あるBOX(改)

ボクシング、70年代ロック、ヲタ系、日々の出来事などをウダウダと・・・

アンディ・ジョーンズも亡くなっていましたねぇ

2015年03月31日 | 英国ロック
フリーの伝記本を読んでいて、ときどき名前が登場していたのが
アンディ・ジョーンズ氏です。

レコーディング・エンジニア、プロデューサーとして数多くの
優れた仕事を残した音楽人。
兄は「Who's Next」で素晴らしい仕事をしたグリン・ジョーンズ。

グリンの手伝いから独り立ちしたアンディは、レッド・ツェッペリン
1stからの大半、ローリング・ストーンズの「Sticky Fingers」、
「Exile On Main St.」「Goats Head Soup」、エリック・クラプトン
などを担当した英国人のサウンド・エンジニアだった。



フリー関連では
共作・プロデュースで「ハイウェイ」「フリー・ライヴ!」
「ハートブレイカー」のプロデュースとエンジニアを担当。

「ファイアー・アンド・ウォーター」のプロデュースも声が
掛かったが「いいアルバムだからやりたかったんだか、とにかく
あの時は忙しくて・・・」と泣く泣く断念したという。
※アンディ・ジョーンズが担当してたら・・・と思いますが。
 まぁ、ZEPやストーンズを担当してたら兼任は無理だよねぇ。

「フリーライブ!」では崩壊間近のバンドによるライヴ音源を
悪戦苦闘しながら編集。
隣で賑やかしていたガイ・スティーブンスが後で「なぜ俺の名前が
プロデューサーとして表記されてないんだ!」と言いがかりを
付けてきた時、
「なに言ってんだ、アンタは俺にハンガーを投げつけてただけ
じゃないか!」と言い返したという。

フリー以外にもヴァン・ヘイレン、ジェスロ・タル、ジョー・
サトリアーニなどの作品をプロデュース。
ハード・ロック界のレジェンドだったアンディ・ジョーンズだが。

やはりキャリア初期に担当したフリーには思い入れが深かったようで



「スティーラーの録音が終わって『スゲェ!』と思い、アイランドの
 クリス・ブラックウェル社長を起こしにいった。夜中の3時だ。
 スタジオと同じ建物の寝室で寝てる社長に出来たての曲を聴かせ、
『良いな、これは!』なんて言わせられるなんて、アイランドは凄い
 会社だったよ」などと興味深いコメントを残されている。

「ハートブレイカーも楽しかったが、マゾ的な楽しさだ。コゾフの
 状態を見ながら録音だったからね」・・・などと、
独特な言い回しでバンドの思い出を語っておられた。



アンディ・ジョーンズ氏が亡くなったのは2013年4月7日。
61歳だった。
死因は明らかにされていないが、肝臓の病気で入院中だったとの事。

クイーンのブライアン・メイ、スラッシュ、マイケル・アンソニー、
レッド・ホット・チリ・ペッパーズのチャド・スミス、グレン・ヒューズ
など数々のミュージシャンが故人を偲んだという。

遅ればせながら、
私もアンディ・ジョーンズ氏の御冥福を御祈りしたいと思います。

追悼:アンディ・フレイザー(11)

2015年03月30日 | 英国ロック
「アンディの腕が戻れば、あの頑ななヴォーカリストの考えも
 変わるかも知れない」
「インタビューでも『弾きすぎないギタリストがいれば』と
 柔軟なことを語り始めたし」・・・と、私の希望は膨らんだ。

元々、FREEの再結成は無くてよいと私も考えていた。
金のために再結成して老残を晒したバンドもあるからだ。

それにポール・コゾフの代わりは誰もおらず、
※コゾフのギターは「泣く」だけではなかった。震え、叫び、
 吼えたりもした。そんなギタリストは空前絶後だ
コゾフのいないバンドがFREEと名乗るのには多くのファン・
関係者が違和感を覚えるのは間違いなかった。



それなら、「ロジャース、フレイザー&カーク」としてゲスト・ギターを
迎えてステージを踏めば良いでは無いか。
そんな事を本気で考えた。それでも充分すぎるライヴが期待できた。

2010年バッド・カンパニーで来日したロジャースの声も衰えていなかった。
最終日にFREEの曲「ビー・マイ・フレンド」を歌ったロジャースだったが
それは熱唱を超越した凄まじいものだった。
一曲だけではあったが、それは全盛期のアルバム「FREE LIVE!」に
勝るとも劣らない歌唱だった。

アンディのベース・プレイも復調してきた。
カークの「ヘロヘロになるまで叩く」姿勢も健在だった。

もし、「ロジャース、フレイザー&カーク」の日本ツアーが実現し
東京・横浜・名古屋・大阪の公演なんて決まったなら、私は仕事を休んで
全公演を追いかける!
・・・そんな夢を見た2013年の終わりだったが



まさか、その2年後にアンディの逝去ニュースが飛び込んで来ることに
なろうとは、思いもよらなかった・・・。

実のところアンディはHIVだけでなく、癌も克服していたと後から知った。
克服といっても再発の可能性が付きまとうのが癌という病だ。

最晩年の彼は、その事も考えつつ音楽活動を活発化させたのかも
知れない。
ステージでもファンや後進が望むFREEの曲を演奏し大いに
沸かせてくれた。

晩年の彼はカリビアン・ミュージックの演奏を楽しんでいたそうだが
自らが最も輝いていた頃の曲を、その頃を知るファンに届けて
くれたのだろう。



ありがとう、アンディ。
あなたが演奏する「Mr.Big」を、数メートル先で見る事が出来たのは
私にとって大きな感激だった。

私の「夢」は永遠に潰えてしまったが、あなたの名曲と名演は永遠に不滅です。
R.I.P. Andy Fraser

追悼:アンディ・フレイザー(10)

2015年03月29日 | 英国ロック
次にアンディの姿を見たのは1994年。

ポール・ロジャースのステージにゲスト参加したウッドストック'94と
ギブソン100周年に、ベースを抱えて登場。
TVで見ていた私を大いに感激させたが、残念ながらプレイは全く冴えが
見えなかった。

「ベース演奏をコンスタントにやってなかったんだろうな」
「天才も腕がすっかり錆びている・・・」
「オールライト・ナウじゃ、自分が作って自在に弾いてた、あの
 フレーズを追うのが精一杯じゃないか」
・・・と、すっかり落胆させられてしまったのでした。


※左側で白い帽子を被ってベースを弾いてるのがアンディ。
 よく見ると痩せていて、健康面でも心配になったものです。

また、FREE再々結成に関しても、ロジャースが頑なに拒否。
「コゾフがいないフリーは考えられない」という理由も理解できたし
アンディのプレイが衰えた以上、もう期待は出来なかった。 

2005年には「アンディ死亡説」まで出て(これは直ぐ本人が公式に否定)、
すっかり「あの人はいま」状態に。
住居もカリフォルニアに移っていると明白になった。

さらに、HIVキャリアである事も公表。
ゲイである事もカミングアウト。
※「やはりか」という思いもありましたが。一人だけ衣装に
 独特な美意識が感じられたし・・・。

インタビューでは、
「普通に結婚して娘二人の子供にも恵まれながら、その後で
 気付いてしまった」と辛そうに語っていた・・・とか。

もうアンディが表舞台に出る事も無いのか
・・・という気分になったものだが、その予感は外れた。



2010年代になってから、やにわにアンディの活動が活発になったのだ。
音楽家として、いやベース・プレイヤーとして!

元ディープ・パープルのグレン・ヒューズらの盛り立てもあった。
マーシャル50周年のステージでは二人並んで「Mr.Big」を披露。
なんと第3期パープルのベーシストだったグレンが丸腰で、
歌い出しもフレイザーに譲り、アンディのベースソロ曲を盛り上げ、
最高のリスペクトを示していたのだ。

往年の仲間、ミック・テイラーとの競演もあった。
※ブルースブレイカーズ時代は両者10代だったんだよなぁ

野外コンサートで「ホンキートンク・ウィメン」演奏シーンが
YoutubeにUPされてもいた。

若手ギタリストのジョー・ボナマッサがステージでアンディと
「Mr.Big」を競演している動画もありました。
※アンディは歌を他に任せてる事もあってベースに専念し、
 充実したソロを弾いています。



平行して発表してるアルバムでは、彼のルーツでもあるカリブ系も
探求し、多様な活動が聞こえてきた。

そうしている内、2013年まさかのソロ来日が実現。
正直、どういう曲を、どういうアレンジで演ってくれるのか
不安だったが、若手のTobiに半分見せ場を与えつつ、自らの曲も
歌って弾いて往年のファンを大いに満足させてくれた。

予想以上にフリーの曲を演ってくれたし、アレンジもベースも
往年のままだった。



42年ぶりに日本の地を踏んだアンディは、大阪公演が終わった後、
「東京へは新幹線で行くんだ。実は初めて乗るんだよ!」と、
嬉しそうだったという。

体調も良さそうで、身体も細マッチョになっていて驚かされた。
HIVも医療が進歩して、キャリアであろうと病と付き合いながら
様々な活動が可能となった。

同時代のミュージシャンより若くデビューしたアンディは「まだ」
62歳、ベースの腕も相当に戻った。

私は「今後のアンディ」に大きな期待を寄せた。

追悼:アンディ・フレイザー(9)

2015年03月28日 | 英国ロック
シャークスからも脱退したアンディは、
とうとう自らの名前を冠した「ANDY FRASER BAND」を結成するが、フリーや
シャークスのような相棒には恵まれず。



発表されたアルバムも曲・アレンジが一気にレイドバックした印象で。
歌声がポール・ロジャースに似ているのにビックリ!・・・という衝撃は
あったが、なんと言っても編成がギターレスのトリオ。
エレピがポロポロ鳴る、まったりしたアレンジが私にはしっくり来ず。

後にフランキー・ミラーがカバーする「Double Heart Trouble」みたいな
素晴らしい曲もあるのだが

ベースサウンドからもスリルが失せた気がして、私は購入したものの
聴きまくる事はありませんでした・・・。



75年にはソロ・アルバム「In Your Eyes」を発表。
以前、拙ブログで「メンバーに恵まれず」的な事を言ってしまったが
このアルバムは、当時流行のマッスルショールズ詣での作品だったそうで
またしても不見識を晒してしまいました。

バックにロジャー・ホーキンス(dr)、バリー・バケット(k)、ピート・カー(g)、
ジミー・ジョンソン(g) ら腕利きミュージシャンを集めて制作された
同アルバム。

アンディ・フレイザーの名前を冠した作品では2枚目だが、本作も全て
作曲はフレイザーのオリジナル。

・・・とはいえ、やはり作風はレイドバック。スワンプ・ロック調。
「Be Good To Yourself」(これも後にF・ミラーが見事にカバー)のような
佳曲もあるのだが、なにか煮え切らない雰囲気も感じられる。
※私が彼にFREEの音を求め過ぎなのかもしれませんが・・・


※「スコットランドのO・レディング」と言われたF・ミラー
 A・フレイザーとバンドを組むという噂もあったのだが・・・


セールス的にも成功とはいかなかった「In Your Eyes」、フレイザーは
本作の後、ソングライターとしてロバート・パーマー(アイランド所属)らに
曲を提供するなどの活動が増えて行き、表立った活動は控えめになった。

※その間、ポール・コゾフは1976年3月19日に26歳で亡くなっている。
クスリの副作用で弱った心臓は飛行機内で停止したとの事。
 それがフレイザーの活動にどう影響を及ぼしたかは分からない・・・。



フレイザーの次作は、84年のソロ「ファイン・ファイン・ライン」まで
待つ事になった。
AOR的と言われた同作品でのアンディーはシンガーであり、プレイヤーでは
無かった。

ファンが愛したベーシスト=アンディ・フレイザーでは無かった・・・。

追悼:アンディ・フレイザー(8)

2015年03月27日 | 英国ロック
グループを飛び出したフレイザーだったが、残ったメンバーはベースに
テツ山内を参加させ、新生フリーを発足。
ラビット(key)も向かい入れ、コゾフも残る形となった。

これについてフレイザーは深く傷ついたという。
フリーの楽曲を担ってきたプライドが痛めつけられた、自分の事は
ただのサポート扱いだったのか・・・と、半ば被害妄想的な気持ちに
苛まれた・・・と。

新生フリーは来日公演も行ったが、コゾフは飛行機に乗れる状態になく
ロジャースがギター兼任で、初来日の興奮を再現させる事は出来ず。



肝心のニューアルバム「ハート・ブレイカー」も、コゾフの体調不良により
フリー十八番のスタジオ一発録りが出来なかった。
※もちろんコゾフのギターだけ好調時のプレイを後録りされ、アルバム自体は
 ハードロックの原点ともいえる内容となったが。
 コゾフも「カム・トゥゲザー・イン・ザ・モーニング」のソロのような
 素晴らしいプレイを残している・・・。



テツのツボを押さえたベースも良かったが、フレイザーの自由自在な
プレイとは別物で、初期からフリーを追いかけていた英国のファンも
「新しい曲も素晴らしいが、もう別のバンドになっていた」と嘆いたという。

特にアンディのプレイとアレンジ力を重要視したファンは、とうぜん
新生グループをFREEとは認めなかった。
※気持ちは分かりますが、「ハートブレイカー」もカッコイイんだよね



一方、そのアンディ・フレイザーは、腕利きギタリスト=クリス・スペディングと
「THE SHARKS」を結成。

ついに双頭バンドと言われる相方に恵まれたか・・・と思わせた。
70年頃よりジャック・ブルースらのアルバムでセッション・ギタリストとして
活躍していたスペディングも、やっとパーマネントなバンドを組んだ印象。

無事に1stアルバムも発表できたのだった。
スペディングのギターは派手さは無いが、ツボを押さえたプレイはさすが。



フレイザーも「AT LAST」を思わせるベース・ラインを所々で披露。
「OL' JELLY ROLL」でのピアノや、フレイザー作の「DOCTOR LOVE」などに
フリーらしさが感じられ、改めて彼がフリー・サウンドのアレンジに どれほど
関わっていたかが分かります。

ヴォーカルのスニップスも、強烈なダミ声が個性的で。
アルバムを重ねれば、もっと曲も纏とまって良くなって行く・・・と
思わされたが、なんとアンディはSHARKSも早々に脱退してしまう。



生真面目なアンディが、ステージ上でサメのギミックを嫌い、しかも
そのギミックで手を傷つけてしまったのに激怒した・・・なんて話もあった。

アンディ・フレイザーが有り余る才能を生かせる場所。
彼がそこを見つける事が出来るのか?

追悼:アンディ・フレイザー(7)

2015年03月26日 | 英国ロック
再結成FREEも限界が近付いた。

ロジャースとフレイザーが揉め、時にはコゾフとロジャースで
殴り合う、そんな日々にポール・コゾフも音を上げた。

結局、アンディ・フレイザーは逃げ出した。後にフレイザーは
「自分にはコゾフに付き合ってやれるだけの強さは無かった」と
告白している。

ただし、彼とてプロだった。
再解散前のアメリカツアーでは悲願の米国制覇を果たそうと、
懸命にプレイした事が非公式盤で聴き取れる。

「THE METALLIZED BLUES」では、コゾフの調子が良い事もあって
「FREE LIVE!」に引けをとらない演奏が繰り広げられている。



「オール・ライト・ナウ」では終盤サビのバックで自由自在に
ベースを弾きまくるアンディがいる。
それまで聴いたこともないフレーズが「これでもか」と披露されるのだ。

圧巻は、やはり「ミスター・ビッグ」。
終盤のベース・ソロは凄みを増しており、壮絶の一言。

アンディの代名詞とも言える同曲は、他の70年代ロックの
長尺ソロと違い、あくまでアンサンブル内でのベースソロゆえ、
いま聴いても古さを感じさせない。



70年のTVプログラムで放送されたMr.Bigは、
コゾフのギターソロ(これもチョーキング連発で凄い!)が
やがてアルペジオに代わり、ドラムの連打からベースソロへ
展開する流れを理解できず、暫くコゾフやロジャース
(これもマイクアクションがカッコイイ!)を映してるんですよねぇ。

「違うよ!フレイザーの見せ場なんだよ!フレイザーを映せよ!」
「つ~か、フレイザーの手元をUPにしろ!!」と何度叫んだ事か・・・。



なお、少し前にFREEの初期ライヴ音源を聞く機会があったのだが、
「Mr.BIG」以前にアンディの見せ場となっていたのは、意外にも
インストゥルメンタル曲の「SUGER FOR Mr.MORRISON」だった。

動画サイトでも触れることが出来る同曲は、独白の如きベース音から
始まり、やがてジャズのインプロビゼーションのような展開を見せる。

スタジオ・ヴァージョンでは淡々と進む同曲だが、ライヴ演奏では
ギターとベースが絡む、スリリングな展開に耳を奪われる。

コゾフとフレイザーでのコール&レスポンス、そんな印象さえ受けた。
FREEというのは、そんな側面も感じさせる奥の深いバンドだったんだなぁ
・・・なんて

今更ながらのように感じるのです。

追悼:アンディ・フレイザー(6)

2015年03月25日 | 英国ロック
周囲の期待は、FREEの楽曲を作っていたロジャースの「Peace」と、
フレイザーの「Tobby」に向けられたが、
いち早くアルバムを作ったのは「Kossoff、Kirke、Tetsu、Rabbit」だった。

コゾフは来日公演時にアラン・メリル(NY出身。来日して渡辺プロと契約、
日劇ウェスタンカーニバルにも出演)と知り合い、元サムライのテツ山内と
ジャムセッションを体験しており、いみじくも一番早く新グループの準備を
進めていたのだ。
※深酒して皆で彷徨いたりしてたそうだが。勿論コゾフはクスリもやってたと…

一方ロジャースは新バンドで作った曲を英国国営(BBC)ラジオで演奏したり
していたが、リードギター兼任が予想以上に重荷になっていた。



フレイザーは「バンドを固め、自分の喉も鍛える必要もあった」と慎重に事を
進めており、アルバム発表も演奏お披露目も成し得ていない状況。

そんな中、カークやラビットは
「誰が歌う?誰がやってもロジャースと比較されるぞ。オレは歌いたくない!」
と言いつつ、なり手がいないと見るや居直って歌い切り、アルバム1枚分の
曲を作ってしまったのだ。



アルバムはフリー不在の寂しさもあってかファンに支持された。
しかし、その成功の反面、ポール・コゾフの薬物摂取量は増えて行き、
ヤク中まっしぐらとなっていた。

アイランドのスタッフは「コゾフにとってFREEは総てだった。全宇宙だったんだ」
・・・と、後に述べたが。
転げ落ちるようなコゾフを救う手立ては無かった。

それでも「なんとかコゾフを立ち直らせたい!」という思いから、
「FREEの再結成」の提案がなされた。

それはフレイザーからとも、ロジャースからとも言われる。
確かにポール・ロジャースも、アンディ・フレイザーも、新しいグループが
上手く行ってるとは言い難かった。

そしてFREEはファンの歓迎を受けて再結成された。

しかし、コゾフの薬物障害は深刻だった。
マンドラックスという、コゾフが目がない薬物は後遺症もキツく、突然
てんかん症状が現れたりするという。

そんな症状がステージでも控室でも現れるコゾフではあったが、なんとか
好調時を見計らって再結成アルバム「FREE AT LAST」は制作された。



もうフレイザーもロジャースもコゾフに指図しなかったというが、サウンドは
中低域をサポートする役割を放棄したかのようなコゾフのギターが
泣き叫ぶような物で、ある意味で聴いていて辛い1枚でもある。

楽曲はそれぞれが持ち寄ったが、共作の形がとられた。
良い曲は揃っていたが、シングルカットされた「リトルビット・オブ・ラブ」は
スマッシュヒットに終わった。



結局「FREE AT LAST」は、オリジナルFREE最後のアルバムとなった。
FREEを再編してもコゾフの状態は良くならなかったのだ。

例えれば、酒に溺れる夫から離れた家族がいたとしよう。
それによって自暴自棄になった夫の元へ、見かねた妻と家族が
戻ったとしても どうなるのだろう。
やはり夫は酒を飲むだろう。根本的な問題は家族が揃っていた時期から
始まっていたのだから。

「FREEをもう一度やりたかった。でも、やさられてるだけのような気もした」
コゾフの心情は簡単では無かった。

FREEを再編するだけで救えると思ったロジャースとフレイザーは余りにも
若かった。
薬物をやめられないコゾフがステージ上で倒れ、コンサートをキャンセル
せざるを得ない事も度々となった。

ポール・ロジャースとアンディ・フレイザーに再び仲違いが始まった。
緩衝役を務めてきたカークにも限界が近づいた。

追悼:アンディ・フレイザー(5)

2015年03月24日 | 英国ロック
空中分解したフリーのメンバーが休養している間、アイランドは
ライヴ・アルバムを急遽制作。

フリーの演奏の凄まじさが知れ渡った日本からは再来日のオファーが、
日本を含めた各方面からライブ・アルバムの制作が求められていたのだ。

ライブ演奏の素材はあったが、結局つぎはぎ制作。
1曲目の「オール・ライト・ナウ」は、カークによるサビのドラミングも
スタジオ版とは異なり、「あれはシングル発表前のモノ」というロジャースの
興味深いコメントもある。

シールド不具合でコゾフのギターが途絶える不完全な場面もあったが
それがかえって生々しい臨場感を伝え、ファンには印象深い1枚となった。

※私なんては結局「FREE LIVE!」が1番好きなアルバムだったりします。



アイランドはFreeの解散を「あくまで音楽的発展のため」と公表。
「喧嘩別れ」では無く、「メンバーがグループに限界を感じ、
それぞれが新しいグループで音楽活動を展開する・・・と。

各地に散ったメンバーはライブ・アルバムのヒットも知らず、
新しいユニットに着手。
※その中で色々知る事になったんだろうが、もう後戻りは出来なかった
 のだろう。後に「解散は間違いだった。少し休めと言ってくれる大人が
 いてくれたら・・・。アレクシス・コーナーがいたら、そう言って
 くれただろうが、彼は亡くなっていた」とメンバーはコメントしている。



ポール・ロジャースは「Peace」、アンディ・フレイザーは「Tobby」、
残る二人はベーシスト山内テツとキーボードのジョン・ラビット・
バンドリックを加えた「Kossoff、Kirke、Tetsu、Rabbit」を結成した。

“トビー”とは、ローディーのグラハム・ホワイトがアンディーに
名付けたニックネームだという。

トビーではヴォーカルのオーディションが行われたが、結局は
アンディが歌う事になる。
他のメンバーは、ギターにエイドリアン・フィッシャー、ドラマーは
スタン・スピークが選ばれた。

エイドリアンはロバート・スティッグウッド・オーガニゼーションで
マネージャーとしてクリームやビージーズなどを担当していた。
そういう人物でもギターは弾けた時代だったのだ。



スタン・スピークはアレクシス・コーナーの推薦で、運送会社で
運転手をしながらセッションマンとして働いていた。

フィッシャーが「お茶をいれるのが下手だったらしい」という噂もあり
音楽誌は「お茶くみとバン運転手、フレイザーのバンドに加入」と
伝えたという。

※「Tea And Driver」なんて表現されてます・・・

追悼:アンディ・フレイザー(4)

2015年03月23日 | 英国ロック
「ハイウェイ」と「ザ・ステイーラー」の売上不振に関しては
なんとか急造したシングル「マイ・ブラザー・ジェイク」がスマッシュヒットして
息を繋いだFREEだったが。

※「マイ・ブラザー・ジェイク」も良い曲だけど、ピアノ伴奏が中心の軽目の
 ナンバーで。FREE本来のヘビィなブルースロックとは掛け離れていたが、
 「オールライト…」で飛び付いた新規ファンにとっては、こちらの方が 
 彼らのイメージする「FREE」だったんでしょう・・・。

レーベルから掛かるヒットの重圧、休みなきツアーとレコーディングによる疲弊、
メンバー間の不仲、コゾフのドラッグ癖は、いよいよ深刻となり。
フリーは袋小路へと追い詰められてしまう。



特にロジャースのフレイザー間の仲は険悪だったとか。
コゾフはヴォーカリストとベーシストに音数を減らすことを半ば強要され、
弾きまくる機会はライヴのみ・・・と言った有り様。

スタジオでは年下のフレイザーに弾き方の「指図」さえされたコゾフ、
フラストレーションが溜まりまくり、逃避のために薬を身体に入れる日々だった
・・・とか。

※ソリストだったコゾフは、早くからカッティングなどをフレイザーに
 教わっていたらしいが、フレイザーがピアノの腕前を上げる事になり、
 楽曲によってはメロトロンも導入されたコゾフは「伴奏の出番も減らされた」と
 落胆。(それはそれで効果的なのだがコゾフには辛かったのだろうか・・・)
 ジェスロ・タルやR・ストーンズのギタリスト・オーディションを受けたり
 したとの事。

ギターの腕前を上げたロジャースは一人で作曲する事も増え、フレイザーも
自分で歌詞を書く自信を得て、「ロジャース&フレイザー」コンビの曲と
いいつつ、実際はバラバラで曲を作っていたとか。

※フリー創設当時はフレイザー宅に居候していたロジャースとアンディで
 多くの曲を書き上げて行ったというのに・・・。



4人が対等となって、それぞれのパートで唯一無二の存在となり、音を奏でたFREEが
そのバランスをエゴの衝突で崩していった。

ロジャースは「自分でもバンドを仕切れる」と思い始めたというし、
若さゆえに足りない部分を補い合ってたメンバーが成長する事によって
他者を求めなくなった結果・・・の悲劇。

年下ながらレコーディング知識にも長け、プロデューサー的な能力も
発揮してきたアンディは、必死に押さえ込もうとしたんだろうが、
かえって逆効果となり、メンバーの反発を招く結果に。

温厚で知られるサイモン・カークが、後のインタビューで
「アンディの才能はピカイチだったが、人を見下すようになっていた」と
言う程だから余程の事だったんでしょう・・・。



音楽への若き情熱に溢れていながら、その熱心さ、溢れる才能ゆえ、アンディは
グループの崩壊を自ら推し進めてしまったのか。

結局フリーは、1971年の初来日公演の後に解散してしまう。

決定済みだったアメリカツアーも追い打ちになったとの事。
疲れ切った彼らは「とても回れない」と、米ツアーもキャンセル・・・。
※来日前、すでにグループ内で解散は決まっていたんだそうな。

追悼:アンディ・フレイザー(3)

2015年03月22日 | 英国ロック
アレクシス・コーナーの後押しもあって知名度を上げたフリー。
※コーナーは自分のギグの前座に度々フリーを起用

68年には「Tons Of Sobs」でデビュー。
ポール・ロジャーズのソウルフルな歌声、エモーショナルなポールコゾフのギター、
常に渾身のドラム・アタックを聴かせるサイモン・カーク。
プロとして申し分ないリズムをキープするアンディのベース。

ブルースに傾倒しながら「同じ事をやっては本家の足元にも及ばない」と
彼らは必死にオリジナル・ミュージックを模索した。
曲によってはフォーキーでR&B的。そしてヘヴィなブルースロック。
瑞々しい歌と演奏は、いま聴いても感動的だ。



セカンドアルバムでは「リズムの揺らぎ、うねり」も体現。
場面によっては音数を減らし、緩急の妙も披露。
アンディーの急成長は明らかだった。
※反面、ソングライター・コンビがら指図されながらのレコーディングに
 コゾフは窮屈さを感じていたと言う。



そして1970年、
セルフ・プロデュースのアルバム「ファイアー・アンド・ウォーター」を発表。
シングル「オール・ライト・ナウ」が世界各国で大ヒットして一気にブレイク。
まさに、この世の春を満喫した。



一方「オールライト・・・」の楽観的歌詞や明るい曲調は一部の古参ファンから
「軽薄な曲を作りやがって」などと非難されたらしいが
「ただの3分ポップに、あんなシャウトやギターソロ、変態みたいなベースの
フレーズが盛り込めるかよ」と私なんて反論したくなっちゃいます。

※しかも、序盤のフレイザーは全然弾いていない。
 そこから徐々にベース音を足していき、ギターソロのバックでウネる低音から
 鐘を鳴らすかのようなフレーズは感動的でさえある。



コンサートは絶好調だったFREEなれど、
半年後に発表したアルバム「ハイウェイ」がさっぱり振るわず。

※ジャケットにバンド名が明記されていなかったから・・・なんていう
 話もありますが。「ハイウェイって新人バンド、なかなかイイね。
 フリーそっくり!」と音楽誌に書かれた・・・とか。
 幾分マネージメントの負け惜しみもあると思いますが。



シングル「ザ・スティーラー」も不発。
あんなにカッコイイのに!英国ロック七不思議ですよ!

コンサートでは会場超満員、バンドが登場してからも拍手と歓声が数分間収まらず、
ライヴが始まってもファンがステージに駆け上がったり、スピーカーに登った観客が
機材を倒してしまい演奏が中断・・・などあって、「人気沸騰」と書籍では伝えられて
いるのですが。



※他にFREE絡みの不思議では「オール・ライト・ナウ」がマンゴ・ジュリーの
 「イン・ザ・サマータイム」に抑えられて英国チャート1位を獲れなかった事!

 これはシングルの大ヒットを予想できなかったアイランドの増プレスが
 間に合わなかったという話もありますが・・・。

追悼:アンディ・フレイザー(2)

2015年03月21日 | 英国ロック
さてさて
15歳でブルースブレイカーズの元べーシストという肩書を得たアンディ。

※原因に関しては「ハイズマンのヤロー!」と、ちょっとムカついたが。
 良く考えれば、そこから「コロシアム」「フリー」という英国ロックの重要バンドが
 2つ出来上がっていくワケだがら、今にして思えば「ハイズマン、 グッジョブ!」と
言ってイイんでしょうかねぇ・・・

 もっとも当のアンディは「そもそもハイズマン以前に組んでたドラムの
 キーフ・ハートレーと合わなかったんだ。なんでだか分からないけど」と
 ハイズマンへの恨み節は語っていない。
 ハートレーとも単にプレイの相性だけだったみたいだし。


※フレイザー在籍時のブレイカーズ
 左からディック・ヘクトール・スミス、ジョン・メイオール、ミック・テイラー
 キーフ・ハートレー、フレイザー、ヘンリー・ロウザー(後にハートレーの
 グループに参加。ホーンとバイオリン担当)。
鼻の下に髭を生やしたフレイザー。精一杯、大人ぶってる印象。

一方その頃、やはり10代のブルース・ロックの若武者がベーシストを探していた。
ポール・ロジャース(Vo)と、元ブラック・キャット・ボーンズの初期メンバー
ポール・コゾフ、サイモン・カークの3人だった。


※ボーンズの初期フォト。一番左がカーク、次がコゾフ。
 まだ少年のようなポール・コゾフなれど、英国俳優デヴィッド・コゾフ氏の
 息子で、早くからロンドンの楽器店でバイトしており、店を訪ねたジミヘンと
 会った事を自慢する、いっぱしの「顔」だったそうな。

アレクシス・コーナーの紹介で合流した彼らは、ブルースロック・バンド「FREE」を
結成する。

全員が若いメンバーだけに、いきなり結成みたいな印象もあったが
キーフ・ハートレーの伝記によると、ロジャース(Vo)とコゾフ(g)、ハートレー(Dr)と
ゲイリー・セイン(後にハートレーバンド~ユーライア・ヒープのベース)で録った、
デモもあったというし、それまで様々なアーティストとセッションして“相性”を確認した
結果、「FREE」に至ったんだよなぁ・・・と思うと感慨深いモノがあります。



リハ初日、現場に現れたアンディは、一人だけタクシーで乗り付け、しかも
「領収書」まで切ったというのだがら、これにはメンバー全員が度肝を
抜かされた・・・とか。

※アマチュアに毛の生えたようなキャリアしかなかった他のメンバーに比べ、
 アンディは既に「プロ」だったのだ。
 音出しして意気投合した4人だったが、1番小僧のクセに「自分が仕切る」と
 言い出したアンディに驚きつつ「じゃあ、やってみれば」と任せたんだそうな。
 その後の英国ツアーではマネージャー役まで如才なくコナし、経費から
 メンバーのギャラまで管理したというアンディ、さすがではあった。

 メイオールの元で学んだのは、楽器や音楽だけじゃなかったのね・・・。



まずは「ロード」で腕を磨き、知名度を得る・・・というのが
当時の英国バンドの方法論。安い車に楽器を積んで街から街へ。

当然、カネは無く泊まったホテルの厨房に「1番小柄な」アンディが忍び込んで
冷蔵庫の食料をくすねた・・・なんて逸話も残っております。
※若気の至り・・・ですな。まぁ、普通に盗人なんですが。

フリーの巡業ライブは各地で評判を呼び、レーベル契約の話も出たが
当初アイランドの役員は「彼らは荒々しすぎる」と渋った・・・とか。
※その中にはスペンサー・デイヴィス・グループを辞めて音楽ビジネスに
 転じたマフ・ウィンウッドの顔もあったという。



それでも社長のクリス・ブラックウェルの意見で、フリーは晴れてアイランド・
レーベルの所属ミュージシャンとなった。

ジェスロ・タルやトラフィック、スプーキー・トゥース、キング・クリムゾンを
排出した急進的なインディーズ・レーベルである。

追悼:アンディ・フレイザー(1)

2015年03月20日 | 英国ロック
ピーターバラカン氏をして、
「70年前後のブリティッシュロックで1番ファンキーなベーシスト」と
言わしめた男、アンディフレイザー。

彼の道程を各メディアや書籍「ヘヴィロード」から抜粋しながら
書き連ねて行きたいと思います。



Andrew McLan "Andy" Fraser。
1952年7月3日ロンドン生まれ。

祖父はスコットランド出身、英領ガイアナでサトウキビ農園を経営。
祖母は、その農園の労働者。

混血の父親ジョン・エドガー・フレイザーは、ロンドンの
法律事務所に勤務。
母バーバラは、ロンドン生まれでブロンドの白人女性。
2人の間には4人の子供がおり、アンディは上から2番目で長男。

フレイザーが6歳の時、両親が別居。母親に育てられる。
子供の頃からピアノを学び、12歳までのレッスンで音楽の
素養を身に付けた。

両親が離婚するまでは父が聴くカリプソ・ミュージックに馴染み、
グラマースクールに入った頃には、ロックやモータウンも耳に
していたアンディーは、ギターを手にするようになる。

P・マッカートニーやJ・ブルース、スタックスの演奏を肌で感じ
「自分はベース・プレイヤーに向いている」とベースに転向。

当時、姉のボーイフレンドだったビンキー・マッケンジーの影響もあった。
ビンキーはアレクシス・コーナーのバンドにも在籍するベースマンで
八方破れのプレイヤーとして注目されていたという。



驚くべきことに、アンディは13歳の頃、既にイーストエンドのスカ・バンドに
加入し、“プロ”として活動を始めていたという。
※カリビアン・クラブと言いつつ、ウィルソン・ピケットやサム&デイヴ、
 オーティス・レディングの曲をコピーしていたそうで。フレイザーの
 腕前はめきめき上がっていった事は言うまでもない。

 なお、チンピラ的性格だったビンキー・マッケンジーは、殺人事件を
 起してしまい無期懲役となってしまったそうな・・・

長髪のため学校を退学となったアンディは、ハマースミス美術学校へ入学。
そこで、アレクシス・コーナーの娘サッフォーと同級生となる。
お付き合いする事になった両者、アンディのエキゾッチックな魅力に
サッフォーちゃんはコロっといっちゃったんでしょうか。

そして、コーナー宅に出入りするようになったアンディ。
コーナーを父親のように慕ったんだそうな。



この頃、コーナーは自分と同じく英国ブルース界のアニキ的存在だった
ジョン・メイオールから「ベーシストを探している」と聞かされており、
「では!」と白羽の矢があったのがアンディ・フレイザー。
たった15歳。1968年の事でした。

そのバンドこそ、クラプトンやミック・テイラー、ピータ・グリーンら英国の
錚々たるミュージシャンを輩出したブルースブレイカーズだったのです。



しかし、メンバーチェンジが多い事でも有名な同バンド。
フレイザー参加の2ヶ月後にドラマーのジョン・ハイズマンが加入し、
ハイズマンが旧友のベーシスト=トニー・リーブスを誘い込んだ事で
アンディは解雇されてしまう・・・。

訃報:アンディ・フレイザー

2015年03月19日 | 英国ロック
突然の事に身体から力が抜けた・・・。

2013年に来日公演を果たし、健在ぶりを見せてくれて
あの年もっとも感動的だった出来事として印象的に残っていたのに。
http://blog.goo.ne.jp/aru-rodgers/e/7ae1515f0292d301a062bcb9c255e48e
http://blog.goo.ne.jp/aru-rodgers/e/1b521bfa66288925a62579ebcb25c3cb
http://blog.goo.ne.jp/aru-rodgers/e/bdd1cc70e38ae78a46c6ec1d452e81fe



亡くなったのは3月16日。
フリーのベーシストとして、同バンドの世界的ヒット曲=
「オールライト・ナウ」をP・ロジャースと共作した事で
知られたアンディ・フレイザー。

彼は癌とエイズとの闘病を続けていたが、直接の死因は
明らかになっていないとの事。

ロンドン生まれのアンディだったが、晩年はカリフォルニアに
移り住み、最期は母や娘、友人に見守られ、自宅で息を
引き取ったという。

享年62。若すぎる・・・。



ジャック・ブルース同様、
自身の出世バンド中、最も才能に恵まれていたと私は思っていました。

リード・ベースとも言える旋律を刻みつつ、うねるリズムで
曲を進めたスタイルは唯一にして無二。

私の中では「J・エントウィッスル」「J・ブルース」に並ぶ
3大ベーシストの一人だった。

ベースソロも強烈で、「Mr.ビッグ」は彼の代名詞でもあった。
作曲者としても優れ、P・ロジャースとFREEの名曲を殆ど書き上げた。

ロジャースなど、代表作の「ファイアー&ウォーター」を、もっと
アップテンポな曲のイメージで作ったのだが、原案段階にて
フレイザーに渡したら、あのようヘヴィなアレンジで帰ってきた
・・・などとコメントしていた。



只者では無かったのだ。
他のメンバーがTシャツにベスト、または胸の開いたポロシャツ
・・・みたいな格好してるのに、一人だけ帽子とオシャレな
ジャケット着こなしてたりしていた。

得てして地味な存在に映るベーシストだが、実に華があった。
正直、FREE解散後は才能に見合った成功は得られたとは言えないが
それでも、シャークスでクリス・スペディングと競演、
スニップスの強烈なダミ声を活かした曲を提供した。
※曲によってはFREEみたいだったよなぁ・・・



“スコットランドのO・レディング”フランキー・ミラーに
提供した曲も素晴らしかった。

2013年の来日公演では
亡くなったロバート・パーマーに提供した「愛しき人々」も
演奏してたよなぁ・・・。



フリーの結成時は16歳。
それで、あんな渋い曲が弾けるんだもんなぁ。
・・・まさに天才少年でした。

我が“3大ベーシスト”全員が天に召されてしまった。

フレイザーさんに関しては、まだ見送る気持ちにはなれません。
もう少し未練たらしく彼を語りたいと思います・・・。

(続く)

「UK 〜THE FINAL〜」チケット販売開始

2015年03月19日 | 英国ロック
ラストツアーの最終日が東京公演になるというのは
以前から公開されてたが、やっと日程とチケット発売が
ネット上で知らされましたよ。

4月の公演を3月半ばで詳細告知とは・・・参りますわ。



今やエディ・ジョブソンとジョン・ウェットンの双頭バンドといえる
U.K.の日本ツアー<UK 〜THE FINAL〜>。

4月27日(月)が大阪・なんばHatch
4月30日(木)が東京・中野サンプラザ。

30日の東京公演は“FINAL CONCERT”と銘打たれている。



すでに大阪公演はチケット販売され
東京公演も、本日3/19の12時から販売開始!!

私は取り急ぎe+でGETしました。
※チケットぴあ、ローソン・チケットでも発売中。

クラブチッタじゃなく、サンプラザだから即完売は無いと思うが
U.Kファンの方は早く券を確保されたが宜しいかと思います。

●<UK 〜THE FINAL〜>

UK:
Eddie Jobson (keys/vln)
John Wetton (bass/voc)
Alex Machacek (gtr)
Chad Wackerman (drms)
Mike Mangini (drms)

Alex Machacekはホールズワースが抜けた後の21世紀版U.K.に
参加したギタリストだそうで
Chad Wackermanは、ZAPPAバンドにも在籍した腕利き。
Mike Manginiは、ドリーム・シアターの人。

※「スペシャル・ゲスト参加」って話はどうなったんだろう・・・



●2015/4/27(月) 
大阪・なんばHatch 18:00開場/19:00開演
前売- 10,000円、当日- 10,500円

●2015/4/30(木) 
東京・中野サンプラザ (UK's FINAL CONCERT)
18:00開場/19:00開演
EXCLUSIVE  21,600円 ※5列目~14列目/グッズ付
S席        10,800円

「題名のない音楽会」登場のモルゴーア・クァルテットは・・・

2015年03月18日 | 洋楽
プログレの演奏やりませんでしたね。
そのかわり、より過激にメタルやフリージャズに挑まれておりました。

3月15日(日曜)朝に放送された「題名のない音楽会」、
登場したのは弦楽四重奏団のモルゴーア・クァルテット。

クラシックの枠を超えプログレやロックなど幅広いカバーで
知られるモルゴーアはメタリカの「Master of Puppets」をカバー。



期待のプログレは、グループ紹介時にキング・クリムゾンの
「レッド」を演奏しているシーンが流れたくらい・・・か。

他は、原点であるクラシック曲、さらにピアニストの山下洋輔氏と
激しく共演。

モルゴーアの原動力=怒りを垣間見る事が出来た。

まぁ、「レッド」もメタル・クリムゾンの原型みたいな曲ですから
ハイライトで見れただけでも嬉しかったですけどね。

これまでも
和太鼓+オーケストラや、オーケストラ✕プログレなど様々な
掛け合わせが披露されてきた「題名のない音楽会」。

よって、高梨康治さんの
「キュアメタルナイト」で和太鼓✕メタル、和太鼓✕ドラムスの
バトルがあっても私は動じる事は無かったのでした。
※そりゃまぁ、コージー・パウエルのフレーズが出てきた時には
 狂喜しましたけどね

今後も「題名のない・・・」の企画には大いに期待していきたいと
思います。