アラビア語に興味があります。

 イランはペルシア語の国です。トルコはトルコ語で、現代トルコ語はローマ字で表記されます。

アッラーの99の美名

2007年08月22日 03時08分15秒 | 夏休みの旅
 大英博物館で、アッラーの99の美名の書かれた掛け軸に出会いました。


 下の部分には、綺麗なアラビア文字。アブー・フライラからのハディースのようです。


 上部がアッラーの99の美名なのですが、お習字のような字体です。一応、アラビア語の方向に読めるよう、横向きの画像にしてみました。


 判読に苦しむ名前がかなり多い気がします…。(なお、各画像はクリックすると拡大します。)

煙草屋兼門番だった薬屋ムハンマドおじさんの思ひ出

2007年01月16日 09時08分54秒 | 夏休みの旅
 一昨年、チョコレートを1キロ買って、شَرَّابِيَّة に隠居している、ムハンマドおじさんの家を訪ねた。正確に言うと、訪ねようとした。ムハンマドおじさんは、私の常宿である某安ホテルの煙草屋兼門番であったが、老齢につき、20世紀末に引退してしまった。引退時、既に80歳前後ではなかったかと思う。

 留学時代は、授業が終わってからムハンマドおじさんを訪ね、おしゃべりしたり、ムハンマドおじさんの仕事や礼拝を眺めたりして、午後のひとときを過ごした。ムハンマドおじさんは、私のアラビア語のぶち壊れ具合をこっぴどく叱りながらも、
「ちゃんと食ってるか?」
と言って、パスタやらお米やらをくれるのである。
「いいよ、いらないよ、おじちゃん」
と言っても、私が受け取るまで譲らない。

 東京外大アラビア語学科の元客員教授の先生(既に定年退官。エジプトにご帰国されて久しい)には、
「そんなにムハンマドおじさんから、物を貰ってはいけません」
と叱られた。もっともである。決して裕福とはいえないムハンマドおじさんから、金満大国日本からの留学生が、タダで物を貰うのは、どう考えてもおかしい。
「でも、私が受け取らないと、おじさん、怒るんです」
と私が訴えると、先生は「うーん」と少し考え込まれ、そしておっしゃった。
「では、なるべくムハンマドおじさんのところから、物を買うようにしなさい」

 それは良い考えだった。ムハンマドおじさんの商売の主流は煙草であるが、他にもボールペンやら駄菓子やらマッチやらを売っている。ボールペンは色々な色があったら楽しい。マッチは、お台所でガスに点火するときに必要である(日本のガス台と違って、栓をひねってもガスが噴き出すだけで、火花が散らない)。私はそうしたちまちましたものを、ムハンマドおじさんから買うことにした。

 しかし、私が「マッチちょうだい」と言うと、ムハンマドおじさんは、私をギロリと睨みつけて曰く、
「むむ、煙草を吸うのか」
「違うよ、ブタ・ガスだってば、おじちゃん!」
「煙草じゃないだろうな」
「お台所で使うの!」
押し問答の末、やっと一箱のマッチが買えるのだった。

 私が帰国する前には、何やかんやと言って、お土産を持たせてくれた。紙袋にいっぱいお菓子を詰めて、
「飛行機の中で食べろ」
と渡してくれたこともある。

 飛行機では、機内食が出るのだ…とは、私は言えなかった。ムハンマドおじさんの生涯唯一の海外旅行は、昔々のメッカ巡礼であった。友人の床屋さんと一緒に行ったそうだ。船でサウジアラビアを目指したが、サウジは物価が高く、ハンバーガーが20ポンドもした(話をしていた当時だと、1ポンド=30円弱だったか?)と言っていた。きっと、飛行機の乗客は、機内のサンドイッチ売り場で高い食べ物を買うのだと、思っていたのではないだろうか。

 私は、ありがたく、その大量のお菓子をいただいて帰ってきた。帰国後しばらく時差ぼけで、夜中に冴え冴えと目が覚めて空腹を感じたとき、そのお菓子をつまんだものだ。

 別のときにも、お菓子を箱に詰めてくれたことがある。
「ほんとにいいよ、おじちゃん!」
という私に、
「お前のためじゃない。ママにだ」
というので、それも有難くいただいて帰った。帰国後、母にその箱を渡したら、
「まあ、精一杯…!」
と言って笑った。ほんとに、箱の中に精一杯のお菓子を詰めてくれてあったのである。

 あと、象さんのアップリケの付いた枕カバー、大きなハート・マークの入った足拭きマットなど。これらも母は「かわいい」と喜んだ。

 引退後、しばらく、消息不明であったが、20世紀最後の年に、やっと隠居先が次男坊のフラットであることがわかり、やっとやっと再会することができた。すっかり足を悪くしていて、フラット内の移動にも難儀している様子だったが、椅子に腰掛けて喋る分には問題ない。

「おじちゃん、おじちゃんに手紙を書くときは、どの住所に送ればいいの?」
と聞いたが、ムハンマドおじさんは、住所を教えてくれなかった。
「手紙よりもな、来てくれた方がずっといい」

 ほんとにもっと沢山、遊びに行くんだった。そしてもっと沢山、ムハンマドおじさんと話せばよかった。

 一昨年の夏休み、チョコレートを1キロお土産に買って、ムハンマドおじさんの家を訪ねようとした。おじさんの家の近くで、
「ムハンマド・エル=アッタール(薬屋ムハンマド)の家はどこ?」
と聞いてみたら、そこらへんのエジプト人のおじさんが、
「そこの建物だよ」
と見覚えのあるビルを指差した。
「でもな、今は留守だよ」
おかしい。ムハンマドおじさんは足が悪くて、とてもじゃないけれど出歩いたりできない。どうも向こうは、ムハンマドおじさんの息子のことを言っているらしく、話が混線してきた。一人のおじさんに聞かれた。
「彼は何歳だ?」
「うーんと、90歳くらい」
「…亡くなったよ」

 あんまりに突然の話だった。
「どうして?」
って聞いたけど、アッラーの思し召しだって言われるだけ。
「いつ?」
って聞いても、良くわからない。涙が滲んできて、言葉が出なかった。

 おじさんたちは、すぐ横にあるマクハー(珈琲店)の席に誘導してくれて、座らせてくれた。ここで待ってろと言われた。ぐしゅんぐしゅん言いながら座っている私に、マクハーの親父さんが、ファイルーズとセブンアップの瓶を持ってきて、どっちにする?と聞いた。セブンアップを頂いた。

 しばらくすると、男の子がやってきた。一緒に行こうという。ムハンマドおじさんの孫(=長女の息子)だった。セブンアップのお代を払おうとしたら、いらないと言われた。エジプシャン・ホスピタリティに、悲しい心が温まった。

 ムハンマドおじさんの長女ご一家の家では、長女のナディアさんが、
「あなたが来るとわかっていたら、もっと準備していたのに」
と言いながら、どっさりと、食べきれない量のお昼御飯をご馳走してくれた。お腹ぱんぱん。悲しむのは一時中断である。

 ムハンマドおじさんのことを聞いたら、前の年のラマダーン月に亡くなったと言われた。だいたい、2004年10月だ。

 写真を持っていきなさい、と言って、ムハンマドおじさんの写った写真を何枚かくれた。ナディアさんが今のご主人と婚約したときの写真だ。ムハンマドおじさんは、ほんとうに嬉しそうに笑っている。私の思い出の中のムハンマドおじさんと同じだ。

アルジェリアからの手紙

2005年10月04日 15時29分55秒 | 夏休みの旅
 昨日、父宛にアルジェリアから手紙が届きました。中にはなぜか大きな優勝カップを持った父の写真が…。母の話によると、夏に中欧旅行に行ったとき、ブダペストの空港で優勝カップを持った男性を見かけ、父が話しかけてみたところ、何かの大会がブダペストであり、それで優勝、凱旋帰国するところだったのだそうです。一緒に写真を撮ってくれて、父が住所を書いて渡しておいたら、本当に約束どおり、写真を送ってきてくださったとのこと。父にはちゃんとお礼状を書いてほしいものです。ちなみに同封されていた手紙は英語でした。英語のわからない母は、封筒を眺めながら、「切手がきれいだ」と喜んでいました。

米ドルとエジプト・ポンドの両替

2005年09月14日 19時54分03秒 | 夏休みの旅
 ちょっと前までは、エジプト・ポンドを米ドルに再両替するのが大変で、それに関するゴタゴタがバックパッカーのBBSを賑わしていたりしましたが、最近では、エジプト・ポンドから米ドルへの両替も、余程の額でなければ問題なくできるようになったとのことです。そのお蔭で、去年は宿代をドルで払うと少しオマケしてくれた(町中の両替レートより良い率で計算してくれた)のに、今年はオマケどころか町中より悪いレートで計算されてしまうことになりました。具体的には、宿のお向かいの五つ星ホテル内の銀行で、1ドル=5.76ポンド なのに、泊まっている宿では、5.5ポンドで計算されてしまうのです。あほらしいので、手持ちのドルをエジプト・ポンドに両替してからポンドで払いました。
 こうやって闇レートがなくなっていくわけですから、エジプト政府にとっては良いことなのでしょう。

アッスィファーラ・フィル・イマーラ

2005年09月13日 17時31分01秒 | 夏休みの旅
 この前の金曜日、メトロという映画館で『アッスィファーラ・フィル・イマーラ』(ビルの中の大使館)というアーデル・イマームのコメディ映画を見てきました。アーデル・イマーム演ずるシェリーフが、カイロのイスラエル大使館の隣のフラットで暮らす羽目になってしまった騒動を描いたものでしたが、お恥ずかしいことに台詞がさっぱり聞き取れなかったのと、ハッピーエンドではなかった(シェリーフが仲良くしていた少年がパレスチナで殉教してしまうというラスト)のとで、あまり面白い映画という印象はありませぬ。
 午後1時からの回だったので、金曜礼拝と重なり(夏時間なので、午後1時前後が正午の礼拝になる)、館内はガラガラ。というわけで、エジプト人一般の反応は良く分かりませんでした。

 ところで、シェリーフがエジプトへの帰国便の中で女性客室乗務員をナンパする場面がありました。
シェリーフ「どこの出身かね?」
客室乗務員「シンガポールよ」
シェリーフ「名前は何て言うの?」
客室乗務員「おしん

大統領選候補者の大衆集会

2005年09月05日 01時26分23秒 | 夏休みの旅
 昨日(3日)の真っ昼間、カイロのおへそタハリール広場を歩いていると、モガンマア(合同庁舎)前にステージが設けられ、その向いにびっしりと椅子が並べられていました。何かと思ったら、7日のエジプト大統領選挙の候補者の一人、アイマン・ヌール氏の大衆集会の準備でした。この暑いのに~!?と思いましたが、聞いてみると開演は夜の7時からとのこと。それなら涼しくなっていることでしょう。
 そしてその夜。タウフィーキーヤ地区に住む知人のところで麦酒を飲んだ帰り道、既に夜11時を回っていましたが、モガンマア前にさしかかると、まだ集会は続いていました。後ろの方の座席には空席も目立つけれど、フェンスにしがみついて演説を聞いている聴衆もあり、かなりの熱気。ステージから離れたところで聴いている人々のために、数ヶ所で、投影機で白布のスクリーンにステージのアイマン候補の姿を写したりもしていました。
 現職のムバーラク候補が当選して当然のような空気もある反面、他の候補者も結構熱いんだと胸躍らせて帰路に着きました。

蚊がいない

2005年09月03日 19時55分08秒 | 夏休みの旅
 今日のカイロは暑い!いつもが涼しいというわけではありませんが、今日は日陰にいても暑いし、風もほとんどないので、昨日までより暑く感じます。冷たいビールをきゅっといきたいなあ…という話は置いておいて、最近不思議に思っており、且つ助かっているのは、3~4年前から夏に蚊が出なくなったことです。夜もかゆい思いをせず、熟睡できます。
 数年前までは、熱いからとガラス戸を開けて寝ると、必ず蚊の来襲を受けたもので、耐え切れず、日本からキンチョー蚊取り線香を一缶持ってきてしまいました。夕暮れどき、殺虫剤の白い煙をたなびかせながら、小さなトラックが走っていたこともあります。
 しかし、ここのところ、まったく蚊がでなくなってしまったのです。暑さで蚊もバテているというのならわかるのですが、昨年は、カイロは冷夏で涼しい思いをさせていただきましたが、それでも蚊はでてきませんでした。
 カイロの蚊に何がおこったのでしょう。アッラーのみぞ知る?

ピラミッド通りの横断幕

2005年08月31日 19時31分08秒 | 夏休みの旅
 昨日、ピラミッド通り(ハラム通り)に行ってきました。道路に横断幕が何枚も橋渡しになっていて、選挙ムードが盛り上がります。しかし、どの横断幕も現職ムバーラク大統領を支持するものばっかり。良く探せば、他の候補者のものもあったのかもしれませんが、
「ムバーラクにYES!」
「ガンドール・レストランの従業員は、ムバーラク大統領を支持します!」
みたいな横断幕ばかりが目に付きました。やっぱり再選確実ですね、きっと。

Leighton House

2005年08月29日 18時31分02秒 | 夏休みの旅
 2005年8月25日(木)、ロンドンのホランド・パーク近くにあるレイトン・ハウス博物館に足を運びました。レイトン・ハウスのアラブ・ホールが素晴らしいからと薦められていたからです。レイトン・ハウスとは、その名の通り、レイトン(1830-1896)という画家の家をそのまま博物館にしたもので、博物館というより、こぢんまりとした一軒家です。地球の歩き方にも載っていないそうで、来館者も少なく、静かなひとときを過ごしました。
 アラブ・ホールは1階の入ってすぐのところにあるのですが、壁に17-8世紀のダマスカスのタイルを使うなどした本格的なもの。中央に小さな噴水がしつらえてあり、その真上に煌びやかな円いランプが釣り下がっています。残念ながら建築学の素養がないので、正確にご説明できないのですが、天井は丸いドームになっていて、側面に繊細なステンドグラスが何枚かはめこまれています。窓のマシュラベイヤも細かく美しく、まごうことなきアラビアの世界でした。
 写真撮影禁止でしたので、絵葉書を3枚買ってきました。受付のご婦人が、お庭も見ていくと良いとおっしゃって、建物を出たら右に曲がるよう教えてくださいました。刺のある茎の絡まったアーチが続いていました。薔薇の季節だったらさぞ綺麗だったことでしょう。アーチを抜けると、緑のみずみずしい芝生の広いお庭が広がっていました。向こうの方にブロンズ像が据えてあります。涼風に吹かれながら、しばらくベンチでぼんやりとしていました。

『世界のイスラーム建築』

2005年03月19日 23時14分21秒 | 夏休みの旅
 去年の夏休みの旅行関係の記事で、いろいろほったらかしのまま消えてしまったテーマがございました。そのひとつがイスラーム建築でした。マレーシアのイスラム美術館に行ったときの記事が尻切れトンボだったのです。
 ところがどっこい、講談社現代新書から深見奈緒子著『世界のイスラーム建築』という、そんな記事の続きなんかどうでもよくはないか、という素晴らしい本が出ました。著者は、以前にも『イスラーム建築の見かた―聖なる意匠の歴史』という本を著していらっしゃいます。
 今回の『世界のイスラーム建築』のいちばん素晴らしいところは、東京ディズニーシーのイスラーム建築まで俎上に乗せて下さっているところではないかと思っております。実は、買った人にパラパラと見せていただいただけで、まだ買ってすらいないのですが、それでも強くお薦めします。

【追記】(2005/3/20) 何だか、ディズニーシーを扱ったから、良い本だ、と言わんばかりの記事になってしまいましたが、そういうことではありません。写真も豊富で、さまざまなイスラーム建築をわかりやすく分類して説明して下さっているようです。

オリエントの印章が円筒型である理由

2005年01月14日 16時58分03秒 | 夏休みの旅
 『オリエントの印章』をパラパラめくって、昨日、円筒印章のことばっかり書いてあるみたいだ、と愚痴を書きましたが、スタンプ型の記述がないわけではありませんでした。また、円筒印章の底の部分にスタンプ印章を彫ったという例もありました。そして、どうして円筒印章が主たる記述対象になっているのかといえば、きちんとした理由がありました。
1)スタンプ印章は、文字を持たない文化において用いられることが多かった。
2)あるいは、文字を持っていたとしても、スタンプ印章は耐久性に乏しい素材に押されることが多かった。
3)円筒印章よりも面積が狭く、銘文を掘り込むことなどはほぼ不可能。
以上のことから、研究するのであれば、円筒印章を研究した方が、歴史の解明には役に立ちます。
 また、ギリシア・ローマへとスタンプ印章が受け継がれ、準宝石に細密な絵画を彫り込んだ作品(彫玉品「ジェム」と呼ばれているそうです)を残しましたが、ギリシア・ローマ世界は、古代オリエントではないので、本書の対象外。その他、イスラーム時代にも、具象性を排した印章が用いられるけれど、これも本書の対象外。というわけで、円筒印章が主題となるわけなのでした。
 昨日『ハンコロジー事始め―印章が語る世界史』が届きましたので、こちらにも期待しませう。

古代オリエントの印章に関する日本語文献

2005年01月10日 19時30分42秒 | 夏休みの旅
 古代オリエントの印章のことが去年から気にかかっていたのに、ほったらかしでした。思い立って「印章」で検索してみたところ、以下のような書籍がヒットしてきました。(順不同)

ドミニク・コロン著、池田潤訳
  『オリエントの印章』大英博物館双書 古代を解き明かす 4
   学芸書林 1998年1月発行
   ¥1,890 ISBN:4-87517-043-2 

ドミニク・コロン著、久我行子訳
  『円筒印章 古代西アジアの生活と文明』
   東京美術 1996年1月発行
   ¥12,600 ISBN:4-8087-0623-7

新関欽哉著『東西印章史』
   東京堂出版 1995年6月発行
   ¥6,932 ISBN:4-490-20268-7

新関欽哉著『ハンコロジー事始め―印章が語る世界史』
   NHKブックス 日本放送出版協会 1991年発行?
   ¥999 ISBN: 4140016329

サダト暗殺はリビアの陰謀?

2004年10月05日 01時59分57秒 | 夏休みの旅
 戦勝記念日で思い出したこと。夏休みにカイロでいただいた本が、サダト暗殺がらみのお話なのですが、どうも、サダト暗殺は、リビアのカダフィ大佐の指示によるものという設定のようです。最初は、
「うわ、実はリビアが絡んでいたのか!」
と、ハラハラ、ドキドキしながら読んでいたのですが、ふと、これはノンフィクションではなく、事実を下敷きにしたフィクションかもしれないという気もしてきました。 ちなみに、その本は、イスラエル人のヘブライ語による著作のアラビア語訳。
 日本に帰ってきてからは、ぜんぜん頁を開いていないので、いまだ真相は不明ですが、そのうちまた読んでみませう、インシャーアッラー。

ピラミッド通りの風景2

2004年09月26日 19時27分33秒 | 夏休みの旅
 イエメン料理レストランで御飯を食べた後、地下鉄でギザ駅に出て、そこからピラミッド通り(ハラム通り)を走るミクロバスをつかまえようと考えました。
 ところが、駅の階段を下りて、少し歩くと、こっちを向いたミクロバス発見。
「ハラム、ハラム!」
と呼びかける声も聞こえます。えっと、ここは歩道ではないでしょうか。どこから入ってきたの? それに、ピラミッド行きなら、どうしてこっちを向いてるの? 反対方向ですが。

 よくわかりませんが、私も助手席に乗せてもらい、バスは発車。袖なしのしましまガラベイヤを来たおじさんは、威勢良くアクセルを踏みます。
「日本人かい! 日本人は良い国民だ。でもな、日本はアメリカの言うことを聞いてばっかりだ」
ごもっともです。おじさんに答えて、
「日本はイラクに軍隊を送ったけれど、国民は嬉しくありません。総理大臣だけが嬉しい」
というと、
「そうだろう。総理大臣は金が貰えるんだろうからな!」
などなど、おじさん過激発言が少々。

 さらに、私の眼鏡(近眼に少し乱視が混じる)について、
「ちゃんとエジプトの野菜やら肉やら、ちゃんと食ってりゃ、眼鏡なんかいらねえはずだ。
 これを食え」
と、黄色いナツメヤシの実をくれようとします。
「いえ、良いです」
と遠慮するも、
「いいから食えよ」
と、運転台のナツメヤシの枝からひきちぎった実をくれました。内心、黒くて柔らかいナツメヤシの方が美味しいんだけどな(←ほんの数秒後に単なる食わず嫌いと判明)、と思いながら齧ってみると、しゃくしゃくした歯触り、そして噛み締めると黒いナツメヤシとは違う甘味が広がります。
「おいしい!」
助手席の窓側に座っていた男性が、赤いナツメヤシはもっと美味しいと教えてくれました。

 住宅街を抜けて、私には方向がわからなくなった頃、再びハラム通りに戻ると、子連れの黒ベールのお母さんが、何やら行き先を叫んでいましたが、おじさんは、
「サウジ行きでいっ!」
と、ぐいんとハンドルを切って、カーブを曲がってしまいました。こういうおじさんに会うと、エジプトに帰ってきたって感じがしますね。

 おじさんは結局、下車するまでに計5つもナツメヤシの実をくれました。白状すれば、種は全部、車窓から投げ捨ててしまいました。

ピラミッド通りの風景1

2004年09月26日 19時07分15秒 | 夏休みの旅
 エジプトのピラミッド通り(ハラム通り)にて、暴走族発見!(確か2004年9月21日か22日の夜。)
 バイク3台で、おじちゃんたちが楽しそうに蛇行運転などをしており、ただでさえ渋滞しているのに、後続の車のスピードがさらに落ちていました。バイクのうち1台は、色付きランプ多数で精一杯の飾り付けです。
 バイクから車1台分ほど後ろに、屋根までおにいちゃんたちの乗った、満杯のミクロバスが走っていました。座席の定員以上に乗客を乗せることも、厳密には交通法規に違反する行為でしょうが、実際にはなくはありません。しかし、屋根まで人が乗っているなんて、初めて見ました。あのミクロバスも、まさか、暴走族の仲間だったのでしょうか?