TOHOシネマズの吸収合併の一連の騒ぎが沈静化し、合併にむけての手続きが随時行われるようになったころ、私は、人事担当のS重役のひそかな呼出をうけました。診療所の会議室に来るように、ということでありました。
「ながた。今日はちょっと大事な話がある。心してきいてほしいのだがね」
S重役はそういって、ちょっと緊張した面持ちで切り出しました。
「きみは、髙橋専務にメールを送っているね。毎日。どうだね?」
私は、ああ、と小さくつぶやきました。「はい、申し訳ありません。このところ、ご相談したいことが山ほどあって、専務にしかご相談できないことばかりなのです」
するとS重役が悲しそうに言いました。「そう。素直に認めてくれたか。実は髙橋専務から僕に内密に相談を受けた。君から連日メールをもらって困っているとね。それから、髙橋専務にやたらと話しかけてくるのも、専務はご迷惑だといっている」
私は、ショックをうけました。「でも、髙橋専務はご相談にのってくださいました。私が話しかけても、気さくに応じてくださいます」
S重役は続けました。「それは、髙橋専務が素晴らしい方だからだよ。だがね、ながた。髙橋専務はいずれもっと重要なお立場になる方だ。お前が軽々しく話しかけてはいけない相手なんだよ。ましてや、一社員の分際で、役員の方に個人的なメールを送るのは、それはあまりにも軽率な行為ではないかね?」
私は、非常に悩みましたが、S重役に打ち明けることにしました。
「実は、私も悩んでいます。私は、TOHOシネマズのこと、自分の病気のこと、宝苑インタビューや編集方針についての悩み、あまりにも山積していて、だれに相談してよいかわからず、専務にだけご相談申し上げていたのです。そして、メンタルの病気の症状かもしれませんが、専務にメールをお送りすると、とてもほっとします」
S重役もショックを受けたようでした。
「病気の症状が、専務にメールを送ると緩和されるのかね?それはメンタルクリニックの先生にはご相談したの?」
私は答えました。
「はい、少し。でも、お医者様は『それは、髙橋専務があなたにとって【職親】だからだよ。職場の親といって、精神的な支柱になっているケースでもあるんだ』と説明してくださいました。それを私は高橋専務にご報告しました」
S重役は、
「そのことは、専務からも僕はきいている。専務も、おそらく君のかかえているメンタルの病気のせいだろうと心配しておられるんだ。だから、きちんと、主治医から、君の正式な病名の診断書を出してもらいたいのだよ。そして、今後一切、専務にはメールをださないこと。専務から話しかけることがあっても、君から話しかけてはいけない。ましてや、TOHOシネマズの吸収合併の問題で、君がこれ以上専務に対して、意見を言ってはならないよ」
と重々しくいいました。
私はビックリしました。
「なぜですか?なぜ、意見を言ってはいけないのですか?」
S重役は
「君もサラリーマンなら、そのくらいのことは察しがつかないかね。専務がそれはご判断を下すべきことで、一課長の君が偉そうにいうべきことではないということだよ。それにね、君は、社内中に警戒されているよ。『ながたは、髙橋派だ』とね。君もMS(管理職)なのだから、社内での発言、こと髙橋専務に関する発言には注意したまえ」
と、さらに私をにらんできました。
私は、呆然となりました。「私が、サラリーマン・・・?」
S重役がいぶかしげに私の顔をみました。
「そうだよ。自分をなんだと思ってるのかね。君はプロデューサーでもなければ、OLでもない、サラリーマンの一人なんだよ」
「・・・承知しました」
私は、会議室を悄然と出ていきました。総務部のフロアに戻ると、髙橋専務がいらっしゃり、緊張した面持ちで、私に話しかけてきました。
「Sとは話ができたかね?」
私は涙をぬぐいながら、
「ハイ、専務。とても悲しいですけれど、専務のお気持ちは理解できました。申し訳ありませんでした」
というのが精いっぱいでした。
髙橋専務は、私の涙をみて、大変ショックを受けたようでした。
「ながたさん、本当にすまない。どうか傷つかないでほしい。僕は、君が傷つくのをみるのは、いちばんつらい」
とおっしゃって、
「ちょっと会議室で話そう」と、そのまま言葉をつづけられました。
「会社というのはね、『職制』というのがあるのを、ながたさんは知ってるかね?」
とやさしく尋ねられました。
「僕もながたさんといろいろたのしく、宝苑や、東宝のことや、好きな映画や芝居のことをおしゃべりしたい。でもね、周りの人はいろいろな考えの人がいる。君は課長だが、僕は役員だ。宣伝部では、けいちゃん(中川敬さん)の個性もあるし、宣伝部独特のカラーがあるから、直接役員と話をしたりすることもできたと思う。宣伝部はその点、自由なんだよ。」
「でもね、本来会社というのは、係長~課長~室長~次長~部長~役員、という形の『ライン』『職制』があって、そのルールにしたがって、報告や相談、連絡を行うものなんだ。それはわかるかな?いままでこういう組織のルールは知らなかったかな?」
私は、泣くのをこらえて、
「申し訳ありません。私は、父がタクシーの運転手でしたし、そういういわゆるサラリーマンの組織というのは、よくわかりません」
と申し上げました。髙橋専務がああ、とまたちいさくつぶやきました。
「それは申し訳なかった。・・・それにね、僕は男で、君は女性だね。こういうことをいうと失礼だが、僕と君が愛人関係だ、と噂する人間もいるんだよ。それは断固として、避けたい噂だよね」と髙橋専務が苦しそうにいいました。
私は、目をまん丸くしました。
「私が・・・専務の愛人ですって?!」
私は泣き笑いしました。
「こんな色気のない、ぼーっとしてる私がですか?そんなわけないじゃないですか!」
髙橋専務が苦笑いしました。「そりゃそうだよね。全然僕たちの間にはなんにもない。僕と君は、上司と部下というだけだし、職場の仲間というだけだ。だが、世の中にはいろいろな見方をする人間がいるからね。注意しなければならない。君からもらうメールもそうだ。僕だけが見てるわけじゃないんだよ。ほかにも見ている人がいるんだ」
私はわっと泣きました。
「どうしたらいいんでしょう!ごめんなさい!ごめんなさい!」
髙橋専務は優しくいいました。
「いいんだよ。これから気を付ければいいからね。Sがどういう言い方を君にしたかは知らない。でも、僕は自分のメールを自由にみることのできない立場なのだよ。役員というのは、そういう責任も問われるからね。だから、メールを送ってはいけないよ、というのはそういうことなのだよ。君自身が誤解されてしまって、へんに嫌がらせをうけてはいけないからね」
私は泣くのをやめ、笑顔をがんばってつくりました。
「わかりました。専務にご迷惑をかけないように、がんばります。なるべく、自分で解決できるように、努力してみます」
専務はうんうん、とうなずきました。
「もちろん、君にはTという室長も、Y次長も、I総務部長もいるから、どんどん彼らを信頼して、相談していくことを努力するんだよ。始めは君のことを理解できないかもしれないが。でも、徐々に君のやりたいことがわかってもらえるようになる。サラリーマンはね、我慢が必要なんだよ。こんちくしょう、とおもったことが僕もたくさんある。でも、がまんするんだよ。時期が来るのを待ち、仲間をつくるんだよ」
そういって、「では、僕はこれで話をおえるよ」と会議室を出ていかれました。
私は、しばし黙考しました。そして、明るく笑顔で毎日対応していくことにしました。髙橋専務は笑顔になり、I総務部長もTさんもほっとしたようでした。
(つづく)