新・台所太平記 ~桂木 嶺の すこやかな日々~

N響定期会員・桂木嶺の、家族の介護・闘病・就職・独立をめぐる奮戦記を描きます。パーヴォ・ヤルヴィさんへの愛も語ります。

【思い出話、うらばなし】「カルミナ・ブラーナ おお、運命の女神よ」と、「梟の城」の思わぬご縁♪ 聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥?!

2019-02-07 10:25:38 | 東宝時代の思い出

なんだか、すっかり「東宝宣伝部の思い出ブログ」と化している、このブログですが、ほんとは、NHK交響楽団首席指揮者の<パーヴォ・ヤルヴィさん>の応援ブログでもありますので、みなさんビックリしないでくださいね(^_-)-☆ 

でも、なぜか、

映画「梟の城」(1999年公開、篠田正浩監督作品、中井貴一主演)と、

パーヴォさんが思わぬご縁で結ばれた

いうお話をこれからさせていただきたいと思います。

※こちらは「梟の城」第2弾ポスター。宣伝コピーは「愛するのか、殺すのか。」に変わりました。役者さんの顔写真もでていたので、さっそく取り込みました。

「梟の城」は、先述しましたように、宣伝プロデューサーは市川南さん(現・東宝㈱常務取締役)でしたが、新しい仲間が加わり、新風を巻き起こしてくれました。

それが、東宝でも珍しい、女性の宣伝プロデューサーとして期待されていた、”きゅうちゃん”こと、N嬢です。大変に明るい美女で、背も高く、モデルさん並みのすらりとした体形のよさに、マスコミの方もファンが多く、なんと、週刊朝日のカトリーヌあやこさんの漫画にも登場したほどのたのしいキャラクターの持ち主でした(^_-)-☆

ここでは”きゅうちゃん”としてお話させていただきます。きゅうちゃんは、大変なアイディアウーマンで、いろいろと「梟の城」についてもアイディアを出して、大ヒットに貢献してくれました。そして、私にとてもなついてくれた、かわいい後輩でもありました(^_-)-☆(のちに、「クレヨンしんちゃん」シリーズや、「冷静と情熱のあいだ」の宣伝プロデューサーとしても、大ヒットを飛ばしました。現在は退職して、2女のママです^^)

「ながたっち~!(と、きゅうちゃんは私のことをこうよびました)、ねぇねぇ、『梟の城』のテレビスポットのBGM、なにがいいと思います?ながたっちなら、アイディアあるでしょ、ねぇ、知恵貸して~♪」

きゅうちゃんがこう言ってくるのには、わけがありました。実はその前の年の宣伝部の秋の社内旅行で地方に行ったのですが、そこで、余興のイベントとして、

「宣伝部杯・第1回映画サントラ

超ウルトラクイズ」

なるものをしたのでした。

ルールは簡単。映画のサントラをちょこっときいただけで、会場の大広間にある座布団をとり、とった人が正解を答える、というものでした。宣伝マンは無類の映画好きがそろっています。みんな大張り切りでクイズに参加したのですが、

実は最後まで勝ち進んだのが、先述の「リング」「らせん」「ポケモン」の宣プロ・T先輩と、市川さんと、かくいう私、かつらぎだったのでした!

たとえば、こちらの映画のサントラ、なんだかわかりますか?

https://search.yahoo.co.jp/video/search;_ylt=A2RA0DgGd1tcfCAAu4eo_AF8?p=%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%A2%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%80%80%E4%BA%88%E5%91%8A%E7%B7%A8&fr=top_ga1_sa&ei=UTF-8&mfb=2141_71c

正解は、「ホーム・アローン」(マコーレー・カルキン主演の大ヒットコメディ)ですね!!!!

曲がワンフレーズ、ちょっと流れただけで、この3人がすさまじい勢いで、座布団を奪い合ったので、中川さん、矢部さん、以下宣伝マンは、大爆笑!!なぜなら、市川さんは、ふだんはとても冷静で、とてもそんなゲームに熱くなるタイプにはみられなかったし、私も普段は、バタバタ、アタフタと業務をこなしているタイプだったので、「ながたさんって、ああみえて、じつは、<お祭り娘>なのね~💦」と女性陣から、笑われてしまうほど、大変に社内旅行のイベントはエキサイトしたのでした!!!

きゅうちゃんは、いたずらっぽくわらいながら私にいいました。

「やっぱり、映画のBGMのことなら、ながたっちに聴くのが一番だとおもって(^_-)-☆」

私は大変照れ臭かったですが、きゅうちゃんのご相談にのることにしました。これがいままでの、「梟の城」の予告編で使われた音楽でした。

https://www.youtube.com/watch?v=PPoDjI4ZNzg

きゅうちゃんが、「この予告編は、若い人向けにはいいと思うんですけど、なんかもうちょっと大作感がほしいんです。なにが足りないと思います?」と聞いてくれたので、わたしは、即座にこたえました。

「きゅうちゃん、『カルミナ・ブラーナ』をつかってみるといいんじゃないかな?」

きゅうちゃんは、ぱっと顔を明るくしました。「ああ、『カルミナ・ブラーナ』!」

私は晃華学園(つつじヶ丘)に通っていましたが、きゅうちゃんは、となりの駅の桐朋学園の高校(仙川)を卒業していたので、クラシック音楽に詳しい女性だったのです!

きゅうちゃんは「いいですね!さっそく市川さんに相談してみまーす♡」と嬉しそうに、市川さんに相談しにいきました。私はよかったなぁとおもっていました。

すると、しばらくして、こんどは、市川さんがすっとんできました!

「ながた、ながた!よく言ってくれたよ!この『カルミナ・ブラーナ』、映像にピッタリだ!最後の『臨・兵・闘・・』のフレーズにもばっちり合うしね!これで篠田監督に相談してみる!」

そういって、市川さんもニコニコしながら、篠田監督に会いに行きました。もちろん、篠田監督もOKをだしてくださいました。

その「カルミナ・ブラーナ」の有名な冒頭「おお、運命の女神よ」を第2弾特報やテレビスポットで使うことが決定しました!音楽はこちら!

カルミナ・ブラーナ おお、運命の女神よ カール・オルフ

 

私達はすっかり気をよくして、宣伝担当常務であった中川敬さんに、第2弾特報とテレビスポットをみていただくことにしました・・・ところが!

中川さんが、真っ青な顔をして、

「みなみちゃん!きゅうちゃん!

ながたっち!

なんで『梟の城』に『カルミナ・ブラーナ』をつかったんや!?

至急差し替えせなあかんで!!!

これはゼッタイに、あかんで!」

と怒鳴りはじめたではありませんか!

市川さんはビックリして、

「でも、篠田監督はOKだしてくださいましたけど・・」と恐る恐るいいました。

中川さんは今度は顔を真っ赤にして

「監督がOK出しても、俺がOKださなければあかんねん!

あかんものはあかん!」

と言い張ります。

きゅうちゃんは、実はけっこう気がつよいひとで、

「私は絶対、この『カルミナ・ブラーナ』がいいと思います!」

と、負けじと言い張りました。

私も「常務、私も・・・これがいいと思いますけど?」とおずおずとききました。

中川さんは、歯噛みしてくやしがりました。

「みなみちゃん!篠田監督に見せる前に、俺になんで特報を見せんのや!もう編集しおわったんか」

市川さんは当惑しながら、

「はぁ・・・もうテレビ局と映画館にこれで納品をしようと思ってますけれども・・・(@_@)」

中川さんは「こまったなぁ・・・」と頭を抱えています。

私が「なにか理由があるんですか?」と聴きました。

中川さんは

「・・・うん?まぁ・・・

うまくいえんのやけど・・💦」

と、急にへどもどし始めました。

きゅうちゃんが「常務のお好みに合わないんですか?」とツッコミをいれると、中川さんが一喝しました。

「ちゃうねんて!そんなもんやない。これ、全国の人がみるのやろ?あー、まったくこれだから東京モンは!」

しばらく謎の言葉をぶつぶつおっしゃっていましたが、やがて観念して、

「ま、ええやろ。俺は知らんで。

とりあえず、『梟の城』は

この『カルミナ・ブラーナ』で、

おまえら、勝負かけてみぃ!」

おっしゃったので、一同ほっとしました。

そこで、「『梟の城』カルミナ・ブラーナ編」のテレビスポット、特報が、全国でがんがん流されることになりました!大きな話題を呼び、結果はなんと、時代劇映画としては異例の大ヒットを記録し、市川さんときゅうちゃん、私は

「ばんざーい\(^o^)/」

と祝杯をあげました。

中川さんも、

「ま、終わりよければ総てよし、

やな。ごくろうさん(^_-)-☆」

と笑顔で返してくださいました。

そして、あれから19年後・・・。わたしもきゅうちゃんも東宝を退職し、私は私生活でバツイチになったりと波乱の一年でしたが、2018年10月1日に、運命的な出会いを2017年6月に果たした、N響指揮者のパーヴォ・ヤルヴィさんのコンサートに行きました。NHK音楽祭で、私の大好きなこの、「カルミナ・ブラーナ」を演奏してくださるからでした。

実は、パーヴォと知り合って、すぐに私はメールとお手紙を出しました。その中で、こう書きました。

「マエストロ・パーヴォ、ぜひあなたに、指揮していただきたい曲があるのです。

それはカール・オルフの『カルミナ・ブラーナ』です。

あなたにこの雄大なスケール感がぴったりはまるとおもうのです」

そして、私が、子供のころからこの曲を聴いていること、『梟の城』で予告編に使用したことなどをお話しました。

パーヴォからお返事は来なかったのです・・が、なんとその1年4か月後に、パーヴォがNHK音楽祭で、この曲をとりあげてくださったので、私はすっかり狂喜乱舞!NHKホールの一番前の席にすわって、聴きました(^_-)-☆

あー幸せ!極上の音楽体験・・・になるはずでした。

もちろん、全曲そらんじていましたので、ウキウキしながら、フンフンとリズムをとって聴いていたら、いつもはそういう私をパーヴォは、とってもやさしく見つめてくださって、私のほうを向いて指揮してくださるのですが、なぜかこの日は、

「あー、チコがすっかり

ノッてるぅ・・💦

ボク、まいったなぁ・・💦」

という表情で指揮をされていたので、「あれれ?パーヴォ、どうしたんだろう?」と思っていました。パーヴォは時々、私の顔を覗き込みながら、「ほんとに、この曲でそんなにノッちゃうの?」という顔をして、ときどきポッ(´∀`*)と照れておられたので、私は「おかしいな?おかしいな?(@_@)」と思っていたのでした。

そのときは演奏が無事におわったのですが、なぜかパーヴォのいつものサイン会もなし。ますます「おかしいな、どうしちゃったんだろう・・」と首をかしげる私でした。

しかし!

12月に、このNHK音楽祭の模様が「クラシック音楽館」で放送されることになり、私はイソイソと、テレビの前に鎮座しました。するとパーヴォが大変神妙な顔をして解説をし、指揮しているではありませんか!(しかも、マロさんの解説もなく!!!)

私は、テレビの中の歌詞の訳を見て、「え゛ぇぇぇ?!」と、ぎょっとなりました。

とっても、なんだか、・・・エッチな言葉が(NHKとしては放送コードぎりぎりのフレーズが)がんがん飛び出してきていたのです!!!

(このテロップはまだいいほうでして・・)

パーヴォがとっても私に困惑していた理由と、中川さんが、「差し替えや!」と怒鳴った理由がようやくわかりました!

「カルミナ・ブラーナ」とは、

聖職者(キリスト教のですね)や学生が、どんどんエッチをしていいぞ!

と酔っ払って歌う、

<コミックソング>みたいなものだったのです!

もちろん、私が買ったCDには、そんな訳はでていませんでしたし、晃華学園で中学1年のときに聴いた時は、目白のカテドラル大聖堂で、しかも白柳大司教さま(当時。故人)をお迎えしての演奏だったので、大変感動していたのでした!

なのに、

「司教も学生も男も女も、

どんどんみんなでエッチしよう!」

という曲だったとは!!!!

 

そこで気づきました。

 

中川さんはフランスに留学経験があるから、この歌の本当の意味をしっていたのだと!

 

パーヴォはもちろん、世界的な指揮者ですから、この歌の意味と本来の意味を当然しっていたのだと!

 

で、ふたりとも私たちにほんとのことが言えなくて、すっかり困り果てていたことを!!

 

それで、パーヴォが思い切って、ほんとの訳をNHKで全国放送したと!!

 

ああ、まさに聞くは一時の恥!聞かぬは一生の恥!!!

いまYouTubeで「梟の城」のカルミナ・ブラーナをつかった予告編がどこにもでていないので、ほんとに残念ですが・・誰かがやっぱり気づいたんでしょうね。

あーん、はずかしいったら、ありゃしないです!💦💦

でも、『カルミナ・ブラーナ』は名曲だと思います・・・(´∀`*)ポッ

へんな意味でなくて、音楽的にすばらしいとおもうので、

今度は訳を一切のせないで、放送していただければうれしいです♡

 


【思い出話、うらばなし】東宝マンの輪はどこまでも?!映画「誘拐」がとりなす映画・演劇人の輪♪

2019-02-06 23:52:10 | 東宝時代の思い出

いまのところ、調子にのって、東宝時代の思い出をつづっておりますが、私の師匠でもあり、東宝の大先輩でもある、渡辺保先生にはすっかり叱られてしまいそうです(笑)

「ながたさん(と保先生は、いつも私をこう呼びます)、僕は東宝時代のことは、どこにもしゃべってないよ。君もあちこちで書いちゃダメだよ💦」と苦笑いされそうですが、思わぬ保先生と、東宝映画マンの輪、ということで、このエピソードをご紹介したいと思います!

こちらが渡辺保先生です。とってもやさしく、時にきびしく、時にユーモアたっぷりにご指導くださる、劇評においても人生においても、私に多大な影響をあたえてくださっ大師匠です!

東宝でも演劇部企画室長という要職にありました。劇評活動の傍ら、故・蜷川幸雄さんとの「近松心中物語」「それは恋」「NINAGAWAマクベス」などを大ヒットさせつつ、最後は実はあの、ミュージカルの金字塔「レ・ミゼラブル」をロンドンから輸入し、大成功に導き、東宝を退職され、以降は、演劇評論の第一人者として大活躍。いまは、日本芸術院会員であり、毎月の歌舞伎評論でも鋭い論陣を張っておられる、すばらしい先生です!

さて、渡辺保先生と、東宝の映画マンがどんなかかわりあいがあるかと申しますと・・?!

1997年は、邦画の当たり年でもありました。宮崎駿監督の「もののけ姫」があり、伊丹十三監督の「マルタイの女」(残念ながら遺作になりましたが、傑作でした!)、三谷幸喜監督の第1回監督作品「ラヂオの時間」があり、そして、大河原孝夫監督の「誘拐」があって、まさに質量ともにすぐれた作品がそろって、嬉しい一年でもありました。邦画も、前年の「Shall we ダンス?」(周防正行監督)の大ヒットと日本アカデミー賞総ナメという快挙を皮切りに、徐々に邦画が映画産業として、復活を遂げつつあるという手ごたえを感じており、東宝宣伝部は、みんなやる気満々になっていたのでした。

中でも、いちばん張り切っておられたのは、シナリオライターの登竜門・城戸賞を受賞した映画「誘拐」の宣伝を任された、宣伝プロデューサーの伊勢伸平さん(のちに「ハウルの動く城」「猫の恩返し」「愛を乞うひと」「大河の一滴」などの宣伝プロデューサーを務める。映像本部宣伝部長を経て、現・東宝東和㈱常務取締役です)でした。

伊勢さんは、私より入社は一年先輩でしたが、東京大学出身。大変な秀才で、宣伝トークは口八丁手八丁。話題は豊富だし、クラシックは玄人はだしの詳しさだし、体育会系で体力もあるし、というまさに「文武両道にすぐれた」先輩でした。そのエース宣伝マンぶりは、鈴木敏夫スタジオジブリ・プロデューサーの名著「ジブリの仲間たち」に詳しく書かれていて、ご本人もインタビューに登場されています。

 

ところが、とってもエリートにみえる伊勢さんでしたが、とんでもない”欠点”がありました・・・

実は大変に<競馬好き>だったのです

(爆笑)!!!

毎週金曜日の夕方になると、真剣に、印刷会社の営業さんのOさん(先述の「千と千尋の神隠し」の営業のおじさまです^^)やTさん(別の会社の方で彼はゴジラのポスターをすべて印刷していました)と「打ち合わせ」をしているので、私が「イセどん!(と、今考えれば畏れ多いことですが、わたしは彼のことをこうあだ名をつけて呼んでいました。”イセどん”も大喜びでした^^)ポスターはそろそろできあがりそうですかぁ?そろそろ決めてください!」と締め切りの催促にいくと、「うん?うーん、ながたっち、ちょっと待っててね!今ボク、いそがしいの!」と、すました顔で、OさんやTさんとずっと競馬の予想をして夢中になるくらい大好きな方でした(イセどん、ばらしてしまってごめんね💦)。

どのくらい好きというと、あまりに好きすぎて、故・森田芳光監督(彼も大変な競馬好きとして有名でした)のご指名がかかってしまうほど、”イセどん”は競馬好きでした(笑)まぁ、それでお仕事のお声がかかるくらいですから、人間なんでも趣味って大切ですね(笑)さすがに今はエライ方なので、もう競馬の予想はやめたと思うのですけど・・・?!

でも、その”イセどん”ががらりと仕事に対するスタンスを変えたのが、この映画「誘拐」でした。

なんといっても、この「誘拐」はシナリオ(森下直さんの傑作です!)が抜群に面白くて、すばらしい作品でした。テレビ部時代の先輩で、東宝映画の本間英行プロデューサーから、「ながた、これすごく面白いから意見きかせてよ」といわれたほど、シナリオを読み終わった時の感動と爽快感を覚えています!

前半は大変ハラハラするサスペンス、後半はワーッと泣かせる感動作ということで、まさに「傑作誕生!」「日本映画完全復活!」の予感に満ちた作品でした。

”イセどん”と私達は、まさにこういう日本映画を待っていたのでした!

キャストも豪華で、渡哲也さん、永瀬正敏さんという大スターをお迎えすることができ、東宝としても、盤石の態勢で臨むことになりました。

”イセどん”は益々張り切り、私に、宣伝プラン(予告編のプランから、ポスターのビジュアル、コピーまで)をいろいろ相談してくださり、私も大変うれしかったのを覚えています。

「3億円の身代金と身代金受け渡しのテレビ中継」

という前代未聞の設定をどうするか、ずいぶんプロデューサーや監督、イセどん、いや伊勢さんと話し合ったのを思い出します。

そして、このむずかしい撮影を誰にお願いするか、ということで、白羽の矢が立ったのが、東宝撮影所の大先輩にして、名カメラマン、そして、いまは映画監督としても八面六臂の大活躍をされる、木村大作さんだったのでした!

そして、無事に映画が完成し、私はその映画のすばらしい撮影にすっかり感動し、ワクワクとしていたのでした・・・が!!!

これで大変なことになったのは、宣伝部と映画調整部のある、東宝の旧本社の8階フロアです。なぜかって?私は、「木村大作さんってどんな人なんだろう(^_-)-☆ 高倉健さんの映画を撮ってる名カメラマンだよね。楽しみ楽しみ♪」と思っていたのです。キネマ旬報も愛読していた私にとって、「木村大作」という名前は、まさに憧れのお名前でした。

ところが、ある日、それが大変なことだとわかったのでした・・!!

「おーい、イセ!イセはいるかぁ!!!

高井ぃ!島谷ぃ!

だれかいないのかぁ!!!!」

8階中に響き渡る大きな声で、やってくる、ひとりのオジサンがいたのです!宣伝部の若いスタッフたちは仰天して、てっきり業界紙の記者さんがきたのかと思ったほどでした・・。

こういうときに、なぜか、「ながたっち・・ごめん、ちょっとその方の接客してくれる?」と頼まれてしまう私でした。イセどんも、(映画調整部のプロデューサーでもある)高井さんも、島谷さんも、誰もいなかったのです!わたしは恐る恐る、オジサンに挨拶をしました。

「あの、申し訳ございません、あいにく、だれもいないのですけれども・・みな打ち合わせにでておりまして」

すると、オジサンは、「なにーっ!? 誰もいないだと?! まったく、お前ら、先輩をなんだとおもってるんだ!?」と怒鳴り始めたので、私はビックリして、「申し訳ございません、失礼ですが、お客様はどなたでいらっしゃいますかぁ?」と聞きました。

すると、オジサンは、急に「あーっはっはっは!」と笑い出しました。

「おまえ、俺を知らないで、この会社に入ってきたのか?すごい根性だな。

木村だよ!木村大作だよ!」

先輩たちは、こそこそと小さくなって陰に隠れていました(まったくもぉ~!)。

わたしは「え゛ぇぇぇ~っ!?」とひっくり返りそうになりました。この、とっても暴れん坊そうな、とんでもないオジサンが、あの天下の木村大作さん?!うそでしょー!!!

木村さんは、カラカラと大声で笑いました。「そうか。俺も年をとったな。そりゃ君くらいの年じゃ、俺を知らないんだろうなぁ‼ まぁ、いいや、キミと話そうや」私は、顔が真っ青になりました。木村さんみたいな巨匠と話せる身分ではとてもなかったのです。宣伝プロデューサーは、そういうスタッフやスターさんのお相手をしてよかったのですが、一宣伝ウーマン、しかも宣材担当では、とてもお相手を許されるものではないからです。

ところが・・・・。木村さんは、「おい、『誘拐』の試写は見てくれたかい?」と気さくに声をかけてくださる、優しいオジサマでもあったのでした。

私はすっかりうれしくなって「ハイ!カメラワークが最高でした!特に銀座の身代金を引き渡す場面の迫力もすごいし、後半の湖での対決シーンも見ごたえがありました!!傑作ですね!」といったら、木村さんがすっかりゴキゲンになってしまって、「おお、そうか!キミ、なかなか見る目があるなぁ!」と破顔一笑!私はほっとしながら、「後半すばらしかったので、泣いてしまいました(^_-)-☆」といったら、木村さんは、メガネの奥の目をますます細めて、「よかった、よかった。男くさい話だからね、キミのような女の子がわかってくれて、俺もうれしいよ!」と豪快に笑い飛ばしました。

木村さんから「キミは、ずっと宣伝部にいたのかい?」と聞かれたので、「いえ、94年にテレビ部から異動になりまして。」といったら、木村さんが「おおっ!じゃ、キミは(東宝)撮影所出身か!」と、突然ニコニコしだしたので、私は益々うれしくなって「ハイ!撮影所や目黒スタジオでドラマを作ってました!」と答えたら、木村さんが「そうかそうか!いや、女の子で、俺のカメラワークに注目してくれるなんて珍しいからな。撮影所出身じゃたのもしいな!」と、かんらかんらと豪傑笑いをしました。私も、周囲の先輩たちもすっかり一安心♪

そこへ、イセどんが打ち合わせから帰ってきました。イセどんは、木村さんと私がおしゃべりをしている光景をみて、「あっちゃー!」と慌てていましたが、木村さんに会うなり、ニコニコと、「大作さん!試写回ってますけど、大好評ですよ!」とすかさずお話したので、木村さんが大変ゴキゲンになって、「そうらしいな!おい、イセ、これはガンガン試写を回して、宣伝するしかないぞ!大ヒットさせような!」と檄を飛ばされ、イセどんも大変うれしそうでした(^_-)-☆

あとは、イセどんの流れるようなスーパートークにおまかせして、私は自分の本来の業務についたのでした・・・(笑)

おかげさまで、映画「誘拐」は大変ご好評を博し、日本アカデミー賞の優秀賞を受賞したほか、日刊スポーツ映画大賞の主演男優賞(渡哲也さん)、キネマ旬報のベストテン7位にランクインという、大変輝かしい成果を収めたのでした。

イセどんもすっかりこれでスター宣伝プロデューサーの仲間入りを果たし、やがて、日本映画実写作品興行収入ナンバー1の映画「踊る大捜査線 THE MOVIE2 レインボーブリッジを封鎖せよ!」、そして、日本映画興行収入第3位の超大ヒット作、スタジオジブリ作品「ハウルの動く城」で、その剛腕にして、辣腕ぶりを発揮するまでなりました!

で、数年後。私は2003年から、東宝の総務部広報課(現在の広報・IR室)に異動になり、社内報の編集を命ぜられ、張り切っていました。とりあえず、東宝の、毎年の新入社員紹介欄を、昭和32年(1957年)からずっと見ていて、人的な流れを覚えようと、毎日ページをめくっておりました。

すると衝撃の事実が・・!!!!

1958年(昭和33年)の入社した人たちの顔写真と名前を見て、

私は「あ゛~っ!!!!!!」と叫びました。

なんと、渡辺保先生と、木村大作さんと、(私の就職の世話をしてくださった)林芳信さん(当時東宝の副社長でいらっしゃいました。故人)は、全員、同期生だったのでした!!!!!!!

ということは、林副社長は・・・渡辺先生は・・・木村大作さんは・・・全員、私の過去の「やんちゃ」ぶりを知っている?!

実は映画界のトップと、演劇界のトップは

全員、つながっている!!!???

・・・・・私は、「悪いことはできないものだ」とつくづく感じた次第でした・・(苦笑)。

その後、木村大作さんは映画監督業に進出。最近では、「散り椿」なども好評で、まさに王道、正統派の監督でありながら、バラエティにも進出され、大人気を博しておられます。お人柄の明るさ、豪放さに励まされ、慕う映画人も多いのもむべなるかなと思います(^_-)-☆

渡辺保先生は、私が大病に倒れた時も励ましてくださって、

「いいかい、ながたさん、僕を支えたのは劇評だよ。

劇評は絶対に手放しちゃだめだよ!」

と励ます一方で、

「僕だって、ちゃんといつも東宝の映画をみてるんだよ(笑)『海猿』だって見てるもの!だから、ちゃんとお給料をもらった会社の映画は見るんだよ!」

と、大変に義理堅いところをみせておられました(^_-)-☆

あらゆる意味で対照的なおふたりですが、とても人の面倒見がよく、芝居や映画への愛と情熱にあふれ、お優しいところはやはり、東宝で育ったゆえなのだろうなと思います。

おふたりの後輩として、とてもほこらしく思います!不肖の弟子ですし、後輩ですが、大先輩の名に恥じぬように頑張りたいですね!\(^o^)/

 

 


【思い出話、うらばなし】ピカチュウの色に四苦八苦!?「劇場版 ポケットモンスター」の思い出です!

2019-02-06 16:38:34 | 東宝時代の思い出

東宝時代の思い出が続きます。

きょうの思い出は「劇場版 ポケットモンスター」の思い出です♡



いまや国民的な人気を誇る「ポケットモンスター」ですが、映画版は、1998年7月から公開となりました。はじめは誰も「ポケモンってなんだ?!といった具合に、ポケモンの何たるかもよくわかっていなくて、いろいろな意味で手探りだったことを思い出します。

宣伝プロデューサーは、いまは人事部次長さんになられたT先輩でした(^_-)-☆

優しくてゲーム好き、そしていたずら大好き(^_-)-☆というたのしいお人柄の方で、とても仲良くさせていただきました♪関西の劇場経験が長い方で、劇場宣伝は熟知された方でした。

東宝の宣伝部に来る人は、関西や中部、九州などで劇場や支社経験を積まれてから、宣伝部に来る方が多かったですね。映画は全国に展開をして宣伝するので、やはり東京だけの視点ではだめだということですね。

また、実はけっこう「いたずら好き」というのは宣伝マンはみな共通してもっていたとおもいます(笑)というのは、やっぱり映画の宣伝ってアタマをうんとやわらかくして、たのしく元気に映画の魅力をお伝えすることが大事なので、「遊び心」をとても大切にする、部全体の雰囲気がありました(^_-)-☆

第1作目は「ミュウツーの逆襲」と「ピカチュウのなつやすみ」でした。まず、ピカチュウという大変愛らしいキャラクターを全面に押し出そうということになりました。




ポケモンの映画は、最初から波乱含みでした。というのは、テレビ版をごらんになった小さいお子さんが、劇中のフラッシュで閃光を浴びて、てんかん症状みたいなものを起こしたので、問題になったのでした。

そこで、Tさんは劇場勤務の経験から、「真摯にこれらの問題をクリアすべく対応する」という方針をとりました。まずきちんと、「劇場版のポケモンは、こういう問題のおきないように対処します。しかし、一部光のつよい場面もあるので、ご覧になる時は、なるべくスクリーンから離れてご鑑賞ください」という告知を、全国の劇場に掲示させるという方法をとりました。大変地道な作業でしたが、お子様連れのお客様からはかえってご好評をいただきました。

次にTさんは、この膨大なキャラクターの数を誇る”ポケモン”のキャラクターをみんなに知ってもらおうと、小学館さんほか製作委員会と相談して、なんと、当時151種類あったすべてのポケモンのキャラクターを網羅した、交通広告用のB倍ポスターを作成することにしたのでした!

©2018 Pokémon. ©1995-2018 Nintendo/Creatures Inc. /GAME FREAK inc.

これは本当に大変な作業でした!

というのは、もう若い方はみなさんご承知と思いますが、ポケモンは、一つのキャラクターが3段階に進化していきますよね。「ピカチュウ→ライチュウ→〇〇チュウ」といった具合にです。その進化したキャラクターもすべて見せたい、というのがポケモンの製作委員会の意向だったので、それをすべてB倍ポスターに乗せるというのは、もうこれはへたな神経衰弱をやるより大変だったわけですね。

Tさんと私の闘いがはじまりました。何しろ、色校正が大変でした!公式本である「ポケモン図鑑」を片手に、首っ引きで各キャラクターの色をすべてその指示通りにしなくてはなりません。B倍ポスター自体を印刷することは珍しかったので、そういう意味でも苦労していました。

http://pokemon.symphonic-net.com/#ピカチュウ

やっと苦労のすえに出来上がったポスターを見ても、製作委員会のプロデューサーの方が、「ピカチュウの色が全然違うじゃないか!刷り直し!印刷会社を変更しろ!」と言って怒鳴り込んでくることもあったのでした(涙)!

でも、宣材担当としては、印刷会社の変更の要請は受け入れるわけにはいかないので、製作委員会のみなさんが集まっている編集スタジオに、校正紙を抱え、単身血相を変えて乗り込む場面もありました!(なんだか、任侠映画の高倉健さんになったような気分だったのを覚えています)

版の作り方から何から全部話し合って、ピカチュウの黄色を出し、ほかのすべてのキャラクターの色を指定通りだすために、ずいぶん私も印刷会社の工場に行って、何度も色校正を出し、細かく指示をだし、刷り出しも見に行きまして、ようやく出来上がっておほめのことばをいただきました。

そのとき、小学館プロダクション(現・小学館集英社プロダクション)のSさんというプロデューサーの方が、「東宝に、永田あり!」とおっしゃってくださって、それから東宝宣伝部内でも、私の立場がずいぶん尊重していただけるようになり、仕事がしやすくなったという思いはあります。

Tさんともこれで一気に親しくなり、ご夫婦ぐるみでたのしくお付き合いさせていただいて、感謝しています。Tさんは、私が病気で倒れた時も一番心配してくださり、はげましてくださって、

「ながたっち、あんまり根詰めすぎないで、めげないでね。僕たち、ちゃんとまってるよ!」

と応援してくださる、ほんとうに心の優しい方だったのでした。

厳しく印刷工程を管理するようになったきっかけを作った作品でしたし、いろいろな意味で、宣伝の面白さ、怖さ、大変さ、奥深さを思い知ったのが、この「ポケットモンスター」第1作目でした。

話は横道にそれますが、わたしは大学時代(立教大学法学部でした)、国際法研究会というところに所属していました。ひょんなことからゼミの教授にお声掛けいただいて入ったのですが、なんだか借りてきた猫状態でした。で、ゼミのOB会に参加しても、なんだかじつは居心地が悪かったのです。

というのも、みんな先輩同期後輩たちは、内閣府、国土交通省、日銀、海上保安庁、新聞社、某大手自動車産業、都庁、商社、巨大メーカー・・・つまり、そうそうたる、日本の中の、まさに中枢で大変ご立派なところへ就職しているわけです。そういう意味ではかなりエリート集団だったのかもしれないですね。普段はほのぼのとしたサークルでしたが、一応外交官試験を目指すサークルだったので…。いまはこのサークルはありません。

ところが私と来たら、何がたのしくて、子供向けの、ゴジラの着ぐるみを着たり、ドラえもんの入場者プレゼント用のおもちゃの中身を考えていたり、あげくに「ポケモン」の全部のキャラクターを覚えなくちゃならないんだろう・・😢とずいぶん、内心忸怩たるものはあったのは確かです。

ゼミの教授も

「荒木さん(私の旧姓です)、僕は君には外交官になってもらいたかったのになぁ・・・・なんで映画会社になんか入っちゃったの?」

というありさまで・・😢(Tさん、Sさん、東宝のみなさん、ごめんなさい)

ところが、数年後。立教大学の国際法研究会のOB会に行ってみると、みなさん小さいお子さんがいるではありませんか!で、みーんなポケモンのゲームをもっていたり、モンスターボールを持っていたりするわけです!

で、私が、近況の自己紹介で

「実はポケモンのポスターを作りました」

と話した途端に、子供たちや先輩、同期、後輩たちの顔がパーッと明るくなって、

それはすばらしいことをしたね!」

と異口同音に言ってくれたので、本当にうれしくて(涙)!

※これは3作目の「結晶塔の帝王(エンテイ)」のポスターです。これはB2ポスターなので、わかりづらいですが、B全ポスターは、贅沢にも、タイトルのところを、すべて銀の箔押しをするという、印刷技術でも、かなり高度な技を駆使して製作し、映画業界的にも大変話題をさらいました!

ゼミの教授も「荒木さんはまさに自分の夢を実現したわけだね(^_-)-☆映画を通じて、まさに『外交』をして、平和を実現したわけだ!」とお褒めの言葉を下さって感激しました!

おかげさまで、「ポケモンGO」が世界的に大ヒットして、すっかりポケモンは

「世界のポケモン」になりましたね!

というわけで、私はどこへ行っても、恥ずかしくなく、

「ポケモンのキャラクター151種類をすべて覚えて仕事していました!」

と胸を張って言えるようになりました(^_-)-☆

いろいろ引き立ててくださった、Tさんと、Sさんのおかげです(^_-)-☆

本当に感謝しています!

「ピカ!」とさけぶピカチュウの愛らしい姿をテレビでみかけるたびに、あのB倍ポスターを思いだす、私です(^_-)-☆


【思い出話、うらばなし】映画「陰陽師」のうれしい思い出(^_-)-☆

2019-02-05 11:13:27 | 東宝時代の思い出

まぁ、とにかく私の東宝人生の中でも、とても強烈な思い出があるのが、この映画「陰陽師」の第1作目であります!ポスターを作るのも大変、テレビスポットや予告編を作るのも大変、社内報で宣伝するのも大変、看板をつくるのも、いろいろな人と大変な議論を戦わせながら作った、まさに一大プロジェクト。大変思い出深い作品です。

2001年10月公開で、宣伝プロデューサーは、「踊る大捜査線」の第1作目のメガヒットで波にのるU君こと、上田太地さん(映画調整部を経て、現・東宝㈱映像事業部部長。「永遠の0」の製作でプロデューサーの最高の賞である、第33回藤本賞を受賞)

向かって右端、後列が、上田君(なんていっちゃいけないですね、上田さんです。いつもは「たいちくん、たいちくん」とみんなから親しまれていました。)

ここでは、「たいちくん」としてお話させていただきます(東宝は、じつはみんな、あだ名文化なのです(^_-)-☆ 市川さんはちなみに、「みなみちゃん」と呼ばれていましたし、中川さんは「けいちゃん」とよばれていました。)。

たいちくんは、また「陰陽師」の制作にあたって、私にいろいろ相談をしてくれました。

「ながたさん、また相談にのってくれませんか。ボク、こんど『陰陽師』をやることになったんですよ。主演は、野村萬斎さんです。面白くなりそうなんで、手を貸してください」

私はちょうど、「テアトロ」の劇評活動も軌道に乗り始め、野村萬斎さんに大変興味があったので、「わぁ、面白いキャストだね!うん、一緒にいろいろ考えよう!」と二つ返事で引き受けました。

たいちくんはいいました。「ながたさん、時代劇映画は『梟の城』で当たりましたけど、あれは司馬遼太郎さんの原作が有名だからということもあったと思うんです。これは、もちろん夢枕獏さんの原作もありますけれど、知名度という点では、陰陽師人気は若い女性が中心です。でも『陰陽師』は、とても面白いし、もっと僕はこの映画をオールターゲットにしたいんですよね。どうしたらいいでしょうか?」

いろいろ私もアイディアを出しました。たとえば、プロモーションビデオやテレビスポットのBGMです。「予告編のBGMを、洋画っぽくしてみたらどうかな?たとえば、『アマデウス』でもおなじみの、モーツァルトのレクイエムにして、洋画ファンにもアピールできるような、すごい大作感をだすといいのでは?」

たいちくんは、「モーツァルトって・・時代劇に、クラシックですか(@_@)」とビックリしていました。

私は「うん!『梟の城』でも、オルフの『カルミナ・ブラーナ』を使ってみたら、成功したのよ」

たいちくんは「ちょっと映像にあててみましょうか」といって、さっそく私が持ってきたCDに、プロモーションビデオの映像をあててみたのでした。

たいちくんは、あっとちいさく叫びました。「ながたさん、これ、めちゃくちゃはまりますね!時代劇にクラシック・・・うん、これはイケますね!」そういって、さっそく予告編の編集スタジオに駆け出していきました。

そしてできあがったのが、こちらの映像でした!

「陰陽師」映画 プロモーションビデオ アドレスはこちらから

https://youtu.be/bx2-HkS5rvA

ね?最後の真田広之さんの悪役ぶりが一層はえますでしょ(^_-)-☆

宣伝部では常時、テレビスポットや予告編の映像を流していて、みんながそれを見られるようになっていました。モーツァルトのレクイエムの音楽が流れ始めると、ほかの宣伝マンや、となりの製作ルームで、この映画のプロデューサーでもある、映画調整部の島谷能成(しまたに・よしなり)プロデューサー(現・東宝㈱代表取締役社長。映画調整部・映画企画部担当役員を経て現職でいらっしゃいます!)が顔をのぞかせ、みなニコニコと顔をほころばせました。

「たいちくん!

ええ予告編ができたやないの!(^_-)-☆」

と島谷さんは破顔一笑、ニコニコとされました。島谷さんは、京都大学出身、高倉健さんの信頼が大変厚い方で、とてもやさしい、情誼に厚い方でした。

私は宣伝部に異動になってからも、映画の企画書をコツコツ映画調整部に提出していたのですが、島谷さんや映画調整部のみなさんは、「ながたちゃんの映画の企画書は、いつもとてもユニークで面白いなぁ。なにか映画にしたいなぁ!」と言ってくださっていたのでした。

また、年末、まだ東宝で忘年パーティーをしていたころ、ラインナップ発表を毎年12月13日に行うのですが、そのパンフレットを作成するのが、私の最大の仕事でした。12月13日まで、絶対に社外秘であり、ミスの許されないしごとなので、とても神経を使っていたのですが、島谷さんや映画調整部の方々はいつも親切にはげましてくださったのでした。

島谷さんは、「ふぅん。この曲、『アマデウス』やね。時代劇にモーツァルトか!面白いね!」島谷さんは、最初の配属が東宝レコードだったので、音楽にも詳しい方だったのでした。

たいちくんは、すこし緊張しながら「はい、どうでしょう?製作委員会もノってくれてはるんですよ」と島谷さんにいいました。

すると、島谷さんは「いやぁ、ええのやないか。どんどん、このPVいろいろなところでかけていきまひょ!」とますます相好を崩されました。島谷さんは、いつもこうしてみんなに気を使ってくださって、いつも励ましてくださる優しい方で、感謝しています!

このポスタービジュアルも、作り上げるまでなかなか大変でした。まず、安倍晴明と源博雅、ふたりの主人公の強烈な個性を出したいということで、このビジュアルに決まったのですが、映画館の館主さんたちにしてみれば、役者さんの顔が半分になってしまうので、「大丈夫かな?」と心配されたようです。でも、野村萬斎さんという映画界ではほとんど知られていなかった存在を一躍鮮烈に記憶させるポスターとして、大変ご好評を博しました。

また当時は、まだ映画館に看板があったころでした。看板をめぐっても、このビジュアルをどう描くか、ずいぶん看板屋さんが苦労されていました。私は看板の担当者でもあったので、幾度も、東京・新宿の大久保にある大手の看板屋さんに足を運び、ビジュアルをチェックしたものでした。

新聞広告も、先述の女性のYさん(のちに彼女は東宝初の広告宣伝室長になりました)がはりきって、次々とすぐれたビジュアルを出していき、テレビスポット・新聞・雑誌・テレビのタイアップ、また安倍晴明神社とのタイアップなどが決まり、次第に「陰陽師」ブームが巻き起こったのでした。

野村萬斎さんという方も、この作品で私は初めて知りました。背筋がとにかくピーン!とまっすぐで、すばらしいお声で朗々とされ、大変なカリスマ的な魅力があり、わたしたちは一変に「映画スター誕生!」と色めき立ちました。

また相手役の伊藤英明さんも清新な魅力を発揮。「海猿」で映画界の大スターになられました。

真田広之さんは、特別出演ということで、大変な悪役を鮮烈な個性で演じ、こちらも大変話題になりました。特に、ラストの萬斎さんと真田さんの大立ち回りは大評判をとりました。

結果は作品の出来栄えもよく、大ヒットを記録。公開と同時にパート2の製作もすぐに決定し、キャスト・スタッフ陣は大変喜びました!

その後、野村萬斎さんは狂言界を代表するスターとして、現代演劇に旋風を巻き起こされ、また東宝では「シン・ゴジラ」の動きも担当され、現在公開中の映画「七つの会議」で、主演されるなど、演劇・映画・テレビと幅広く活躍され、ますます人気を誇っています!

こういう方とお仕事ができて、本当によかったと思いますし、たいちくん、島谷さんたちとの仕事もとても楽しくてうれしかったです!すばらしい思い出と仲間たちに感謝です!

 

 

 


【思い出話、打ち明け話】日本映画ポスター~その宣伝コピーの作り方~

2019-02-02 12:11:01 | 東宝時代の思い出

はやいもので、もう2月を迎えてしまいました。ほんとにあっという間に春になってしまいそう・・。

母がブログをいつものように、最初に読んでくれるのですが、私にこう提案してくれました。

母「ねぇ、チコちゃん、ブログのタイトル、思い切ってこの、

【新・台所太平記】に変えてみたらどうかしら?」

私「え?そうかな?」

母「うん、そっちのほうがわかりやすいし、いま書いてる内容に合ってるかもよ。タイトルも短くて覚えやすいし、もともとの『台所太平記』は名作だから、このタイトルでピンとくるオールドファンも読みやすいと思うよ♪」

私「そっか!うん、じゃさっそくやってみる!」

母「せっかくだから、ブログのデザインも季節ごとに変えてみたら?もっとアクセス数のびるんじゃない?」

私「うんうん。いまの季節だと、やっぱり”梅”だよね。やってみよっか」

母「わぁ、梅のデザインのほうが綺麗だし、上品な感じがするわね~(^_-)-☆」

と、母もすっかりゴキゲンです。母もだんだん、自分がブログづくりに参加しているメンバーとして、やる気満々になってくれていて、うれしいですね(^_-)-☆

タイトルも、ひょんなことから思いついた、【新・台所太平記】ですが、意外にピタッとおさまりがよかったので、ビックリしています。これで思い出したのは、東宝宣伝部時代、ポスターの制作の勉強をしに、「宣伝会議」のコピーライター養成講座にかよったときのこと。

 

 

宣伝部でお世話になった先輩の中で、もっとも影響を受けた一人に、新聞広告制作を担当していた女性の先輩・Yさんという方がいらっしゃいました。(現在は、東宝東和で、洋画の宣伝ウーマンとして活躍中です)

彼女は大変優秀な才女で、熱心な宣伝ウーマンでしたが、当時の宣伝担当役員である、中川敬さん(現・東京楽天地社長)から命ぜられて、「広告批評」のコピー塾に通っていました。大変刺激を受けた様子で、いつも私にランチをたべながら、力説されました。

「ながたちゃん(とわたしのことをこう呼びました)、あなたもポスターやちらしをつくるのだから、コピーライティングをちゃんと勉強したほうがいいとおもうわ。広告批評では、電通の岡康道さんというすばらしい方に授業を受けているけど、ほんとに勉強になるわ!」と言った具合に、Yさんは熱心にすすめてくれたのでした。

私もぜひ行きたいと思いましたが、広告批評の塾はYさんが既にいっているので、せっかくだから、ほかのコピーライター講座に行ったほうがよかろうと思い、目についたのが、宣伝会議のコピーライター講座でした。週に一度、会社の業務が終わってから、東京・表参道にある同会議の講座に、一生懸命通いました。ちょっと体はきつかったですけれど、非常に勉強になりましたし、その後の私の劇評や評論家としての人生に、大きな影響を与えることになりました。

特に、ポスターのコピーライティングの授業では、本当にためになることばかりでした。広告代理店やグラフィックデザイナーの第一人者の方が授業を担当してくださるのですが、もっとも印象に残った言葉に、こういうフレーズがありました。

「ポスターは、

たった3秒間のメディアである。」

ポスターを見る機会は、みなさまもいろいろあろうかと思います。いちばん目にする機会があるのは、やはり電車で駅を利用した時の、駅貼り(いわゆるB全ポスター、あるいはB倍ポスターと呼ばれるものが中心です)のポスターですね。でも、そこで目にするポスターで、印象に残るポスターって実は少ないですよね?

それはなぜかと、先生が解説してくださいました。

「ポスターの宣伝コピーが、だらだらしすぎていると、だれもお客さんはコピーを読まない。」

ということなのです。駅貼りポスターなどは、たった3秒ぐらいしか、通りがかりのお客様は読む時間がありません。だから、そこで使われるポスターは、情報も盛り込むことが大事ですが、メインポスターは、ずばり「インパクト」が求められるというわけです。

この言葉は大変印象にのこり、ランチの時間に、Yさんに相談しました。Yさんは目を輝かせて

「ぜひ宣伝プロデューサーの会議で、ながたちゃん、みんなにそのことをレクチャーしてみたらどうかしら(^_-)-☆ 絶対みんな知りたい情報だし、勉強になると思うわ!」

と、すすめてくださいました。

そこで、当時の宣伝プロデューサー室の室長だった、矢部勝さん(のちに宣伝部長。東宝アド常務を経て、現・東京現像所社長。スタジオジブリの名作『平成狸合戦ぽんぽこ』や超大ヒット作『もののけ姫』の宣伝プロデューサーを歴任)に相談し、宣伝プロデューサーのみなさんに、不肖わたしが初レクチャーを行いました。矢部さんを始め、みなさんはとても熱心に、講義をきいてくださいました。

すると、みなさんが口々にいいました。「宣伝コピーは、キャッチーで、短くて、インパクトのあるものがいいということだね」「そうだね。いままでは映画の内容を説明しようとしすぎて、肝心のお客さんがよまない、ということを考えてなかったかも」・・・矢部さんは、「とてもいいレクチャーだったよ、ありがとう!」とニコニコしながら、私に言ってくださいました。

それから1年後。矢部さんが『もののけ姫』の宣伝を手掛けることになり、わたしやYさんたちに、宮崎駿監督のお描きになった、400頁にもわたる、絵コンテ集のコピーを読ませてくださいました。

わたしは徹夜しながら、大興奮して、絵コンテを読みました。まさに文字通り傑作になる予感がしましたし、宮崎監督が随所に書き込まれている、スタッフへの愛溢れる指示に感動したのです!

矢部さんは、「ながたぁ~(と矢部さんは私のことをこう呼びました)、もののけ姫の絵コンテ読んで、どう思ったかレポート書いてくれる?それで、糸井重里さんが書いたコピー案なんだけど、どう思う?」といろいろ意見をもとめてきてくださったので、私はうれしくて、どんどんレポートを書きました。宣伝プランを書くのは初めてに近かったけれど、張り切って書きました。

糸井重里さんが出したコピーの中で、私が最も惹かれたコピーがありました。それが、これです。

みんなは、「ええ?あれだけの大作のコピーが『生きろ。』ってこれだけですか?」とビックリしたのですが、矢部さんは、力強く

「うん。あの400頁の情熱を、一言で言い表して、インパクトあるものにするには、この『生きろ。』がいちばんいいと思うんだ!」

と、おっしゃいました。私もまったく大賛成でした。まさに「たった3秒間のメディア」であるポスターにふさわしい、強烈なインパクトを残す名コピーだと思ったのです。

そして、これが当時のスタジオジブリ史上、また当時の日本映画史上、記録的な興行収入を叩き出したのは、いうまでもありません。いまだにこの作品のポスターの話になると、「あの、『生きろ。』というコピーはすばらしかったですね!」といろいろな方からおっしゃっていただくので、大変にありがたいですし、私も宣伝会議のコピーライター講座に通ってよかったなと思いますし、矢部さんの慧眼にも拍手したいと思います。

このほかにも、短い、インパクトの大きな邦画のポスターの代表例として、「梟の城」という時代劇作品が挙げられます。これも大変思い出深い作品のひとつです。

これは、宣伝プロデューサーは先日も登場した、市川南さん(現・東宝㈱常務取締役 東宝芸能社長)でした。

市川さんは数十社のコンペの中から、こちらを選びましたが、そのときに、私の意見をずいぶん尊重してくださいました。プロデューサーは映画「南極物語」の大プロデューサーである、角谷優さんで、角谷さんとともに、このビジュアルを選び出しました。

※向かって右が角谷プロデューサー。現在も早稲田大学のエクステンションセンター、武蔵大学などで教鞭をとって、後進の映画人の育成に奔走されています。

このビジュアルの優れているところは、B2ポスターでは色数と予算の都合で、4色の黄色が地色になっていますが、B全ポスターでは、特色中の特色、黄金のポスターをつくりあげました。

宣伝コピーはずばり「時代と戦え」。司馬遼太郎のもつ雄大なスケール感と、安土桃山時代の豪奢さをストレートに表したいと、私も考え、提案したのが、このポスタービジュアルでした。

そのときにお世話になったのが、当時博報堂にいらした山本和宏さん(「午前十時の映画祭」のプロデューサーでもいらっしゃいます)。いまだに、FB友達として、親しくさせていただいて、本当に感謝しております。

「梟の城」は当時の「時代劇映画はヒットしない。」という映画業界のジンクスを破る大ヒット作となり、時代劇映画復活ののろしを上げる、牽引力となりました。篠田正浩監督も、ますます巨匠として君臨されたのでした。

 

もちろん、ポスターのコピーの場合は、短いほうがいいというのが私の持論です。が、新聞広告などでは、またコピーラインティングの仕方がかわってきます。新聞広告や雑誌広告は、読者の方がじっくり読んでくれますので、内容面をより深く伝えるのに効果的です。やや長めのコピーを用意して、読者の、映画への興味と鑑賞意欲を沸かせるようにすればいいわけです。それは、先述のYさんが中心となって、コピーを新たに作成するという作業をしていたのでした。

近年話題になっている、WEB広告については、どうなるのか、ちょっと正直、よくわかりませんが、やはり、WEBのホームページを見る時間というのは、立ちあげる時間を考えると、ポスターに近く、3秒間ぐらいではないかと思います。そうすると、だらだらと長いコピーよりも、インパクト大の、キャッチ―なコピーが求められるのではないかと、私は思っています。

ともあれ、宣伝部時代は、いろいろ大変でしたが、勉強することの多い、充実した映画マン人生を送れたなと思い、いまではとても感謝している私です!