19世紀末から20世紀初頭のヨーロッパの王室内で、血友病罹患者が多く出現しました。
1853年、ヴィクトリア女王の第4王子に最初に発現し、その後、王女らの他国王家との婚姻により大陸へ拡がりました。ドイツ、ロシア、スペインの王族間で、1914年までのおよそ60年間の3代に亘って、10名の王子らに発現しました。
今回は、血友病発現の概説及び、保因者第1世代であるイギリスのヴィクトリア女王と、発現者として第2世代である子1名、第3世代である孫3名、第4世代である曾孫の6名についてまとめます。
また、次回の記事にて、家族とともに銃殺された第4世代のロシア皇太子の遺骸からのDNA鑑定とともに、鑑定により判明した王室の血友病の同定、血友病の症状と、当時および現代の治療についてを報告します。
血友病の発現について
血友病は男児5000~1万人に1人に発現する遺伝性の病気です。
遺伝性血液凝固異常症といいます。
血液凝固は、多くの段階を経る複雑なプログラムの下に完了するものですが、遺伝子の変異により凝固因子の一つが欠損することで、出血を起こした場合に凝固しにくく、出血多量を引き起こし死に至る可能性を高くするのが血友病です。
性染色体に依存する遺伝(伴性遺伝)のうちの、X染色体連鎖劣性遺伝であり、同様の遺伝病に、赤緑色覚異常、筋ジストロフィーがあります。
この遺伝はX染色体上に起こる変異であるため、例えば、異常のある染色体をx、正常な染色体をXとすると、女親が保因者Xxだった場合、女児はXxまたはXX、男児はxYまたはXYとなりますが、xは劣性なので、男児xYの場合だけ、つまり男児においてのみ、確率50%で発現します。ただし、女児Xxは自身に症状は現れませんが、保因者となり、これも確率50%です。
逆に、男親が発現者の場合は、Xx、Xx、XY、XYのパターンとなり、つまり女児は100%保因者に、男児は100%健常者となります。
イギリス/ヴィクトリア女王
王室に現れた最初の血友病罹患者は、ヴィクトリア女王の9子のうちの第8子、四男のレオポルド・オールバニ公です。
それまでの母系家系を遡っても、血友病罹患者はいません。また後年、ヴィクトリアの娘が保因者となって孫にも罹患者が出たことを考えると、レオポルドだけに起きた突然変異ではなかったことがわかります。つまり、ヴィクトリア女王が保因者であったことは確実となります。
一般に、遺伝に依らない、突然変異による血友病は25~30%です。ヴィクトリア女王自身に突然変異が起きていたか、あるいは母系のどこかから保因されてきて、ヴィクトリアで初めて発現した可能性もあります。
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第3子アリス王女、第9子ベアトリス王女が保因者に、第8子レオポルト王子が発現者になりました
では、第2世代(子:ヴィクトリア女王を第1世代とする)レオポルド・オールバニ公から始めます。
この系図を参考にしながらお読みください↓
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①イギリス/レオポルド・オールバニ公
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王室最初の血友病患者 レオポルド王子とその母ヴィクトリア女王
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レオポルトとすぐ上の兄アーサー
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オールバニ公レオポルト
1853~1884年。
血友病の他に軽い癲癇(てんかん)もあった。ヴィクトリアの子のなかでは飛び抜けて高い知的能力、該博な知識を持っていた。
持病のため軍務には着けず、女王の秘書の役割をしていた。
1882年にドイツ侯爵の娘ヘレーネと結婚、翌年、長女アリス(+)誕生、さらにその翌年、長男チャールズ・エドワード(ー)誕生。しかし、長男誕生の4ヶ月前にレオポルドは死亡。
死因は、転倒による膝からの出血過多と頭部打撲による脳内出血。つまり血友病による失血死だった。血友病に併発する関節痛治療のための転地療養先でのことだった。
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長兄エドワード7世と風貌が似ています
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レオポルトの死後に誕生した第2子チャールズ・エドワード
享年30歳。しかし、レオポルドは王室の10名の血友病罹患者のなかで唯一、子孫を残せた一人でした。のちに他に2名が結婚しましたが、子を持ちませんでした。
男親からの遺伝の場合は、女児は保因者に、男児は健常者になることがはっきりしています。つまり、血友病の父親は、血友病の子供は持たないことになりますが、娘から孫に遺伝する可能性は高くなります。長女アリスは保因者であり、のちの結婚により、血友病の子を持つことになります。
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レオポルドと姪アリクス(+)
アリクスはレオポルトの姉アリスの娘で、のちに血友病のロシア皇太子を生むことになる(ロシア名アレクサンドラ)。アリクスは皇太子出産までの間に、自分の兄とこの叔父と甥が血友病で亡くなっている。リスクは認識していた。待望の男子出産の喜びも束の間、臍からの出血が止血するのに数日かかったことから、彼女ははっきりと運命を悟った。
続いて第3世代です。ヴィクトリア女王の孫達に保因者4名、発現者3名が生まれました。
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ヴィクトリア(一)、エリザベス(一)、イレーネ(+)、アリクス(+)兄弟の男子1人が発現者に。
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兄弟の男子2人が発現者に。写真はベアトリスとスペイン王室の孫たち
②ドイツ/フリードリヒ・フォン・ヘッセン
フリードリヒ・フォン・ヘッセン
1870~1873年。ヴィクトリア女王第3子2女アリスの7子(2男5女)のうちの第5子2男。
ヴィクトリアの2女アリスはドイツのヘッセン大公ルートヴィヒ4世と結婚。
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嫡子エルンストと母アリス
男子は2人生まれ、長男エルンストは健常でのちにヘッセン家を継いだが、二男フリードリヒは、血友病がもとで亡くなった。この時点で母アリスが保因者であることがはっきりした。
5人の女児のうち、三女イレーネ、四女アリクスが保因者であることは、のちにそれぞれの出産後にわかる。
第2世代、ヴィクトリア女王の第3子第2王女アリス(保因者)はプロイセンのヘッセン家に嫁ぎ、5女2男を生みました。そのうち、第3子イレーネ、第6子アリクスが保因者に、第5子フリードリヒが発現者になりました。
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フリードリヒは享年2歳。兄エルンストと母の部屋で遊んでいて、窓の手摺をすり抜けて6メートル下に転落、しかし幸い大したけがはなかった。ところが、重篤な脳内出血を起こして死亡。事故そのものが死因ではなく、血友病が起因して死に至った。
③イギリス/レオポルド・オブ・バッテンバーグ、④モーリス・オブ・バッテンバーグ
ヴィクトリア女王末子ベアトリスは、ヘッセン大公家庶家のバッテンバーグ家のハインリヒ・モーリッツと結婚。3男1女のうち、二男レオポルトと三男モーリスが発現者、長女ヴィクトリアが保因者となった。
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母ベアトリスはヴィクトリア女王の末娘。保因者。
長女ヴィクトリアはスペイン国王アルフォンソ13世と結婚。スペイン王家に血友病をもたらした。
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父ヘンリーは英国軍に従軍中アフリカでマラリアに罹患し38歳で亡くなった
二男レオポルド・オブ・バッテンバーグ。1889~1922年。享年32歳。膝の手術中に血友病が原因で死亡。
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レオポルド
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三男モーリス・オブ・バッテンバーグ。
ヴィクトリア女王の42人の孫のうち、1番最後に生まれた。
1891~1914年。享年23歳。第一次大戦で英陸軍ライフル兵部隊。第一次イープルの戦いで戦死。
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王室の血友病罹患者のなかで、モーリスとロシア皇太子アレクセイの2人は血友病が死因ではなく、不慮の死でした。そのため血友病を生き延びたとはいえません。
以上、第3世代までにイギリス王室から、婚姻によりドイツの大公家にまで波及しました。
ここまでで、
発現者
レオポルド・オールバニ 英
フリードリヒ・ヘッセン 独
レオポルド・バッテンバーグ 英
モーリス・バッテンバーグ 英
保因者
子アリス
子ベアトリス
孫イレーネ(アリスの娘)
孫アリクス(アリスの娘)
孫アリス(オールバニ公の娘)
孫ヴィクトリア(ベアトリスの娘)
第4世代はヴィクトリアの曾孫の代に移ります。孫の代の上記4人の保因者により、いよいよ、スペイン国王直系、ロシア皇帝直系にも発現します。
⑤ドイツ/ヴァルデマール・フォン・プロイセン、⑥ドイツ/ハインリヒ・フォン・プロイセン
ヴァルデマールとハインリヒの父はドイツ帝国フリードリヒ3世の二男であり、のちのドイツ帝国最後の皇帝ヴィルヘルム2世の弟にあたる、ハインリヒ・フォン・プロイセンである。
母は、イギリスのヴィクトリア女王の孫でヘッセン大公の三女イレーネ。母が、血友病保因者である。
イレーネは三人の男子を産み、長男ヴァルデマールと三男ハインリヒが血友病になり、二男ジギスムントは健常だった。
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ヴァルデマール・フォン・プロイセン
1889~1945年。享年56歳。最も長く、また一番最後まで生きたのは、このヴァルデマールだった。第二次大戦末期に、彼はソ連軍を避けるためバイエルン州のトゥツィンクに住んでいたが、近在のダッハウ強制収容所を1945年5月1日に米軍が解放し、医療施設をも接収したため、彼は輸血を受けることが出来ず、翌5月2日に死亡した。
30歳のときに結婚していたが、子供はなかった。
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ハインリヒ・フォン・プロイセン
1900~1904年、享年4歳。
三男ハインリヒは、テーブルの上に登って降りようとするときに、誤って頭から落ち、脳内出血で死亡した。血友病患者は脳内出血は致命的になる。英国王子オールバニ公の主な死因も脳内出血であった。頭が重く転びやすい幼児期に最も死のリスクが高い。
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ヴァルデマールとハインリヒは、血友病のロシア皇太子アレクセイとは母方の従兄弟。ただし、ハインリヒはアレクセイ誕生より5か月前に亡くなっている。
⑦ロシア/アレクセイ・ニコラエヴィチ・ロマノフ
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アレクセイと母皇后アレクサンドラ
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1904~1918年。ロシアのニコライ2世治下の皇太子。のちにスペインに誕生する血友病の王太子アルフォンソ同様、生まれながらの皇太子でした。
これまで女の子が生まれるたび、皇后は精神的に追い詰められてきましたが、ニコライは日記には毎回、冷静に、「無事に」「時間がかからず」つまり安産で生まれてきたことへの感謝を記していました。しかしアレクセイ誕生のこの日の日記は躍る心を抑えながら書いたような喜びが感じられます。
詳細は過去の記事「悲劇のロシア皇太子 アレクセイ・ニコラエヴィチ」「ロシア最後の皇帝ニコライ2世」をご参照ください。
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⑧イギリス/ルパート・オブ・テック
1907~1928年。享年20歳。
父は国王ジョージ5世王妃メアリーの弟、アレグザンダー・オブ・テック、母は、ヴィクトリア女王の息子で血友病だったレオポルドの娘アリスである。
長女メイ、長男ルパート(+)、二男モーリス(+?)がいる。
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ドイツ由来のテックの名を捨て、父の母方の旧名ケンブリッジに改名。
ジョージ5世により、外国の爵位を持つ全ての者に改名が要請され、父方の祖母のケンブリッジを名乗ることになった
ルパート・ケンブリッジ・トレメイトン子爵
1907~1928年。友人とドライブ中に自動車事故に遭う。同乗者1人が亡くなるほどの事故であった。ルパートはそれほど重症ではなかったにもかかわらず、頭を打っており、血友病による脳内出血の重症化が原因で死亡。
残された長女メイは、保因者であったのかどうか。メイの子孫の男子に血友病は出ていません。女子に保因されているかどうかですが、女子の子孫をたどると、現在1人の女性がいます。保因者である可能性は0ではありませんが、メイ以降の3世代に1人も発現はしていません。
⑨スペイン/アルフォンソ・デ・ボルボン・イ・バッテンベルグ、⑩スペイン/ゴンサーロ・デ・ボルボン・イ・バッテンベルク
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アルフォンソ・デ・ボルボン・イ・バッテンベルク(アストゥリアス公:王位継承第1位の王太子の称号)
1907~1938年、享年31歳。
父はスペイン国王アルフォンソ13世、母はヴィクトリア女王の孫ヴィクトリア・フォン・バッテンベルグ。ヴィクトリアは保因者です。
父アルフォンソは生まれたときから国王であり、国王の花嫁探しで見初められたのがヴィクトリアでした。しかし、ヴィクトリアには血友病の保因者である疑いがあり、周囲には反対もあったのですが、国王は、「保因者でないかもしれないし、保因者であったとしても子供がみな全て血友病になるわけではない」、と考えて結婚を決めました。
そして最初に誕生したのは待望の男子、しかし血友病でした。いきなり最初から血友病の子が生まれてきたので、楽観的に考えていた国王は、大いに怒り、全て妻のせいだと罵りました。この先、国王と王妃は関係が悪化したまま。結婚前から女癖の悪かった国王は、従来通りたくさんの愛人を宮廷に呼び、王妃に全く心を砕くことはありませんでした。
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血友病の王太子アルフォンソ(アストゥリアス公)に引き続き生まれた男子ハイメは、血友病ではなかったものの、乳児期に乳様突起炎という耳の病気にかかり、聾唖になりました。
その後、王女2人が誕生し、三男ファンが誕生、血友病もなく、継承者に相応しいと国王は考えます。続けて四男ゴンサーロが誕生、しかしゴンサーロも血友病でした。
王妃は病気の子供に向き合う気持ちになれず、あまり関わらなかったようです。
のちに、アルフォンソが貴賎婚を望んだとき、国王はアルフォンソの継承権だけでなく、彼の子孫の継承権も放棄するよう求めました。血友病を王統の子孫に残したくないためです。
ハイメも同様に放棄させられました。
一方で、スペインでは1931年、共和制へ移行したため、国王一家はフランスへ亡命となり、再びスペインに王室が戻ってくるのは1975年、ファンの息子のフアン・カルロスが即位しました。
アルフォンソはたびたび血友病の症状で動けなくなることもあり、生活に支障があったようです。
アルフォンソは自動車運転中に事故を起こし、ひどい内出血を起こしたことが死因となりました。
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ゴンサーロ・デ・ボルボン・イ・バッテンベルグ
スペイン国王アルフォンソ13世の末子、アストゥリアス公アルフォンソの末の弟。
1914~1934年。享年19歳。
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血友病の症状は兄アルフォンソほどではなかったそうだ。亡命後に父母が離婚してからは、パリ付近で父と姉たちと暮らした。夏の休暇を家族と別荘で過ごす間、上の姉ベアトリスと自動車で出かけ、事故に遭う。二人とも軽傷であったのだが、ゴンサーロは腹部を打っており、本人が大事にしたくないため放置していた。次第に容体が悪化し、手術もできない状況になり、2日後に死亡した。
兄アルフォンソが亡くなったのは、この4年後である。
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スペイン王室の場合、発現者のアルフォンソは2度結婚していましたが、子供はおらず、今後の血友病については、王女2人の子孫の動向に依ります。
現在までで、男子の子孫に血友病は出ていません。女子の子孫については、いまだ保因されている可能性は残ります。しかし、メイの家系と同様、こちらも3世代の間に発現は起きていません。
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/79/941bc4b112eafac775e3fb95ef143e98.jpg)
血友病は劣性遺伝なので、発現する率が低いということと、発現することで死のリスクが高まり、子孫を残すことが容易でないという性質を持つため、減衰していく宿命にあります。ただ、女子保因者には、上乗せされる死のリスクはなく、脈々と母系を伝って受け継がれている可能性もあります。
第4世代を整理すると、
発現者
ヴァルデマール(ドイツ)
ハインリヒ(ドイツ)
アレクセイ(ロシア)皇太子
ルパート(イギリス)
アルフォンソ(スペイン)王太子
ゴンサーロ(スペイン)
たまたま、生まれながらの皇太子と王太子に血友病が出たことは、王家にとっては大変な事件です。
保因者
いないか、または発現者が出ていないため解明できない
第4世代の女子7名のうち、子孫を残しているのは3名。
4名はロシアの皇女で、いずれも子孫を残さず殺害されている。
遺骸を用いた、のちのDNA鑑定では、4名のうち四女のアナスタシアのみが保因者であったことが判明した。
まとめ
1853 レオポルド 英
1870 フリードリヒ 独
1889 レオポルド 英
1889 ヴァルデマール 独
1891 モーリス 英
1900 ハインリヒ 独
1904 アレクセイ 露
1907 ルパート 英
1907 アルフォンソ 西
1914 ゴンサーロ 西
1853年のレオポルドの誕生から1914年のゴンサーロの誕生までのおよそ60年の間に生まれた10人。
そのうちの2人、モーリスは戦死、アレクセイは銃殺。まさに激動の時代が背景にあったことに思い至らされる。特に、アレクセイは皇太子という地位が、その死因になったといえる。戦争、革命が死に導いたが、アレクセイの血友病が革命を導いたとも言われている。
あとの8名は、いずれも血友病が災いして死に至っている。
手術中の失血で亡くなったレオポルド、輸血できなくて亡くなったヴァルデマール。ヴァルデマールの死も、戦争が引き起こした死だといえる。
つまり、レオポルド以外の3人は、時代によって突きつけられた死だったといえよう。生きるか死ぬかの線上で、彼らは血友病を持っていたために死へ向かう羽目になった。
残りの6名は、事故が引き金となった。
血友病は幼児期をいかに生き抜くかが大切だ。平衡感覚、行動の傾向から、幼児期は非常に危険が多く、気をつけていてもそれは突発的に起こる。フリードリヒ、ハインリヒは不幸にも頭部を打った。
また、運良く成人したものの、その分、時代を反映して自動車が普及したため、なんと3人が自動車事故で亡くなった。その死を決めたのは、怪我ではなく、やはり血友病だった。
しかし、レオポルド以外の彼らは子を残すことがなく、血友病の男子から遺伝は絶たれた。さらに、時代も大きく傾き、革命、戦争を経て、ドイツ、スペイン、ロシアも君主を捨てた。それぞれのやり方で。
苦難な時代の王族として生まれ、病によってさらに生死が背中合わせであった。一番長く生きたヴァルデマールさえも、時代の運命が病に降りかかった。
生きるのが綱渡りだった彼らに、ようやく生きても王家のものとしてはあまりにも寂しい未来しか用意されていなかった。
感想
スペインの王家の混乱を今回調べて初めて知り、ロシアのように5人目に初めてでしかも唯一の男子のアレクセイの場合と、一人目での男子の血友病で、その後3人の王子に恵まれたスペインの場合と、比較するにも、各家いずれにも難しい事情があり、血友病が介入することで、継承問題はひどく混乱するものだということを知りました。
また、結局、血友病の君主は生まれませんでした。
ロシアでは、アレクセイの即位が血友病を理由に父によって取り下げられ、実現しませんでした。革命に火がついた状況下に、12歳で、しかも血友病のリスクを抱えた新皇帝が、どうやって存在し得たでしょう?
一方、スペインでは無事に亡命し、王位継承でさまざまな揉め事も生じましたが、のちに王政復古を果たしました。
フアンの存在が希望を繋ぎ、こうして継承されたのです。
フアンは子供の頃、どのように自分と兄弟の関わりを感じていたのでしょう。
父母に対しても。
次回へつづく
はじめまして
ロマノフ家では、子供もカメラをそれぞれ持っていました。アナスタシアはトリッキーな写真を撮って楽しんでいました。
公式行事の映像は数多く保存されていますが、アレクセイが犬と遊んでいるところの映像などもあります。列車から外の将官らに話しかけている映像もありますが、肩を揺らしたり首を傾げたりしながら話す様子はどこか女性っぽく、お姉さん達の影響なのかな、と微笑ましくも感じます。
話し声もたくさん録音されていたらしいのですが、それは革命で失われたようです。残念ですね。ニコライ2世の演説の声だけは残されていて、聴いたことがあります。
革命が、家族ごとあっけなく殺してしまったことがツライ。そういう歴史の流れを追いたくて、スローペースですが書いております。
ぜひまた、時々読みにお立ち寄り下さい。
感想もお寄せいただけるとうれしいです。
ありがとうございました。