西洋諸国を東洋から撤退させたこの大東亜戦争こそ、世界大戦の時代を終結させることにつながったというべきでしょう。ヨーロッパの撤退という、19世紀以来の世界支配の形を完全に変えたのです。アヘン戦争からはじまった東洋における西洋支配は、アメリカを除いて終焉(しゅうえん)しました。すべて引き込まれた戦争だったとはいえ、日本は世界を変えたのです。 . . . 本文を読む
かつて原水爆禁止を訴えたストックホルム・アピールというのがあって、左翼の人たちは熱心にそれを推進した。その頃はまだソ連で原爆を開発していなかった。しかし、ソ連が自分が原爆をもつようになると、ストックホルム・アピールはどっかに消えた。そのために運動した人たちもいつの間にか知らんぷりになった。 . . . 本文を読む
日銀は来年度の上昇率を前年度比ゼロ%台とする「経済・物価情勢の展望」を30日の政策決定会合に示す方向だというから、気楽なものである。超円高はデフレを深刻化させる最大の要因なのに、日銀首脳部は「金融政策を用いて直接的に為替相場に影響を与えることは一切考えていない」と言い出す始末、つまり円高是正のための金融政策に「ノー」と言っているのだ。 . . . 本文を読む
弁証法とは、ひと言で言えば、正・反・合のステップによる論理展開法のことです。つまり、あるテーマに対して、まず「正」である賛成意見を述べ、続いて「反」である反対意見をぶつ議論形式にする。最終的には議論の成果である「合」を述べる、というやり方です。これを一つ文章の中で、自分一人で展開するのです。 . . . 本文を読む
私は、授業やビジネス・セミナーで「偏愛マップ・コミュニケーション」をメニューにしている。白い紙の上に5分から10分ほどで自分の好きなものを具体的に書いていってもらう。マップになるように、適度に散らして書く。ある程度できたところで、二人一組になり、その偏愛マップを交換し、相手のマップを見ながら話題を見つけ盛り上げていく。 . . . 本文を読む
中央銀行の独立性とは、目標の独立性ではなく手段の独立性というのが、当時からの世界の常識です。つまり、中央銀行の目標は、政府または政府と中央銀行が共同して設定するが、そのあとその目標をどのような手段で達成するかは中央銀行に委ねられるのです。 . . . 本文を読む
平たくいえば、ニューディーラーの正体は本国で相手にされない落ちこぼれアメリカ人だったのです。日本でいえば、新社会党か沖縄社会大衆党以下のマイノリティでしょう。日本人だって、新社会党や沖縄社会大衆党を指して「これだから日本人は」と言われても困ります。 . . . 本文を読む
小学校・中学校では、授業のはじまりと終わりに、起立し、礼をします。柔道や剣道といった武道でも、勝利して別れ際、相手に見せつけるようにガッツポーズをする、ということはまずありえません。やったら顰蹙(ひんしゅく)を買います。このような礼を尊重する文化の大本を探っていくと、東洋では結局のところ、儒教、『論語』の世界に行きつきます。 . . . 本文を読む
日本では、経済のことを「知っている」人が経済の専門家である。医学の知識のある人が医師。法律の知識のある人が法律の専門家。つまり学問をその対象によって分類している。これが変だということは、少し考えたら、わかるはずである。 . . . 本文を読む
北極海に対する関心が高まっている。夏場の海氷面積は20世紀後半の半分にまで減り、航路だけでなく海底に眠る膨大な原油・天然ガス開発も動き出し、米国、ロシアなど沿岸国は、「北極海は通航不可能」を前提としてきた従来の軍事戦略の見直しに入った。 . . . 本文を読む
朝日新聞にもぜひ、調査してもらいたいことがある。元NHK職員の池田信夫氏が書いたブログだ。彼は「慰安婦問題は朝日新聞が捏造(ねつぞう)したもの」として、約20年前の記事と記者の実名をあげて断定、話題になっている。しかも元慰安婦が日本政府を相手取って起こした訴訟の原告団長が記者の義母だという。 . . . 本文を読む
前世紀から続いている独裁政治の反作用として、共産主義革命が、これも二つの大国と、幾多(いくた)の国々で起こって、惨憺(さんたん)たる結果を招いた。そして、民族問題は戦争によってかろうじて矛盾を抑えられた。というのは、共産主義は戦争を必要とするからです。そういう世紀だったと思います。 . . . 本文を読む
アメリカは、戦争のような危機にさいして、内部をまとめるためにどういう方法をとるか。もちろん、「外にわれわれの敵がいる」と外の敵を叩き続ければ、いちおう国内はまとまる。これが先に述べた「ハンチントンの罠」( 註* )だ。「自由の敵だ」とか、戦争中の日本に対しては「あれはファシズムである」とアメリカの外の敵を叩き、自分たちの自由・民主というアイデンティティを確立する。 . . . 本文を読む
1891年、ロシア皇太子ニコライ(のちの皇帝ニコライ2世)が来日し、琵琶湖遊覧の帰途、大津町で警護にあたっていた巡査の津田三蔵に斬りつけられ、頭部を負傷した。そのことにより、日本はパニック状態に陥り、明治天皇は即座に夜行で京都に行幸してニコライ皇太子を見舞った。 . . . 本文を読む
日本では西洋の時計を手に入れるやいなや、金属加工の専門技術者たちが、どうなっているのだろうとすぐさま分解し、まずはまったく同じものをすぐに作った。「真似をして似たような機械を作り始めた」のではなく、すぐにまったく同じものを作ってしまい、そのあとすぐに今度は日本独自の和時計を作ったのである。 . . . 本文を読む