頭のなかというのは、情報の消化管のようなもので、そのときの体調によって、必要なことを吸収して、それが頭の栄養になる。無理にためこもうとしたのでは便秘する。どんどん食べてどんどん忘れればよろしい。ぼくはそれを、快食快便読書術と称している。 . . . 本文を読む
深い冬の真っ只中で私は知った
私の内に屈することない真夏の情熱が宿ることを
( アルベール・カミュ )
In the depths of winter I finally learned
that within me there lay an invincible summer.
( Albert Camus, French novelist, 1913-1960 )
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花の輝きに、人間はみずからの心の輝きを見る。しかしやがて、花は散り、あるいは萎(しお)れる。生命というものは、こうして輝き、そして散りながらも、それゆえに永遠でもある。死の概念なしには生はなく、そして生命の永遠もないのだが、花はそれを凝縮して見せてくれる。 . . . 本文を読む
あの文化革命の時、中国大陸から香港に流れこんだ難民は十何万かにのぼったそうである。香港市政府では、高層アパートを建ててこれを収容した。すると十階以上の居住者たちからノイローゼ患者が続出した。調べてみると、アパートにはエレベーターが一つしかないそこで十階以上の住人は下へおりられない。エレベーターがなかなか上へあがってこないのである。 . . . 本文を読む
ラッキョウは何か? 一枚皮をむいてみた。やっぱりラッキョウである。ラッキョウは何か? また一枚むいてみた。やっぱりラッキョウである。ラッキョウは何かを知りたかったら、ガブッとかじってみることである。同様に生き甲斐とは何かを知りたいと思うならば、いま手にしている職業や仕事に自分の可能性をためしてみることである。 . . . 本文を読む
慶喜が鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸へ帰って来た時、小栗上野介は徹底抗戦を進言する。一時的な感情論からではない。こうすれば絶対に勝てる、という実に見事な作戦案を持っていた。圧倒的に優勢な海軍をフル活用して、江戸へ攻め上がって来る官軍を撃滅しようというのが、小栗の考えた作戦案だ。 . . . 本文を読む
80年代に登場してきたその次の世代のリーダーたちは、戦中戦後の混乱を、学生かあるいは子供として過ごした世代だった。生まれたときには戦時体制であり、物心ついたときには自分が戦争で死ぬかもしれない、ということだけを考えた人たちである。したがって、戦後の「再建」の終わったあとの、新たな国家目標など展望しえなかったわけである。 . . . 本文を読む
八百半経営者の和田一夫氏は、当時を述懐してこう言った。「大成功こそ、最も危険な時だった。今から思えば、あの時、会社を飛躍させることばかり考えてお客のことはすっかり忘れていました。つくづく成功は失敗のもとです」と。 . . . 本文を読む
ネクスト・バッターズ・サークルでの関川のスイングの仕方を見て、どこが打ててどこが打てないか、大体わかりました。これはほとんどのバッターが気付いていないと思うんですけど、普通、スイングする時って、誰でも一番好きなコースを振るんです。
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まあ九割方、狙ったコースに打たせることができた。ゲッツーなんて運や偶然で取るもんやないで。どこに打たすかまで全部計算済みや。リリーフピッチャーやったら、こんなこと当たり前やで。( 江夏豊投手 ) . . . 本文を読む
浄土教といえば南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏といえば阿弥陀仏様にすがることだというように言われていますが、一遍上人の心持ちというのは、すべてを捨てきることで、捨てきったところに何とも言えない境地が生まれ、そのとき向こう側から、阿弥陀様が迎えに来てくださるのだという考え方です。 . . . 本文を読む
福沢の人生を見てみると、人間関係や仕事の悩みを小手先のテクニックで乗り切ろうとするより、明らかに大らかで広がりがある。福沢の慶応義塾に優秀な人材がたくさん集まってきたのは、要するに福沢の勉学の力によるものだ。単純に言えば福沢の読書量が人を引きつけている。 . . . 本文を読む
心というものはこれほど偉大なものである。人間は宇宙からこんな貴重な贈り物を授けられているのだ。現実にわれわれの周りに存在しているものだけを見ても、それらはこれまでに人間の心が描いたことによって生まれてきたものである。心が描かなかったものは存在することがない。つまり、縦から見ても横から見ても、人間の心はすべての源になっているのである。 . . . 本文を読む
メタ認知ができる人であれば、どうもいまの立場に自分の認知が左右されているようだとか、これまでの知識に囚われすぎているとか、感情に振り回された判断をしているのかもしれないという可能性も検討できる。これによって推論の誤りを矯正(きょうせい)できるわけだ。 . . . 本文を読む
人間は若いほど、とくに子供では、一日の生活が充実し、一日が興味をひく内容でぎっしりつまっている。私も小学校の時代には、夏休みは実に長かったことを思い出す。ところが、定年退職したり、子供が成長して家を出て、老夫婦だけになると、一日の生活、一週の生活の内容は疎になり、充実した時間の連続でなくなる。だから、過ぎ去った時間はまことに短く感じる。 . . . 本文を読む