私の青春時代にはいつも、一人の兄貴分がいた。私が中学生だった時、(鉄道模型のHOゲージと、自転車が好きだった少年時代)に、サイクルスポーツ少年団で知り合い、そして自転車競技に、引っ張り込んだ。兄貴分だ。
私は、市川昆監督の東京オリンピックの映画の、自転車のロードレースを見て、自分もあんな風にかっこいい自転車に乗って走りたいと思っていた。それがカンパラージフランジハブのロードレーサーだった。まさか、中学二年で、その憧れのロードレーサー、カンパのラージフランジに、カンパCW、カンパレコードの前後変速付の新車が、中学生の分際で、手に入るとは思ってもいなかった。
私は、兄貴分の後について、走り、競輪選手にも引っ張ってもらい、アマチュアの自転車選手になった。
そして兄貴分(後の大阪の選手会会長となる小田真美)と、いっしょに良く練習もしたプロ玉だった奥中猛は、競輪選手になり、私はOILショックの年に高専を卒業し伊藤忠オートに入り、アルファロメオのメカニックになった。
競輪選手になっても兄貴分は、休みの日には、私の家に良くやってきた。
結婚するときも。家を買ったときも。大阪の選手会の会長になったときも。いつも家まで来て、一番に教えてくれた。そして、選手を辞めたら、競輪のフレームビルダーになると、言っていた。
競輪選手をしながら、諏訪ノ森サイクルという、自転車屋を開き、当時、あのキングスピードの、関西一の名人職人、西埜サンに教えてもらって、フレームつくりの準備をしていると話していた。
フレームの名前を聞くと『闘魂、闘魂』や、ええやろ。 一瞬、私の頭の中には、猪木のイメージが。
私が真美アニキと最後に、会ったのは、諏訪ノ森サイクルの店の奥のフレーム工房で、塗しの上がった黄色いフレームに、ヘッド小物を取り付ける作業中だった。
リーマー作業するのに、フレームを押さえるのを手伝ったのが、小田真美の作った、闘魂フレームに触れた、最初で最後だった。
その日の帰りに、フレームつくりに使うロー材の棒を、作業しやすいように、適度に短く切ったものと、フラックスを分けてもらって帰ったのを、覚えている。カーボンシートも、もって帰るか?と言われたことも覚えている。私が、家で、車のファイバーボンネットなどを修理しているのを知っていたのだ。
私は、勤めていた伊藤忠オートが撤退するので、摂津で倉庫を借りて、伏見オートサービスの名で、夜遅くまで、アルファロメオの整備をしており、堺の家に帰るのは夜中で、兄貴分と会うことは、ほとんどなくなっていたが、たまに電話で、選手の持っている車や、息子さんのために買ったという車のメンテををまた、頼むとか、言われていた。 たまに電車で通勤するときは、電車が動き出すとすぐのところにある、諏訪ノ森サイクルを見ていたのだが。
相手がまだ現役の競輪選手であるので、店が閉まっていても、気にもしなかったのだが。
あるとき、また少しロー材を分けてもらおうと、電話をすると、電話に出た、奥さんの返答の様子がおかしい。
『知らなかったんですか?? 摂津のほうに工場を持ったと聞いてから、もうこちらにいないと思い、、、、、、。』
話を聞くと、仲良くしていた仲間で、お葬式に来なかったのは、わたしだけだったみたいで、悔やんでいた。亡くなってから2年位後のことだった。
自転車仲間にも、小田を良く知っている車のラリー仲間にも、『伏見、来なかったな』と、後から言われた。
それから、ずっと、仲良くしてくれた兄貴分の作った闘魂のフレームを探していた。
ヤフオクで、自転車のフレームを出品したときは、闘魂フレーム探していますと書いたが、まったく無しのつぶてだった。
NETで調べると、ビルダーとしての、小田真美と、闘魂という名前、そして、選手の師匠と、弟子としての名前の記事があったが、それ以上の情報はなかった。
それが、先月、12月12日に、ヤフオクのページを開くと、小さな窓に、黄色い好きな色のロードが出ていた。
普段なら、単に、クロモリGPX組と書いている、ロードバイクの500mm~などに興味はないのだが、オールカンパでもない、サイズもまったく合わない、このロードの色が、私に何かを感じさせた。
そのページを開いて、チラッと見たら、何だ、シマノの普及クラスの初心者ロードかと思っていたが、なぜか、どこのページを開いても、そのロードの小窓が、、、、。
真美アニキが、ここにいるぞと言ってる様に、何度も、そのフレームの小窓は開いていた。
何か気になって、そのページの写真を良く見ると、紛れもなく、探していた『闘魂フレーム』だった。
商品名 | クロモリ GPX組 |
製造メーカー | 小田製作所 |
商品サイズ | □シートC-T500㍉ トップ520㍉ |
商品紹介 |
□クロモリ GPX組
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急いで、質問ランから、他に、闘魂フレームを持っていないかと質問したら、返事があり、アドを教えていただけて、こちらの電話番号を書いたら、電話を下さった。
自分が、『闘魂フレームの小田』の、弟分だったことを話したら、もう1台あるとのこと。
詳しくお話を聞くと、出品者の方は元競輪選手で、私が自転車少年で、まだ、競輪学校に入る前の小田真美や、奥中猛と良くいっしょに朝連したと話すると、いろいろと、その昔の選手の名が出てきて、すごく懐かしかった。
電話で話したあくる日、私の頭の中には、赤い闘魂フレームより、黄色い、そして赤い闘魂文字のイメージが強くて、現物確認させてもらうことになった。
黄色に、闘魂の文字。 あの時、少しだけ手伝った、あのときのイメージそのままだった。もうその場で、手に入れると決めていた。
家に帰って、パソコンとにらめっこで、入札したが、なぜか、考えられない価格を入れてくる入札者がいて、私の予定額を大幅に上回る額になったが、この世に、非常に数少ない、『闘魂』で、ましてロードフレームなど,まずは出てこないと、葬儀にもいけなかった兄貴分への香典だと思って,意地で落札した。
あくる日の土曜日には、早速、受け取りに出向き、またまた懐かしい話に花が咲いた。
さらにはアマチュアの,ズノウチーム時代仲間だった、城本兄弟の、カンノや、チャンコの名前まで出てきて、すごく懐かしかった。
少々、高くなっても、手に入れてよかったと思ったしだいだ。
もう十年位か、もっと前か、ヤフオクで、橋本サイクルと、いうIDで、堺だったので、落札したものを、自転車で受け取りに行って、そのまま摂津の工場まで走ったことがあるが、そこでも兄貴分の小田真美の話になったのを覚えている。(何十年ぶりかの出会いなのに、メールで、闘魂フレームの弟分の伏見ですと言うと、橋本サイクルさんは、すぐに判ってくれた。そして、選手時代の仲間が、オークションで落札して,会いに来てくれると。懐かしいライバルの名前が次々と。)
あの時、過ぎ去った時間を忘れて、橋本の兄ちゃんと言ってしまって、橋本サイクルの奥さんに、『何年ぶりやろ、兄ちゃんといってくれる人が来るのは、』と、笑われてしまったが、お元気ですか、やっと、手に入れましたよ、真美ちゃんの闘魂フレームを。
私が選手時代、ただ一度の全日本戦に、ロードとトラックと、松坂の競輪場と、鈴鹿サーキットで走れたのも、橋本の兄ちゃんの推薦があったから。
後から思うと、俺って、ずいぶんいろんな人にかわいがられていたんだなって。
車の世界と違って、自転車の世界は、特に選手をやっていた人は、人情が厚いんだなって思います。
それに比較したら、車屋の世界は、金の亡者ばかり。人間性が程度が低いですね。