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電脳筆写『 心超臨界 』

強みは物理的な能力がもたらすものではない
それは不屈の信念がもたらすものである
( マハトマ・ガンディー )

不都合な真実 歴史編 《 露梁津の戦い――渡部昇一 》

2025-03-29 | 04-歴史・文化・社会
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島津側の主立(おもだ)った武将は全員無事だったのに対し、明水軍の副将鄧子龍(とうしりゅう)は斬り殺され、朝鮮水軍も、鉄砲の弾丸にあたって死んだ大将李舜臣をはじめ、数人の幹部が戦死している。つまり、島津の兵隊たちは銃で応戦し、元寇(げんこう)のときの日本軍のように明の船に斬り込んだのである。だから、この海上戦では日本が実際は勝っていたとも言える。


◆「露梁津(ろりょうしん)の戦い」でも日本軍は勝利していた
1597(慶長2年) 慶長の役(第二次朝鮮出兵)

『読む年表 日本の歴史』
( 渡部昇一、ワック (2015/1/22)、p124 )

前の戦い(文禄の役)は明侵攻が目的であったのに対し、第二次朝鮮出兵の目的は、「礼を欠いた」朝鮮を成敗(せいばい)することにあった。動員したのは前回の約半分、14万強であった。

大きな戦闘では慶長2年12月22日の「蔚山城(うるさんじょう)の戦い」がある。築城中だった蔚山城に、麻貴(まき)率いる明軍の本隊4万、朝鮮軍2千5百が攻めてきて、警戒をおろそかにしていた日本軍はたちまち外郭(がいかく)を取られた。浅野幸長(あさのよしなが)が急遽城に入り、加藤清正も駆けつけた。

まだ建設中で、兵糧を運びこんでいなかったため、正月の1日になると玉砕寸前まで追い詰められた日本軍だが、和平交渉で時間を稼いでいるうちに毛利秀元(ひでもと)らの援軍が現れる。背後を囲まれるとは思っていなかった明・朝鮮軍は、兵糧も武器も大砲も全部捨てて退却した。

島津義弘は泗川(しせん)に築いた泗川城に明軍を引きつけ、さんざんに打ち破った。当時の記録によれば、3万8千77の首をとったという。明・朝鮮軍は島津軍を「石曼子(シーマンヅ)」と呼んで恐れ、その強さは数百年の後まで語り継がれて、日清戦争でも「石曼子」といえばシナ人は怖がったという。また、文禄の役で朝鮮の王子を満州国境まで追いつめて捕虜にし、晋州(しんしゅう)城では城壁をつぶして大量虐殺をした清正は「鬼上官(きじょうかん)」と呼ばれて恐れられた。

当時の明は、新たに勃興したヌルハチ(後の清朝初代皇帝)との戦闘が相次ぎ、財政は窮乏していたから、秀吉軍がそのまま明を倒し、朝鮮を占領しうる可能性もあった。しかし慶長3年(1598)8月18日、秀吉が伏見城で病死する。毛利輝元、宇喜多秀家、前田利家、徳川家康の四大老は朝鮮からの引き揚げ命令書を出した。

講和は諸将の判断にまかせ、本国の指令を仰ぐ必要はないというので、それぞれの武将が出先で講和を結んだ。秀吉が死んだことは朝鮮も明も知らなかった。どの武将も勝者として円滑に講和を進め、諸将は釜山(ふざん)に集まり、11月に帰国することになった。

ところが朝鮮の英雄・李舜臣(りしゅんしん)率いる水軍が明の大将陳璘(ちんりん)率いる水軍とともに、引き揚げる日本軍を古今島(こきんとう)で待ち受けていた。この水軍は小西行長・松浦鎮信(まつうらしげのぶ)の順天城(じゅんてんじょう)を攻めあぐねて、いったん引き返していた古今島で日本軍撤退を知り、海上を封鎖したのである。

そこへ島津軍が現れ、李舜臣の水軍とぶつかって「露梁津(ろりょうしん)の戦い(露梁海戦)」が起こる。引き揚げるつもりで合戦の準備をしていなかった島津軍は、海上で待ち受けていた敵の大軍にさぞ驚いたであろう。島津軍は大苦戦のすえ命からがら逃げた。というのが通説となっている。

ところが、島津側の主立(おもだ)った武将は全員無事だったのに対し、明水軍の副将鄧子龍(とうしりゅう)は斬り殺され、朝鮮水軍も、鉄砲の弾丸にあたって死んだ大将李舜臣をはじめ、数人の幹部が戦死している。つまり、島津の兵隊たちは銃で応戦し、元寇(げんこう)のときの日本軍のように明の船に斬り込んだのである。だから、この海上戦では日本が実際は勝っていたとも言える。

( 中略 )

明・朝鮮の報告書は、とにかく皇帝に褒(ほ)められるために出すものだから、都合のいい嘘を書き連ね、十倍、二十倍の誇大な戦果を報告している。日本としては自分たちの被害しかわからないから、向こうの史料だけを読むと負けたように見えるのである。明の兵隊は朝鮮人の首を切って日本人の首だと言って出世した。朝鮮人も同胞(どうほう)の首を取って差し出したという。

明の文献によれば、この戦いで「府庫(ふこ)、虚耗(きょもう)す」、つまり明の蔵(くら)は空になった。この18年後(1616)にヌルハチは後金(こうきん=後の清)を建国し、その28年後、明は滅亡する。
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