今年の夏期参詣御法門の中で、印象的だったのは第4日目の御法門です。
種子島の最初ご弘通をされた日典上人及び日良上人という方のお話です。
日典上人も日良上人も、門祖日隆聖人(1385~1464)の御弟子で、前後して種子島に渡ったお二人の連携によって全島が上行所伝の御題目のご信者となったという経緯についてのお話です。
特に日典上人は、ご弘通のために殉死を遂げられた方で、その壮絶な生きざまは時代を超えて、私たちの胸を打ちます。
もともと、日典上人は律宗の僧侶。林応と称し、種子島で生まれ育ち、優秀なため、故郷の期待を担い、奈良で遊学。その帰り道、盲目の法華宗信徒に教化され、堺・顕本寺の日浄上人(門祖日隆聖人のお弟子)の教えを受けられました。そして、門祖日隆聖人のお膝元、尼崎本興寺にある勧学院の学頭となりました。
そして、兄弟弟子の日良上人とあいはからい、故郷種子島の弘通を決意。諸事情で先に日典上人が先に渡島して、盛んにお折伏、最初は誰も振り向くものもなく、夜は松の根を枕とし、食べるものもなく海中に潜り、海草を食べて飢えをしのぐ日々でした。ところが、その死身弘法(ししんぐほう・・身をころして、法を弘めること)の姿が仏天に通じて、ついに次々に教化ができ、一時は領主や有力な家臣までも法華経本門の御題目に帰依しました。ところがそれが周囲の猛反発を買い、島民その他の迫害にあいます。ついに、浜辺で生き埋めにされ(石子詰め)尊い殉死を遂げられました。
その後をうけて、種子島に渡った日良上人は、そのままではいつ殺されるか分からない状況の中、茶人の姿で茶道を教えつつ、島民に近づき一人一人の教化を始められました。そして地元に根を張りつつ、ついに領主はじめ、島の主立った人々を教化して、全島及び種子島時氏の領地であった永良部島、屋久島三島の教化を果たしたのです。
こうしてみると、まるで最初に種子島弘通をこころざし、強い勢いで進めた日典上人のようなやり方は、反発をまねくだけで効果が薄かったように感じられます。しかし、この日典上人の尊い殉死があったからこそ、また、日典上人に対する島民の仕打ちに対する反省があったからこそ、日良上人の穏やかな進め方が受け容れられたと思われます。
つまり、二人は心の底からの同志として、日典上人が種子島に渡ってからは話はまったくできなかったでしょうが深いきずなで結ばれていました。そして、見事な連携のもとに一つの目的に向かって進んでいったのです。
本当のコミュニケーションはただ、会っているからとか、話をしているから成り立つのではなく、人間と人間が真実の出会いをして互いが互いを了解してこそ成り立つのではないかと思います。
(写真は種子島のホームページより 日典上人殉教地の石碑)
種子島の最初ご弘通をされた日典上人及び日良上人という方のお話です。
日典上人も日良上人も、門祖日隆聖人(1385~1464)の御弟子で、前後して種子島に渡ったお二人の連携によって全島が上行所伝の御題目のご信者となったという経緯についてのお話です。
特に日典上人は、ご弘通のために殉死を遂げられた方で、その壮絶な生きざまは時代を超えて、私たちの胸を打ちます。
もともと、日典上人は律宗の僧侶。林応と称し、種子島で生まれ育ち、優秀なため、故郷の期待を担い、奈良で遊学。その帰り道、盲目の法華宗信徒に教化され、堺・顕本寺の日浄上人(門祖日隆聖人のお弟子)の教えを受けられました。そして、門祖日隆聖人のお膝元、尼崎本興寺にある勧学院の学頭となりました。
そして、兄弟弟子の日良上人とあいはからい、故郷種子島の弘通を決意。諸事情で先に日典上人が先に渡島して、盛んにお折伏、最初は誰も振り向くものもなく、夜は松の根を枕とし、食べるものもなく海中に潜り、海草を食べて飢えをしのぐ日々でした。ところが、その死身弘法(ししんぐほう・・身をころして、法を弘めること)の姿が仏天に通じて、ついに次々に教化ができ、一時は領主や有力な家臣までも法華経本門の御題目に帰依しました。ところがそれが周囲の猛反発を買い、島民その他の迫害にあいます。ついに、浜辺で生き埋めにされ(石子詰め)尊い殉死を遂げられました。
その後をうけて、種子島に渡った日良上人は、そのままではいつ殺されるか分からない状況の中、茶人の姿で茶道を教えつつ、島民に近づき一人一人の教化を始められました。そして地元に根を張りつつ、ついに領主はじめ、島の主立った人々を教化して、全島及び種子島時氏の領地であった永良部島、屋久島三島の教化を果たしたのです。
こうしてみると、まるで最初に種子島弘通をこころざし、強い勢いで進めた日典上人のようなやり方は、反発をまねくだけで効果が薄かったように感じられます。しかし、この日典上人の尊い殉死があったからこそ、また、日典上人に対する島民の仕打ちに対する反省があったからこそ、日良上人の穏やかな進め方が受け容れられたと思われます。
つまり、二人は心の底からの同志として、日典上人が種子島に渡ってからは話はまったくできなかったでしょうが深いきずなで結ばれていました。そして、見事な連携のもとに一つの目的に向かって進んでいったのです。
本当のコミュニケーションはただ、会っているからとか、話をしているから成り立つのではなく、人間と人間が真実の出会いをして互いが互いを了解してこそ成り立つのではないかと思います。
(写真は種子島のホームページより 日典上人殉教地の石碑)