海鳴りの島から

沖縄・ヤンバルより…目取真俊

天皇による「慰霊」と沖縄の軍事要塞化

2018-03-27 23:55:16 | 米軍・自衛隊・基地問題

 27日(火)はカヌー7艇で松田ぬ浜を出発した。抗議船2隻と合流し、この日もK3護岸の工事に対して午前、午後と抗議を行った。K3護岸では根固め用袋材を運んできて、K2護岸との内側の継ぎ目付近に投下する作業が行われていた。砕石や被覆ブロックなどの資材を運んでくる車両が、方向転換する場所を造っているのだろう。

 K4護岸では被覆ブロックを設置する作業が行われていた。東からの波がしだいに強まり、うねりも入って、カヌーからすると向かい波がきつく厳しい条件だった。

 松田ぬ浜の前で海底の状況を調べる潜水調査が行われていた。名護市長選挙で新基地建設を容認する市長が当選し、稲嶺前市長がこれまで止めていた工事が始まる可能性がある。松田ぬ浜一帯は埋め立てられて作業ヤードになる計画であり、その準備作業ではないかと警戒しながら様子を見た。

 この日はいつもゲート前で頑張っている皆さんが船から抗議の声をあげていた。実際に目の前で見て、護岸工事の進行状況と、カヌーによる抗議の大変さが分かったのではないかと思う。大型オイルフェンスに上がるとすぐに海保のゴムボートが接近してカヌーを押し戻す。腕力の無い女性には、カヌーをオイルフェンスに上げるだけで大変だが、海保に押されて海に落とされるメンバーもいる。

 それでもへこたれずに何度も抗議をくり返す。オイルフェンスを越えて拘束されては、ゴムボートで松田ぬ浜に運ばれ、またK3護岸工事の現場に戻って海保と対峙する。インターネットで情報を得てあれこれ書くのは簡単だが、工事の進行を目の前で見ながら6~7時間カヌーを漕ぐのは過酷なものだ。

 天皇アキヒト夫妻が来沖したが、沖縄を含めてメディアは「県民感情の変化」を強調している。1975年の皇太子時代に初来沖した時、ひめゆりの塔で火炎瓶を投げられた。当時、私は中学生だったが、メディアで大きく報道されたのでよく覚えている。

https://www.youtube.com/watch?v=uJkPdpJ-qYs

 あれから43年近くが経ち、天皇に対する沖縄県民の複雑な感情も変化した。それは沖縄戦の犠牲者に慰霊を重ねた天皇アキヒトの努力がもたらした、という筋書きを作り、それに合わせた証言が都合よく並べられる。白々しい限りだ。

 そこでは「琉球処分」の日にあわせて来沖した意味や、辺野古では米軍のために新基地が建設され、宮古島、石垣島、与那国島で自衛隊が配備・強化されて、沖縄全体が対中国の軍事要塞化している現実が問われることはない。

 天皇が沖縄に慰霊の旅をいくら重ねても、いや重ねるたびに沖縄は自衛隊や米軍が強化され、戦争に近づく方向へ置かれ続けたのだ。

 沖縄までは戦場にしても、日本「本土」は決戦を回避して守る。その構図は73年前と今も変わらない。そういう沖縄と日本(ヤマトゥ)の間に横たわる支配=差別構造を隠蔽するために天皇アキヒトも自らの役割を果たしてきた。

 時の権力者と相互依存の関係をつくることで、天皇家の存続を図ることがアキヒトらの生きる知恵なのだろう。しかし、琉球・沖縄の歴史を振り返れば、天皇とのかかわりなど明治政府による琉球への武力侵攻で強制されたものでしかない。

 沖縄に限らず、アキヒトらを特別な存在と見なすこと自体、支配構造を維持するために時の権力者によってすり込まれた観念にすぎない。生まれによって人間に上も下もあるはずがない。新基地建設の護岸工事が進む辺野古の海から眺めれば、天皇アキヒト夫妻の慰霊という目くらましの裏で進んでいるのは、沖縄を新たな戦争に巻き込む準備=軍事要塞化なのだ。


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