府が合意した案より90メートル程度、沖合に移動する修正を行う方針を固めた。
 沖縄県や名護市も受け入れに前向きな姿勢を見せている。これにより、1996年の返還合意から12年近く停滞している普天間移設問題が動き出す可能性が出てきた。
 普天間移設問題では、旧防衛庁と名護市が06年4月、シュワブ沿岸部にV字形滑走路を建設することで基本合意した。名護市はその後、300メートル以上、沖合に移動する試案を提示し、沖縄県も同調したが、政府が難色を示し、平行線をたどったまま環境影響評価の手続きが進んでいる。政府は09年8月には周辺海域の埋め立てを県に申請し、14年に代替施設を完成させる計画だ。
 県や名護市が沖合移動を求めるのは、騒音や事故の際の危険性を低減するためだ。政府は米側との再調整が必要になることなどで否定的だったが、周辺海域の埋め立てには知事の承認が不可欠であるため、町村官房長官らが主導して県側に譲歩すべきだと判断した。
 沖縄県の環境影響評価条例の施行規則では、大幅な計画の変更は手続きのやり直しが必要だ。移動距離が約55メートル以内ならやり直す必要はないが、県や名護市はさらに大幅な移動を主張している。政府は県側の要求にできるだけこたえるため、代替施設の当初位置から約90メートル沖合にある「長島」ぎりぎりまで移動する案を軸に検討する構えだ。
 米側との調整について、政府は「90メートル程度の移動なら運用上の問題も生じず、協力を得られる」と見ている。ただ、名護市が求める滑走路の短縮については、米側の反発が予想されるため、政府は使用協定を結んで騒音の大きい訓練を制限することなどで市に理解を得る考えだ。
 こうした政府の方針に対し、沖縄県の仲井真弘多知事は読売新聞の取材に、「名護市の意向を尊重して考えたい。移動距離は、政府といったん合意できれば、その後に要求を上積みするつもりはない」と語った。名護市も「100メートル近く移動できれば地元に説明できる。滑走路の長さの問題も、使用協定を結んで使い方を限定すればクリアできる」(幹部)としている。
 政府は環境影響評価の方法書に対する知事の意見を1月21日までに聞き、そのうえで調査を始める。知事の意見表明後の1月下旬に沖縄県や関係市町村とつくる普天間移設協議会を開き、調査開始への理解を得る方針だ。こうした動きと並行して県や市と政府案の修正を非公式に検討し、3月にも協議会の議題にしたい考えだ。ただ、県内移設に反対する革新陣営や市民団体の反発が予想され、流動的な要素も残っている。
「読売新聞2007年12月31日」

2008年
2月7日 第6回協議会で町村官房長官が「沖合い移動も念頭に置き、建設計画の問題などについても協議する」と表   
     明。
2月14日 沖縄防衛局が追加修正資料の修正版を沖縄県に提出し、方法書を確定。
3月14日 沖縄防衛局が方法書の追加修正資料の修正版を沖縄県に提出し、方法書を確定。

2009年
1月20日 バラク・オバマ氏が第44代米大統領に就任。
3月7日 麻生太郎首相が就任後初来県し、仲井真知事が沖合修正をあらためて要請。
4月1日 沖縄防衛局が環境影響評価基準書を県へ提出、沖合移動の複数案を比較検討した結果、日米両政府合意案で準備書を作成。
9月25日 鳩山連立政権発足。鳩山首相は県外移設が前提との考えを表明。

※自民党政府と沖縄県で最終的な合意がなされ、辺野古移設が決まる寸前であったが、衆院選で民主党が大勝し、鳩山連立政権が誕生したために辺野古移設は頓挫する。鳩山首相は「できるなら国外、最低でも県外」を公約する。しかし、それは過去に小泉首相が県外移設をしようとしてできなかったことを知らなかったがゆえの鳩山首相の無知による公約であった。

10月13日 環境アセス準備書に対する知事意見提出。
10月19日 鳩山首相は新たな代替地を検討する可能性を指摘。
10月29日 うるの会が硫黄島移設案を提案・・・すぐに可能性がないと指摘されて提案は消える。
10月30日 鳩山首相は参院代表質問で「県民に苦渋の選択を押し付けるつもりは毛頭ない。最後は私が決める」と明言
12月15日 鳩山首相が現行案以外の移設先検討を明言。「できるなら国外、最低でも県外」を宣言した。国外は無理であることを知った鳩山首相は県外移設を明言した。

鳩山由紀夫内閣時代に検討された移設案の概要

1 九州移設案(新田春・築城基地移設案)
2 嘉手納基地統合案
3 キャンプハンセン移転案
4 関西国際空港移転案
5 馬毛島案
6 伊江島案・下地島案
7 自衛隊基地への移設案
8 勝連沖埋立案
9 グアム・テニアン島案
10 キャンプ・シュワブ陸上案
11 メガフロート案
12 辺野古杭打ち桟橋案
13 徳之島案
14 腹案
15 九州ローテーション案
16 その他
17 無条件撤去論

※ほとんどは小泉首相時代に検討され、実現が困難であると判断された案であった。

2010年
1月24日 名護市長選で稲嶺氏が初当選
2月24日 県議会が普天間の早期閉鎖・返還と県内移設に反対し、国外・県外移設を求める意見書を全会一致で可決。
3月8日 沖縄基地問題検討委員会で、社民が国外や県外移設、国民新がシュワブ陸上と嘉手納基地統合などの移設案を提案
3月26日 北沢俊美防衛相が仲井間知事との会談で「現行案は極めてゼロに近い」と明言。
4月9日 鳩山首相が移設先として鹿児島県徳之島を明言。
     県外移設先の候補地は一か所も上げることができなかった鳩山首相であった。徳之島を候補地にあげたが、徳之島との事前交渉はなく、一方的に鳩山首相が決めたものである。
4月12日 鳩山首相がオバマ米大統領と非公式会談で沖縄の負担軽減に理解を求める。
4月18日 「米軍基地徳之島移設断固反対1万人集会」に1万5000人が参加。鳩山首相が徳之島を候補地に挙げると徳之島はすぐに反対の声を上げた。

※徳之島の人口は約25,000人である。1万5000人は人口の60%である。沖縄本島の人口は約129万人である。もし沖縄本島なら77万人が参加したことになる。

4月20日 徳之島3町長が平野博文官房長官との会談を拒否、徳之島の強烈な反対運動に徳之島案はあっけなく頓挫した。鳩山首相は県外移設を諦める。
4月25日 「米軍普天間飛行場の早期閉鎖・返還と、県内移設に反対し国外・県外を求める県民大会」で9万人が参   
      加。
5月4日 鳩山首相が初来県し県内移設を明言。
5月10日 米軍普天間飛行場をめぐる関係閣僚会議で現行案を修正する形での移設案を確認。
5月16日 伊波宜野湾市長と稲嶺名護市長が県内移設反対で共同声明。普天間基地包囲行動に1万7000人が参加。
5月23日 鳩山首相が再来県し、名護市辺野古への移設を明言。
5月28日 日米両政府が辺野古崎地区とこれに隣接する水域を移設先とする共同声明発表。
6月4日 鳩山氏が首相退陣、菅直人氏が首相に就任し、日米合意の踏襲を明言した。

※2010年6月4日で辺野古移設の政治決着がついたと判断するのが常識である。辺野古移設が最終的に決まったのは民主党政権時代であった。 

 自民党の小泉首相、民主党の鳩山首相の時代に県外移設は不可能であるということがはっきりしたのである。良識ある政治家であるなら実現の可能性がない県外移設を公約にしない。ところが沖縄の政治家は県外移設を公約にするのである。実現不可能である県外移設を公約にすることは県民を騙しているし政治家として失格である。

 政治決着したとしても辺野古埋め立てがすぐにできるのではない。埋め立てには公有水面埋立法に則った計画書を作成して、県知事に申請し承認を得なければならない。自然保護など公有水面法には厳しい条件がある。
 政治的決着がついたので防衛局は埋め立て申請の準備に入った。防衛局は県に3年後に公有水面埋め立て承認申請書を申請する。

2013年
3月22日 沖縄防衛局は22日午後3時40分、米軍普天間飛行場の名護市辺野古沖への移設に向けた公有水面埋め立て承認申請書を名護市の県北部土木事務所に提出した。申請書には埋め立て水域の漁業権を持つ名護漁業協同組合の同意書も添付した。県は申請書類を確認し、不備がなければ受理することになる。
12月18日 沖縄防衛局は米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設に向けた環境影響評価を補正した評価書を県に提出。
12月27日 仲井真知事は那覇市の知事公舎で記者会見し、政府が米軍普天間飛行場の移設に向けて申請した名護市辺野古沿岸部の埋め立てを承認したことを正式に発表した。 


自民党政府が最初に辺野古移設を提案した時、辺野古区民、名護市長、名護市議会、県知事の4者が反対していた。県側の提案を政府が拒否したこともあった。お互いの主張と妥協を繰り返しながら政府と地元は合意に達した。しかし、民主党政権に代わると、合意を無視した鳩山首相は県外移設を主張した。本土では普天間飛行場を受け入れる地域はなく鳩山首相の県外移設はとん挫した。鳩山首相は再び辺野古移設に戻った。その時に初めて辺野古区民、名護市長、県知事、日本政府、米政府の5者が同意した。これで辺野古移設が決定したのである。
 その後は、県から埋め立て承認を得るために公有水面埋立法に則った書類作成の段階に入ったのである。これが議会背民主主義のやり方である。議会制民主主義を理解できない金平氏の仲井真知事への批判はお門違いであった。

菅直人首相が日米合意の踏襲を明言した2010年6月4日に辺野古移設が最終的に決まった。それ以後は、辺野古移設を阻止するには日米両政府を移設断念させる以外に方法はなかった。ところが翁長知事は自分が知事になれば辺野古移設を阻止できるようなことを公言した。辺野古移設反対を公約にした翁長知事が当選しても、日米両政府が断念しない限り辺野古移設を阻止することはできない。それなのに辺野古移設を阻止できるような公言をした翁長知事は県民を騙したのである。それだけではない。辺野古移設ができなければ普天間飛行場が固定化する。県外移設が不可能であることは鳩山首相が実現できなかったことで明らかである。翁長知事が不可能な県外移設を前提に辺野古移設反対を公約にしたのは二重に県民を騙したことになる。

2015/06/18 に公開
平成27年6月18日木曜日に放送された『沖縄の声』。沖縄県議会の6月定例会が16日開会し、与党5会派が埋め立てで使用する土砂など埋立用材に特定外来生物が侵入しないよう防止する条例案を提案、それにより沖縄の各地で行われている埋め立て工事の工期の遅れが心配される。本日は、2つのテーマ「なぜ土砂条例が必要なのか?なぜ埋め立てに県外の土砂が使われているのか?」キャスターのsacom氏に詳しく解説していただきます。
※ネット生放送配信:平成27年月6月18日、19:00~
出演:
 又吉 康隆(沖縄支局担当キャスター)
ゲスト
 sacom(沖縄支局担当キャスター・つり人)
沖縄の声


2015/06/25 に公開
平成27年6月24日水曜日に放送された『沖縄の声』。本日は、6月23日に糸満市平和祈念公園にて行われた慰霊際を政治的な発言の場に利用した翁長知事、そして、沖縄の被害者意識を詩に書いた落合恵子の「沖縄の辞書」についてキャスターの又吉康隆氏が徹底批判します。
※ネット生放送配信:平成27年6月24日、19:00~
出演:
 又吉 康隆(沖縄支局担当キャスター)
沖縄の声

次回放送は平成27年7月8日水曜日
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