有田芳生の『酔醒漫録』

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敗戦記(8)

2009-11-30 11:20:00 | 政談

                         敗戦記
       小沢一郎流「どぶいた選挙」を闘って(8)  
                                                           有田芳生

 東京や横浜に同潤会アパートが出来たのは、関東大震災後のこと。近代日本ではじめてコンクリート造りのアパートメントが建設された。茗荷谷に建築された大塚女子アパートに、共同浴場、エレベーター、売店、音楽室などが設置されたことは画期的であった。しかし総合的な都市計画のなかったことが、日本全国にいびつな街を作り上げたのである。この国は関東大震災、敗戦という都市整備のための2回のチャンスを逃したまま、いまに至っている。これからでも「人間の顔をした都市計画」を実現することは可能なのだ。

 いまの日本には「成熟社会」に対応したモデル住宅が求められている。増加する高齢者への負担があまりにも大きいからだ。デイサービスに向うお年寄りたちは、時間をかけて施設で時間を過ごす。足腰が弱っている人にとっては、迎えの車に乗せられて移動するのは肉体的、精神的に大変なことだ。たとえば居住地(の近く)に24時間対応の浴場施設があればどうだろう。そこにはクリニックや文化施設もあり、大学の公開講座や退職者による各種催しや講座もある。高齢者だけでなく、若い人たち、あるいは現役世代も楽しめるような文化会館も併設される。「成熟社会」に対応した居住モデルとは、何も高齢者のためにだけつくられるのではない。

 それを実現するには時代観の大転換が必要だろう。もはや「右肩上がり」の経済成長を求めるのではなく、生活の質を充実させる「成熟社会」の実現こそ目指さなければならない。そのための居住モデルである。阪神・淡路大震災規模の地震や風速80メートルにも耐えうる共同住宅を作るには、まず建築基準法を改正しなければならない。容積率と耐震強度は関係がない。特定地域の容積率を緩和し、緑地を増やして高層住宅を整備する。これは日本国内向けの課題に終わらない。(詳しいことは省略。いずれまとまった形で報告する予定でいる)

 専門家によれば、日本の建築は、規格が単一でないために、一棟づつのオーダメイドであり、いわば英国屋でスーツを作っているようなものだという。部品を標準化し、工場生産を取り入れることによって建築費を3分の1にできるという試算もあるという。もちろん建物の色やデザインなどは住民の総意で決めていく。湾岸地域を職住接近の街に開発することで郊外を自然豊かな街に育てていくことも可能だという専門家もいる。 

 2050年には世界人口は100億人を超える。中国、インド、中東をはじめとして世界中で建築需要がある。日本の技術を総動員して新産業を創設するのだ。マグニチュード8の震災にも耐えるシステムを世界に輸出する。ある専門家は「日本のアポロ計画」だと表現した。中央防災会議が検討した首都直下地震についてのシュミレーションでは、被害総額が約112兆円だとされている。起きてからの被害を想定するのではなく、地震が来ても被害を最小限に抑える施策がいまから求められている。

 政権交代したとはいえ、いまの日本に欠けているのは国家目標である。明治維新以来の日本を振り返れば、国家目標のあるときにこそ社会は活性化した。言葉を代えて言うならば、国家目標なき社会は衰退していくのみだ。産業構造を時代に合ったものに作り替えていき、そこに人間らしい街造りを組み込んでいく。「成熟社会」とは「衰退社会」ではないのだ。

 板橋での政治活動の1年は、わたしに大きな課題を与えてくれた。過ぎ去った時間をもはやあれこれと振り返ることはしない。2009年夏の選挙で敗北したとはいえ、成熟社会の居住モデルを創造する仕事は、日本から世界へと広がっていく壮大なテーマである。その実現のための新しい挑戦をしなければならない。選挙を終えてそんな思いを抱えながらも眼の前には重い扉がそびえていた。新党日本副代表としての立場に逡巡が芽生えたからである。(続く)


距離を取るか、接近するかの方法論

2009-11-30 09:34:15 | 読書

 11月29日(日)091129_173101 朝7時前の成増。南口から北口に向っていると、ある男性から「1票入れたんやけど、残念でした」と関西弁で声をかけられた。この場所で何度も何度も朝から訴えを行ってきたことが遠い昔のよう。民主党の長瀬達也区議世話人会の日帰り箱根旅行をお見送り。熊木美奈子都議とお会いしたのは選挙開票日以来。早朝宣伝を終えてスタッフと顔を出したことのある喫茶店で朝食。ホテルヒルトップでサウナに入り、短時間の睡眠。帰宅して何通かの手紙を書いて新宿。散髪をして紀伊国屋書店。無印商品でセーターを購入。喫茶「凡」で読書。日垣隆さん編著の『戦場取材では食えなかったけれど』(幻冬舎新書)は後半で意外にもエキサイティングな展開になり、とても面白かった。昨夜「おもろ」に立ち寄ったのは、ある方が沖縄の久米島はカンボジアのクメール・ルージュの「クメ」に由来すると語っていたのが気になったからだった。店主のヒデキさんに訊ねたところ「そういう噂はいくらもあって、そのひとつだね」と一言。何でも日本人のルーツがカンボジアだと主張する方もいるようだ。国際問題に詳しい高世仁さんには新宿から電話をしてみた。あるエピソードを聞いて「なるほど」と思った。かつて米軍がカンボジアのプノンペン空港を攻撃したときの話だ。あるジャーナリストは燃え盛る炎の方向へとどんどん接近していったので、フィルムに映っていたのは炎だけだったという。これでは攻撃の全体像がまったくわからない。取材対象に接近するのか遠ざかるのか。そこには方法論に留まらない問題がはらまれている。日垣さんの刺激的著書に続いて読みはじめたのは、綿貫民輔さん(国民新党顧問)の『八十一歳は人生これから』(幻冬舎新書)。政治家一家に生まれた綿貫さんが健康を維持しつつこれまで活動してきた秘訣が開陳されている。どんな仕事をするにもまずは健康だ。とても参考になる。池袋リブロで気になる書籍がいくつかあったが、「積ん読」を避けるためにしばし立ち読み。


「子どもたちの想像力をとりもどせ」

2009-11-29 06:29:07 | 随感

 11月28日(土)091128_140001 渋谷から東急東横線で祐天寺。世田谷区立中丸小学校の家庭学級で講演。テーマは「子どもたちの想像力をとりもどせ」。家庭学級担当の母親たちが長い時間をかけて準備をしてくれた取り組みで、最初から最後までとても感じよく対応してくださった。冒頭では明治維新から現代までに官僚支配という問題だけではなく、社会の質そのものが変わってしまったのではないかという問題関心をお伝えした。鎖国や身分制度を廃した画期性とともに、大切なものを失ったのではないかと思うからだ。先日の上田篤さんの講演でも語られたが、江戸時代は人口3000万社会を維持する人口制限があった。ところが明治維新とともに「殖産興業」路線で「産めよ増やせよ」の西欧キャッチアップ路線が取られたことで、人口もいまや1億2000万人を超えるようになってしまった。教育制度は進学を軸にするのではなく、もっと人間的涵養を中心にしたものに変えなくてはならないのではないか。アメリカに文部省が存在せず、各州独自の教育システムがあることは、日本の今後にも参考になる。熱心なみなさんを前に語りながらもそんな思いが浮かんできた。過度に不安を抱く必要はないが、いまの日本は犯罪「自由放任」社会に入っている。直視すればとうてい否定できない現実がある。萎縮することなく、日本の未来である子供たちが豊かな人生を送れる日本を築き上げなければならない。それこそ地域を基本にした課題なのだ。昼食は銀座に出て「とん喜」で豚カツ。新橋で読書。北品川の服部真澄邸で恒例のボジョレーヌーボーの会。かつて服部さんの手術を受け持ったH先生、モツ煮込みの美味しい「ほ志乃」御夫妻、品川女子学院の漆紫穂子さんなどなどと懇談。広末涼子を教えた漆さんには最近の映画がいいとお伝えする。池袋に戻り迷ったものの、「いまは放し飼いの時期」と勝手に判断し「おもろ」で泡盛。


「イングリアス バスターズ」はすごい映画だ

2009-11-28 08:00:06 | 映画

 11月27日(金)091128_072601 完璧な二日酔い。起きてすぐに「液キャベ」を飲む。12月24日ごろに発売される福田ますみさんの『でっちあげ 福岡「殺人教師」事件の真相』(新潮文庫)解説原稿のゲラに手を入れる。大山の事務所。新党日本時代に宣伝物でお世話になったEーグラフィックスコミュニケーションズのHさん、Kさん、Hさん来訪。これまでのお礼と今後のご協力をお願いする。駅前の薬局で再び胃薬購入。東武練馬のSATYで「イングリアス バスターズ」を見る。脚本の人物造形と俳優陣の演技、物語性、映像リアリティ、音響効果など、すぐれた映画の出来に驚く。目を背けたくなるシーンの数々。しかし戦争の現実とはこういうものなのだろう。成増に移動してホテルヒルトップのサウナで体調回復。駅の改札を出たところで買った日垣隆さん編著の『戦場取材では食えなかったけれど』(幻冬社新書)の序章「戦場に行かなかった父から子へ」を読む。日垣さんの御長女、御長男は、それぞれ一度だけお会いしたことがある。礼儀正しい挙措は、こうした父親から生まれたのだと納得。「戦場取材」ものという印象を受けるタイトルだが、序章を読めば「どう生きるか」という普遍的問題を扱ったものだとわかり、西郷隆盛を少し休んで、明日には読み終えるはず。自民党支持の「会長」と雑談。遅くなったので「兼祥」でビールに餃子。あちこちで選挙で1票を投じてくれたという声と、来夏への協力を申し出てくださる声あり。ありがたい。


敗戦記(7)

2009-11-27 11:24:21 | 政談

                         敗戦記
       小沢一郎流「どぶいた選挙」を闘って(7)  
                                                           有田芳生

 小選挙区での経験はとても貴重なものであった。「敗北を抱きしめて」次なる課題に向わなければならないと思うのは、大きな課題を発見したからである。視野に入っていなかったそのテーマは、私にとってはまさしく「発見」であった。これまでオウム、統一教会、カルト教団や北朝鮮による拉致問題などに取り組み、それを国政での基本テーマにしようと考えてきた。テレビ業界、演劇、音楽、スポーツ分野からもいくつかの課題を相談されていた。それぞれに改善や解決を必要とする大切なテーマだ。

 ところが練馬、板橋での2年間の政治活動を続けるなかで、日本全体の今後にかかわる大問題を発見した。これは私個人が選挙で敗北しようと厳然たる「時代の課題」として残されたままだ。ありていにいえば、どの政党も政治家もほとんど主張しないからこそ、問題なのだ。いま大きく報じられている予算のムダを省く作業は日本政治にとって必須の仕事。しかし税収が落ちているいま、日本に求められるのは「富の配分」から「富の創造」への転換なのだ。

 選挙時のチラシでも書いたが、「成熟社会」における居住モデルを創ることである。これは医療・福祉・介護・環境を中心とした産業構造に転換していく課題と結びついている。少子・高齢時代が進行しているにもかかわらず、新しい時代を先取りした政策提示と実行はあまりにも遅れているのだ。介護の仕事が増えたところで日本経済全体にはあまり影響を及ぼさないという意見がある。これは「木を見て森を見ない」たぐいの議論であり、内田樹さんの指摘によれば、「この問題に触れていない」といった狭い学界的な発想にすぎない。

 たとえば板橋区の高島平団地を見てみよう。日本全体の高齢化率(人口に占める65歳以上の比率)は23パーセント。ところが高島平団地では36パーセント(「高島平新聞」独自の調査)で、数年後には「団塊世代」の退職によって50パーセントを超える。独居も増えており、何よりも足腰の弱る世代にとってエレベーターのない団地(すべての居住棟ではない)は苦痛だ。1972年に完成した「東洋一の団地」も、いまや47年の時間が経過、居住者も高齢化したが、建物そのものもいずれは立て替えなければならない。ここにポイントがある。

 関東大震災が起きたとき、あるいは終戦後に再建された都市はいわば「バラック復興」であり、充分に計画されていたわけではなかった。未来を見据えた都市計画なき日本。それはいまの東京を見れば誰にでもわかることだ。作家の須賀敦子さんが亡くなる前、入院している病院屋上から東京を見渡して「いつからこんな都市になったのか」と嘆いたとおりの現実がある。そこにメスを入れ、新しい日本社会を創っていかなくてはならない。(来週に続く)


新宿の長い夜

2009-11-27 10:49:58 | 酒場

 11月26日(木)091127_005401 長い時間が過ぎていったようだ。新党日本を離脱してまだ1週間。時間感覚の不思議世界。来夏に向けての書類を作成。12月2日の「読売新聞」に掲載される拉致問題解決を求める意見広告の準備作業いくつか。神保町の「トロワバグ」で読書。東京堂書店で上田篤さんの講演「西郷が目ざした『小さな日本』」を聞く。武士は「生財」(長生きと金)には無頓着だったという話から、明治維新がどのように役人国家を生んだかという話まで、教養あふれる、しかし現代につながるテーマはとても面白かった。つくづく思うのは日本人の坂本龍馬好きを作ったのは司馬遼太郎さんだった。私も高校時代にむさぼるように読んだ『竜馬がゆく』の影響は決定的だろう。司馬さんは、作品タイトルを本名の「龍馬」ではなく「竜馬」とした。フィクションだとの気持ちからだろう。龍馬の明治維新での役割は過大評価にすぎるのではないか。最近そう思うようになってきた。上田さんの単行本を企画したのは、新潮社にいた初見國興さん。沢木耕太郎さんの『人の砂漠』や『深夜特急』の担当者として、お名前だけは記憶にあった。文藝春秋にいたときに面識を得た日本経済新聞出版社会長の斉藤禎さんとも久しぶりにお会いする。「週刊新潮」のS記者と「萱」。そのうちにほろ酔いのカメラマン矢口がやってきた。いっしょに「人魚の嘆き」へ。初見さん、スタッフTさんと一献。小学館の相賀昌宏社長と週刊誌の存続問題など短い雑談。「さあ朝まで飲むぞ」という初見さんに連れられて新宿2丁目の「ヨウチャンち」。都はるみさんが店に来たときの写真が貼ってあったので、つい電話してしまう。さらにゴールデン街。2階にある店に入ると「東京スポーツ」のN記者がいた。まさかこんな夜になるとは思わなかった。久々に痛飲。


 敗戦記(6)

2009-11-26 09:42:05 | 政談

                        敗戦記
       小沢一郎流「どぶいた選挙」を闘って(6)  
                                                           有田芳生

 田中代表が兵庫8区から出ると参議院議員に繰り上げ対象になるのは私だった。ところがすでに東京11区で選挙戦を闘っている。もし繰り上げを引き受けるなら、選挙戦の最中に候補者がいなくなる。日本の選挙史上はじめての事態であった。もちろん私は繰り上げ当選を選ぶつもりなど最初から無かった。

 そもそも繰り上げを決める中央選挙会は8月30日前後に開かれる予定だった。諾否は通知が届いてから5日以内に行う。読売新聞(8月18日付、夕刊)はこう報じた。「総務省選挙部によると、有田氏が衆院選で当選した場合でも、衆参どちらの議員になるかは、有田氏が決められる。繰り上げ当選者を決める中央選挙管理会の選挙会は、8月30日前後に開かれる見通し」。こうした報道を受けて選挙会は急きょ開催を早めたのだろう。

 ネットのYahoo!ニュースでは立候補辞退もあるかのような記事が半日もトップニュースで報じられた。ところが私に直接取材をして報じたメディアはいっさいなかった。まさに「焼け石に水」。とくに大々的に報じた「スポーツニッポン」では永田町関係者なるものが「有田は繰り上げを選ぶはずだ」などとコメント、とくにネットを通じて広がっていった。板橋区でもそんな情報を流す勢力もあった。

 選挙区でも混乱が起き、批判や苦情、戸惑いが事務所や私にも多く寄せられた。まさに報道被害だといわざるをえなかった。高島平駅前の早朝宣伝のときには、自民党の相手候補も「どうするんですか」と聞いてきた。もちろん「ここで闘います」とお答えした。この事態を打開するためには報道してもらわなければならない。東武練馬SATY前の演説で繰り上げ当選するつもりなど最初からないことを語ったのを報じてくれたのは「スポーツ報知」だった。

 敗因をこの問題にあったとする声も多かった。私もそうかなと思わないでもなかった。しかし選挙後に知ったことだが、朝日新聞の調査では繰り上げ当選を辞退してから、支持率は上がっていったという。「繰り上げ当選」の影響は皮肉にも選挙後も続いている。板橋だけでなく都内各所でも「おめでとうございます」などと言われる始末だ。当選を辞退するのではなく、受諾したと思い込んでいる人たちが案外に多いのだ。まさしく苦笑するしかない。「受けるべきだった」などといまでも新聞記者などに言われるが、「そのつもりはまったくなかった」と答えるしかない。(続く)


『西郷隆盛 ラストサムライ』を読む

2009-11-26 09:23:17 | 読書

 11月25日(水)091119_164402 藤原新也さんお薦めの「人生に乾杯!」をYouTubeで聴き、会社員時代を思い出してしまった。そのあとで意外な体験をするとは予想もしなかった。京橋で「こつなぎ 山を巡る百年物語」を見る。そもそも自然の一部である土地とはいつから所有されることになったのか。「入会権」(一定地域の住民が、慣習的な権利により特定の山林や漁場などで薪材や魚貝を採取すること)裁判の貴重な記録は、土地とは何か、所有とは何かを根源的に問うている。すこしウトウトしたところで目が覚めた。「藤本正利」というクレジットが目に入ったからだ。出版社時代の上司だった。スクリーンでは20歳代の藤本さんが語り、行動している。映像に記録された藤本さんは、まさしくオールドボリシェビキ。大学院を卒業して岩手の農村に入り込み、そこで住民とともに暮らし、闘っていた。藤本さんが亡くなってからもう何年になるだろうか。銀座に出て鳩居堂。後援会および支援してくださった方々への書簡を書くための便箋を選ぶ。並木通りの「壹眞珈琲店」でこれからの思いを綴る。上田篤さんの『西郷隆盛 ラストサムライ』(日本経済新聞出版社)を読みはじめる。政権交代が「明治維新」以来の政治変革とよく言われるのは、そこから官僚支配がはじまったとの認識があるからだろう。システムだけでなく、人間も変わっていったはずだ。「明治維新が責任感のつよいサムライをなくしてしまった」というのが上田さんの問題意識。薩摩と長州が江戸文化(渡辺京二さんに言わせれば「江戸文明」)を破壊したのではないか。半藤一利さんが指摘するように「維新」などと正当性を強調する表現が行われるのは、幕府が倒れてから15年ほどあとのこと。ならば「明治維新」の再評価も必要だ。四ツ谷3丁目で降りて「酒楽」で知人たちと一献。


敗戦記(5)

2009-11-25 08:24:30 | インポート

 11月23日(月)電車を乗り継いでいるうちにとんでもない方向に向っていた。池袋に戻り何とか目的地の鷹の台駅へ。松明堂ギャラリーではじまった梅田恭子さんの作品展「目デ嗅グ」に行った。今回は来年1月に発売される予定の辺見庸さんの『生首』(毎日新聞社)のための原画と新作が展示されている。辺見さんの詩文を読み込んだ作品はまるで異界から俗世を見つめているようだ。会期は12月12日まで。自費出版した銅版画集『ツブノヒトツヒトツ』がいい。松明堂書店が松本清張さんの御子息の書店だとは知らなかった。NHKーBS2で中島みゆき特集を見る。80年代に取材を申し込んだとき「不思議な存在でいたい」と断られたことを思い出す。同世代の異才に共感、感服。

 11月24日(火)来夏への戦略を相談し、新橋のクリニックへ。「壹眞珈琲店」で三浦しをんさんから送っていただいたままになっていた『神去なあなあ日常』(徳間書店)を読む。林業に携わることになった若者の成長物語。「瑞花」で「うす揚げ」を購入。そういえば番組にお土産で持っていったとき「太田総理」も美味しいといっていた。東宝で最終回の「笑う警官」を見る。北海道警の裏金問題をテーマとしているが、腑に落ちないところが多かった。

                         敗戦記
       小沢一郎流「どぶいた選挙」を闘って(5) 
                                                           有田芳生

 選挙の現場、とくに小選挙区では、濃厚な人間関係が渦巻いている。恩師・山口正之さんの言葉を借りれば、そこには「生活の香り」がある。2年前に体験した特定地域を持たない参議院選挙(比例区)と比較した根本的違いである。組合や宗教組織などを支持基盤とする候補者なら「組織内候補」としての「しがらみ」も出てくるだろう。私は「しがらみ」がほとんどない「根無し草」の候補者を経験した。だから小選挙区での闘いは大変であり、面白くもあった。

 ある人脈をたどって自民党の「地域ボス」を訊ね歩いた。たいていは挨拶程度で終わったけれど、なかには貴重なアドバイスをくれる方もいた。1時間の立ち話をした結果、カンパをくださった方もいた。そこでまた人間関係が広がっていく。「あなたにどうしても勝って欲しいんだよ」といいつつ、同時に現職候補者にも足場を持っているケースもしばしばだった。人生とは「妥協の原則」を摸索することなのだ。「面倒な人間関係だな」と思うこともあったが、町会や商店会などでは自民党組織の網の目はこうして形成されているんだという発見もあった。

 ある居酒屋がポスターを貼ってくれた。するとすぐに自民党元区議がやってきて「いつから有田の支持者になったんだ」と剥がしていったこともある。それだけではない。数日後には「警察」を名乗る男が店に来て「有田はどれくらい飲みに来るのか」と聞いていった。まさか警察官がそんなことをするはずもない。嫌がらせだったのだろう。ちなみにその店は民主党区議の後援会の方々と一度ご一緒しただけだ。

「申し訳ないけれどポスターを剥がした」と事務所に電話があった。やはり地域の自民党関係者が文句を言ってきたのだそうだ。大通りに面した場所だ。そのメイン通りではあるときいっせいにポスターが消えていたこともある。民主党に出入りしている人物から選挙関係の仕事を頼まれたときのこと。予算がないためにお断りした。その途端に「ポスターを剥がすようにと言われたので」と数人から電話がかかってきた。ごく小さな利益が選挙に駆り立てるのだろうか。

 創価学会でも「何か」が起きているようだった。ある日のこと、2人の女性が事務所のなかを見ていた。挨拶をすると「こんどは有田さんに入れますから」といいつつ創価学会員だと自己紹介した。ある祭り会場でも「学会員です、投票します」とわざわざ声をかけてきた男性がいた。「積極的自由の方針なんです」と言われたが、意味が理解できなかった。

 ある職場では上司が従業員に「比例は公明党に入れてください。小選挙区は有田です」などと語っていた。そんな経験がいくつもあった。どうやら板橋の創価学会は自主投票的な判断もなされていたらしい。実際に東京11区では5000票の白票が出ているが、そのほとんどが創価学会票のようだ。調べてみると公示数日前に1700人の幹部信者を集めて「積極的自由」という指示が出されていた。

 民主党のごく一部では「比例区は民主党、小選挙区は○○」と自民党現職候補を応援する動きさえあった。それがどこまで実体を持ったものかは不明だが、少なくとも自民党古参幹部はあちこちでそう語っていた。本当ならばまさに卑劣な恥ずべき敵対行為である。ある都議は私に電話をしてきて「後援会は支援しないと決まりました」と言った。「上田耕一郎と親しかったのはけしからん」と幹部たちが言ったという。2月はじめのことだ。

 選挙戦の真只中に困ったのは新聞各紙が大々的に参議院議員に繰り上げ当選するかのように報じたことだ。「共同通信」はこう報じた。「有田氏の出馬 取り下げも 日本、参院繰り上げで  新党日本の田中康夫代表は21日午前、田中氏の参院から衆院へのくら替え出馬に伴う有田芳生氏の繰り上げ当選について、参院比例代表の選挙会が決定した後に辞退するか判断する考えを示した。都内で記者団に述べた」。 この報道には心底驚いた。冗談ではない。これでは私が繰り上げ当選を受諾して、東京11区から選挙戦の最中に撤退するかもしれないということになるからだ。(続く)