goo blog サービス終了のお知らせ 

トーマス・クーン解体新書

トーマス・クーン『科学革命の構造』の徹底的批判

クーンは何を間違えたか?

2019年01月06日 | 日記・エッセイ・コラム
 前回のブログの終わりに「クーンがSSRで主張したことで何が間違っていたかを、最も直裁な言葉でまとめてみたいと考えています。ついでに、シェイピンのSSKの間違いも取り上げます」と書きましたが、クーンがSSRについては、去年(2018年)の春にクーン現象(1、2、3)と題するシリーズで私の考えをかなり直裁に説明しました。ですから、ここでは、もっと簡明な言葉遣いで、クーンの主な間違いをまとめてみます。
間違い(1)
 クーンは「科学革命はうんざりするほど(ad nauseam)沢山ある」と言います。自然科学では大小の目覚しい発明発見が数多くなされるので、それらを全て「科学革命」と呼ぶことにしても悪くないかもしれませんが、科学革命を「古いパラダイムから新しいパラダイムへのシフト」であるとクーンは定義し、新旧二つのパラダイムのどちらが正しいかを決定する中立の判断基準(尺度)は存在しないとしたのが、クーンの第一の、最も基本的な、間違いです。クーンは新旧二つのパラダイムのこの関係性を「通約不可能性」と名付けました。しかし、自然科学の歴史には、クーンの科学革命の定義に当てはまらない大発見、大発明が、うんざりするほどあります。前回のブログ記事で、クーンの遺稿では「通約不可能性」が最も重要な項目として扱われていることをクーン自身の言葉から知りましたが、これが彼の遺稿の出版遅延の理由かもしれません。
 クーンは「パラダイム」という言葉の場合と同様に、以前からあった「通約不可能性」という言葉にも新しい意味を盛り込んで、科学哲学の新語として使用を始めましたが、自然科学の歴史の実際に照らせば、この概念は実体に欠けていて、科学哲学の言葉として無用の長物であることがはっきりします。人間には学習する能力があるからです。この学習能力の原型は他の動物にも認められます。「学習」と「通約不可能性」の関係については、また後で議論します。
間違い(2)
 哲学で「デュエム-クワインのテーゼ」と呼ばれる考えがあります。決定不全(underdetermination) テーゼと呼ぶこともあります。人間の経験事項、観測データは必然的に有限ですから、有限個のデータに基づいて、一つの理論が決定的に決められることはありません。これがこのテーゼ(主張)の内容です。クーンはSSR(『科学革命の構造』)で次のように主張して居ます:
「科学哲学者は、一組の観測データが与えられると、その上に一つ以上の理論を構成することが常に出来ることを繰り返し示してきた。科学史を見ると、特に新しいパラダイムの発展の初期段階では、そうした代りの理論を発明するのは余り難しくさえないことが示唆されている。」
この主張は、自然科学の歴史の実際に照らすと、全く事実に反します。つまり、間違っています。純粋に論理的立場から言えば、決定不全性テーゼは間違いではありませんが、歴史的に実際起こって来たことは、クーンが主張したようにはなって居ません。これは自然科学の理論が歴史的事実として示している「安定性」と関係があるのですが、この事は別に機会を改めて説明します。
間違い(3)
 「自然科学は累積的に進歩するものではない」とクーンは言いますが、歴史的事実に照らして、これは明らかに間違いです。この間違いは、クーンがSSRの中に書いてあること自体から確かめることができます。古いパラダイムの下での通常科学期で得られた「問題の解答」の一部は科学革命のあとの新しいパラダイムの下での通常科学期にも通用する、とクーンははっきり述べています。それに、革命で失われる部分には「クーン・ロス」という言葉が作られて、その実例を科学史家たちが懸命に探してみたのですが、それらしいものは殆ど全く見つかっていません。問題の解決で得られた知識が失われることなく(否定されることなく)、つまり、ロスがなく伝えられていくということは、科学的知識が累積し、充実していくということです。すでに得られた知識が安定性を獲得しながら豊富さを増していくということです。
間違い(4)
「自然科学者は科学革命を通じて一歩一歩と真理(the truth) に近付いていると考えているが、そうではない」とクーンは言いますが、大部分の自然科学者にとって、自然科学という営みは人間も含む「自然世界」の究極の真理を追い求めている営みではありません。自然科学者には知りたいと思う具体的な事柄があります。人間を含む自然に関する具体的な知識を得ようとする営為です。「雷はどうしてピカリと光り、ゴロゴロと鳴るのか?」、「太陽はどうして毎日東から昇り、西に沈むのか?」、「人はどうして胃潰瘍になるのか?」、などなど。
 問題は真理(the truth) という言葉にあります。自然科学には色々な分野があり、いわゆる素粒子物理学の分野では、標準模型というものが1980年代に出来上がり、これが素粒子理論として“The Theory of Almost Everything”などと呼ばれることもありますが、この分野の人々が到達しようと努力している理論が出来たとしても、それから自然世界の性質の全てが導出され、説明できるわけではなく、クーンの意味する真理(the truth)に到達したことにはなりません。
 以上に述べてきたことは哲学的議論では全くありません。自然科学という人間の営みの、歴史的事実に基づいた、定性的な記述です。現象論です。「クーンの間違い」の視点から言えば、クーンが「これが自然科学だ」と言っているものが実際の自然科学が歴史的に示してきた生態と合わないということです。ですから、自然科学の実態を取り違え、それに基づいて科学論を構成すれば、間違った科学論が結果するということです。もっとも、何もかもが要するに解釈の問題だと言ってしまえば、それでおしまいですが。
学習、記憶、帰納、確率
 クーンは晩年になって「歴史記録から自然科学の諸様相を読み取るのに努力をしてきたが、得られた中心的な結論の多くは、そんなことをしなくても、第一原理から(from first principles)導き出せる。こうする方が敵意のあるいちゃもんを付けられにくい」といった意味の発言をして、科学史離れを告白しました。私が並べ立てた間違い(1、2、3、4)もクーンとクーン信奉者にとっては、そうした「いちゃもん」に属するのかもしれません。
 しかし、このfirst principles というのは具体的にどういうものなのでしょうか?晩年のクーンの発言から、おそらく言語哲学的な原理を意味しているものと推定されますが、自然科学論に言語哲学的議論を持ち込むのは間違いだと私は考えます。現在、自然科学という形をとっている人間の営為は、その発祥の源は言語を持たない動物たちの帰納的自然認識とそれに基づく対自然行動にまで連続的に遡れます。人間の技術的知識、科学的知識は、学習と記憶が一体化した形で、帰納と推定(確率)の機能によって形成され、累積されて来ました。これは否定不可能な歴史的事実です。
 議論は省略しますが、クーンもその論敵ポパーも反帰納法の立場でした。帰納法を排除して科学論を展開しようとするクーンやポパーを鋭く批判した哲学者にDavid Charles Stove(1927年〜1994年)がいます。自然科学が帰納法によって発展して来たことを決定的なメタファーを用いて論じたのはクーンの友人であった偉大な理論物理学者フィリップ・アンダーソン(1923年生まれ)です。私は『クワイン-クーン・ウェブとアンダーソン-田崎・ウェブ』というタイトルで2016年にこのブログで論じたことがありますので、興味があればご覧下さい:
https://blog.goo.ne.jp/goo1818sigerutk/e/04a1261c4d76eec527326d500713e5fc
https://blog.goo.ne.jp/goo1818sigerutk/e/d236b2ca0895026131fb634aecee37c0
 前回で約束した「シェイピンのSSKの間違い」について、ごく簡単に言えば、「安定性を樹立した後の自然科学的知識とそれに立脚する技術的知識の内容は、それを生み出した社会の状態に依存しないから、シェイピンのSSK(科学知識の社会学)的主張は正しくない」ということになります。これも、私の「クーンの間違い」の指摘と同様に、単純に現象論的なもので、「実際にそうだから」ということです。そうでなければ、例えば、産業技術スパイや軍事技術スパイの現象は存在しません。
 最後に、上に言及した「学習」というプロセスの自然科学における重要性を再度強調したいと思います。目覚ましい発明、発見には、何らかの形での断絶(rupture, break)が伴いますが、科学者はそれを乗り越える能力を備えています。学習能力です。類似は完全ではないと思われますが、それは、新しい言語を習得する過程、能力と似ています。この「学習」の重要性を初めて全面的に強調したのはバシュラールですが、クーンのSSRを最も早く的確に批判したシャピアもこの学習能力の重要性を強調しました。この学習能力の存在によって、クーンにとって最重要の哲学的課題であった「通約不可能性」の問題はすっかり形を変えてしまいます。拙著『トーマス・クーン解体新書』に、私はこう書きました:
「現在の物理学科の学生は、講義と教科書を通して、クーンが定義する大小多数のパラダイムを習得する。中でも、非相対論的力学(古典力学)と相対論的力学、非相対論的量子力学と相対論的量子力学という4つの大パラダイムの梗概を学部レベルで理解し、演習問題を解き、大学院レベルでは専門的視野を狭めて学位の取得に向かう。この間、学生はどのような世界の住民であるのだろうか。「ニュートンの力学(大まかに言えば古典力学)が間違っているとして放棄しなければ、アインシュタインの力学は受け入れられない」とクーンは主張する。物理学科の学生は古典力学の限界を理解するが、相対論の世界に引っ越してしまいはしない。ましてや量子力学の不思議な世界に移り住んで心地よく暮らすことなど天才ファインマンにさえ出来ないことなのである。」

<付記>以下は拙著『トーマス・クーン解体新書』の終りに近い所からの抜粋です。MAD とはフィリップ・アンダーソンの2011年の著書『More and Different』を意味します。
**********
 アンダーソンのMADには、科学哲学者にとって刺激的な議論が多数含まれている。本書『トーマス・クーン解体新書』は自然科学の營みの現象論的記述を目指したものであるから、科学哲学的議論に深入りはしないが、アンダーソンが「帰納的方法」を自然科学の最も基本的な方法として強調している文章は極めて啓発的かつ魅力的なので、以下に引用する:
「日常世界についての我々の認識は、断片的で当てにならないデータに基づいていて、我々が何とかそれをまとめるのは、椅子とか義理の母とか縫いぐるみの熊さんとか、とにかく何であれ、世界の中にあると仮定する、あれこれの対象物の実際の性質や客観的存在についての‘スキーマ’あるいは理論を作ることによってである。そうしてから、その理論を使って予言を行う(手を伸ばしてそれに触れると、ふわふわ柔らかいだろう、とか)ことによって、我々は、理論を訂正し、確かめ、立証する。または誰かに私の考えを確かめさせてもよい。つまり、もし我々が科学の帰納的方法を捨ててしまえば、我々は現実世界に対処する唯一の方法を捨てることになる。日常生活を維持するためには、我々は、この世界の客観的実在性を受け入れなければならず、そして、それは誰にとっても同じ世界なのである。何故これが必然的にそうなのか? 我々は無数の異なるやり方で検証できるし、また、一貫性を要求する無数の条件があるからだ。最終的には、そのスキーマ(理論)は我々の知覚が集めるデータより遥かに遥かに少ない情報量しか含まないようになるから、これ以外の理論でうまく適合する筈がないと確信できるのである。」(MAD, 274-275) 
**********

藤永茂(2019年1月6日)

コメントを投稿