有田芳生の『酔醒漫録』

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「檸檬」の街を歩く

2006-12-31 09:24:38 | 読書

 12月30日(土)狭い道でいきなり流れがとどまった。引き帰すこともできなければ進むこともできない。感性を楽しませてくれる師走の風景が突然視野から消えた。少しずつ動くこちら側は、ざっと見て三列。対向の人群れは一列。そのうち後側から強引な数人が割り込んできた。とくにヒゲ面男の顔色はいささか殺気を帯びている。いきなり流れが変った。男の横暴に対抗勢力が無言の集団的意志を行使したのだ。あちらからの流れが三列ほどになり、こちら側が一列になった。動きに流され、ふと見れば向こうから黙々と歩いてくる人群れのなかに泣いている女の子がいた。小学生だろう。群れの力がさらに強まった。あっと身をかわす。乾物屋の店先に手をついた。少し前を行くヒゲ男が何やら叫んでいる。眼の前の女性が振り返り雄叫びをあげた。「何やあんたは!」血走った眼をさらに深く変貌させた男の右手が人込みを縫って女性の腹に伸びた。肉体を打つ鈍い音がする。女が振り返り再び叫ぶ。「このー!」あとの罵り言葉が続かないのは流れが早まったからだ。体勢を整えなければ確実に事故が起きる。京都の錦市場に入ったのが間違いだった。ここまで混雑するとは思わなかった。右折して烏丸通に逃げ、ホッと一息ついた。錦市場の酒屋で「壺中の天」という美味い日本酒を買うつもりだった。そのポスターが出ていた店だったので注文すると、酒蔵はもう何年も前につぶれたという。その代わりの酒を買い、出汁巻き玉子の店に並んだ。すると店員があちらの道路に並んでくださいという。そこに行くと、何と10メートルぐらいの客が列をなしていた。諦めてさらに進んだところで騒動に巻き込まれたのだった。事態がそのまま進行すれば確実に不測の事態に陥る。その臨界点があることを実感した。身動きできない渦のなかにあって小さな不安が芽生え、ふくらむ前に消えていった。

061230_13510002  京都の街も大きく変貌しつつある。まず書店が無くなっていることに驚いた。たとえば昨年10月10日に閉店した丸善河原町店は、いまではスーパージャンボカラオケ店になっている。ふと梶井基次郎の「檸檬」を読みたくなり、ジュンク堂で購入した。丸善が閉店する10日前にこの文庫1000冊が新潮社に注文され、すべて売り切れたという。「檸檬」といえば丸善河原町店だったからだ。最後の日には店内に約50個のレモンがあちこちに置いてあったそうだ。小路を入り「築地」で珈琲を飲みながら再読する。最初に読んだのは高校時代の教科書ではなかっただろうか。梶井が23歳のときの作品が日本文学に残っていることがすごい。31歳で肺結核のために亡くなった梶井の作品は、まさに「檸檬」冒頭に書かれているように「えたいの知れない不吉な塊」を日常生活のなかで克明に描いている。京都の寺町通や新京極を記録した「檸檬」は1924年に書かれた。梶井はそこで「見すぼらしくて美しいもの」に強くひかれる自分があると表明している。その美意識が梶井の作家としての将来を示すものであっただろう。1929年春、28歳のときには「資本論」を読み、プロレタリア文学に傾倒する。しかし残された時間はわずか3年しかなかった。梶井基次郎が病によって生を切断されていなければ……。そんなことを思いながら変貌はなはだしい河原町を歩いた。


「ライスワーク」からの転換

2006-12-30 09:48:54 | 思索

 12月29日(金)見通しが甘かった。東京駅で新幹線の指定券を買おうとしたらすでに満席。予定していた午前10時33分の「のぞみ083号」に乗るには自由席しかない。3号車の入り口に行けば溢れんばかりの人だ。2号車に進むが変わりなし。なんとか1号車の入り口附近に入り込む。そうして立ったままで新横浜、名古屋を通過して京都に到着した。立ちっぱなしで京都まで来たのは、まだ子供が小さいころ以来だから、約20年ぶりのこと。座席に座っていたならば、きっと居眠りをしていただろう。それもかなわぬことで効果があったのは大岡昇平さんの『野火』を熟読することができたからだ。三分の一ほど読んだところで京都に着いた。戦場の孤独のなかで田村一等兵はどのように生きていくのだろうか。京都駅構内にある「がんこ」で高校時代の例年の同窓会。今年の参加者は10人。食事が終わったところでゴソゴソと薬を出すもの4人。笑ってしまった。高校時代に仲がよかった者たちで年末に集まって食事をするようになって20数年。話題も年々健康や家族のことになっていった。かつては仕事の話が大きな比重を占めていたのに、いまではほとんどそんな会話は出てこない。午後4時前に店を出て三条まで歩き、イノダコーヒー本店で雑談。近くのイタリアンレストランに河岸を変えてワインでピザやパスタを食べた。かつては昼からはじまり、深夜まで続くこともあったが、さすがにそうもいかなくなった。四条烏丸まで歩き解散。印象的だったことは何人かの父親の戦争経験を聞いたことだった。シベリヤ抑留、ベトナム戦線への派遣など、わたしたちの世代の親たちは大変な苦労をしてきたのだ。そんな話を聞いていて心に浮かんだのは、鶴見俊輔さんと対談した医師の徳永進さんの発言であった。

 生きているときは、日常の暮らしより理想や主義主張、仕事、金もうけが大事だが、死を前にすると価値が逆転する。ありふれた日常の暮らしが生命の根本だとわかる。今の社会は主義主張の方が肥大化しすぎているから、修正する必要がありますね。

View  鳥取市内でホスピスケアのある「野の花診療所」を運営している徳永さんの実感から結晶した言葉だ(朝日新聞、12月27日付)。「死を前にする」ことなく「ありふれた日常の暮らし」を大事にするようになれば、もっと人間らしい「生命の根本」を慈しむことができることだろう。無制限の規制緩和が進行させているのは、「生命の根本」を破壊することだ。そんな現実のなかで「主義主張」「仕事」「金もうけ」から距離を置くことはできるのだろうか。生活の基本を維持するためにはなかなか難しいことだろう。しかしよく読めば徳永さんの主張は「日常の暮らし」のなかで肥大化した「主義主張」の比重を減らすことを勧めているのだ。それは「仕事」や「金もうけ」ではない「もう一つ」の生活を大事にすることなのかもしれない。仕事の話をほとんどしなかった同窓会を振り返れば、案外そこにヒントがあるような気がする。身体の健康を維持することを前提として、自分が本当にやりたいことの比重を生活全体のなかで少しでも増やしていくことではないか。「ライフワーク」と「ライスワーク」のバランスを崩さないことだ。


「未熟の晩鐘」を聴く

2006-12-29 08:21:23 | 酔談

 12月28日(木)小椋桂さんのフルオリジナルアルバム「未熟の晩鐘」を聴きながら書いている。タイトルとなった曲をはじめ「もうと言い、まだと思う」「自由と孤独」「落日、燃え」などなど、この世代らしいなと聴き入ってしまう。「命の立ち位置 いつも坂道/もうと思えば 下り坂 まだと思えば 上り坂」。こんな言葉を聴きつつ、もう勢いのよさはいい、1年などは軽々と終っていくものだなどと思う。これまでになかった感情だ。本来こんなものなのだろう。2006年の「ライスワーク」が終った。鍼の打ち納めで竹村文近さんの鍼灸院へ。帰りに新宿を歩きながら過去の風景が鮮明に思い出された。ここはかつてコの字型をしたカウンターだけの店で、中高年の女性だけが働いていた。そう、クサヤを食べたのははじめてだったな。いつも最後に食べていたおにぎりが懐しい。最高齢の女性は70歳を超えていた。まだ20代だったからとても感動したものだ。カウンターの向こうに座る客の顔を観察しながら飲むのが楽しみだった。戦後の闇市時代から不法占拠していた台湾料理屋で食べる炒め物、腸詰め、紹興酒が美味しかった。そんな怪しげな店も多いのがこの街だった。わずか30年前のこと。あの風景が絶えて久しい。規制緩和のアメリカン。外資が流入し、わけもわからずバブルがやってきた。実態経済を差し置いて空虚な世界が膨れ上がり、そのおこぼれが庶民にも落ちてきた。ちょうどフリーランスになったとき、能天気に先のことなど考えずに新宿で飲んでいたころ。午前0時前後にタクシーに乗ろうとしても長蛇の列で、もう一軒行こうという時代があった。深夜まで飲むのは普通のことだったなあ。

061228_18400003  この日本は土着を壊すことでいまの虚飾社会に到っている。人間臭い店を追い出し、大規模店を中心地だけでなく郊外まで建設することで、歴史や風土をぶち壊してきた。市場原理主義のもとで規制緩和が行われると、そこに残るのは原色で彩られた汚い街だけだ。もう戻ることはないのだろう。だからここでとどめなければならないなと本気で思うのだ。新宿の変貌を振り返り、そんなことを感じながら丸の内線に乗った。銀座で降りて山野楽器。小椋さんのアルバムを買う。ふらりと日航ホテル地下の豚しゃぶ店へ。上杉隆さんたちが主催するマスコミ忘年会に出席する。いちおう幹事のなかに名前を連ねているのだが、それは形式。新聞、雑誌、テレビなど、ほぼあらゆるメディアから50人ほどが集まっての楽しい時間だった。午後10時に退席してすぐ近くにある「はら田」へ。静かな空間で焼酎を飲む。常連で同い年のMさんがやってきたので、たわいない、しかし興味ある雑談。いろいろと語った一日だったが、政治の世界では安倍総理の後任は誰かが本気で語られはじめたようだ。来年はじめに会うことになる某政治家などもその気になっているようだ。参議院選挙前の総理交代ということは囁かれてはいてもそこまではないだろう。再登板へと高まる世論を待っている小泉前首相周辺はいるのだろう。ひどい政治になってしまったものだ。


『日本戦没学生の思想』を読む

2006-12-28 08:41:08 | 立腹

 12月27日(水)午後5時から練馬文化センターの小ホールへ行く。二女が参加するライブが催されるからだ。仕事を終えたならジムで2006年最後の泳ぎをして、どこかで飲むつもりだった。ところが「来れない?」と数日前にいうので会場に向った。何でも半年前から準備していたという。地元の中学校を卒業した同級生を中心に30人ほどで企画したそうだ。内容はダンスミュージックにロックなど。開演時にはまばらだったが、途中からは約600人の定員がほぼ埋まっていた。入場料に500円を取っての催しだから大したものだ。技術的にはうまい者もいればそうでない者もいる。それでも精一杯に自己表現している姿は見ていて気持ちがいい。おそらく同窓会のような気持ちで集まったのだろう。それでもこういう企画を考え、実現することの実行力に驚いた。ある男子がマイクを持って「激動の10代でした」と何度も語った。えっ、激動の10代?と思ってしまったが、20歳までの人生の距離ならば、そこでの経験を「激動」ということに不思議はない。それが実感なのだから偽りはない。射程を伸ばして30代、50代になれば「どうでもなかった」と思えることでも、実時間にあれば「大変」なことは多々あることだ。年輪を重ね成熟することは、そうした苦労を語らないことなのかもしれない。若さっていいなと清々しい気持ちで自宅に戻りテレビをつけたところで不快になった。経験も実感もないのに親子のきずなを語っている人物が眼に入ったからだ。まるで詐欺だな。他者に語ることが許される条件はそれが経験に裏打ちされた実感を持っているかどうかだ。ある年齢に達すれば、羞恥心を持っているかどうかは決定的だ。自戒したい。

 法政大学名誉教授の岡田裕之さんから大原社会問題研究所雑誌(2007年1月号)に掲載される『日本戦没学生の思想(上) 「新版・きけわだつみのこえ」の致命的欠陥について』(「下」は2月号に掲載される)の抜刷が送られてきた。現在も書店で販売されている『きけ わだつみのこえ』(岩波文庫)に致命的欠陥があることを実証的に明らかにした労作だ。戦没学生が遺した文章とは異なる内容が訂正もされないのだから大問題である。岡田さんによれば、「改竄、歪曲、捏造を含む内容上重要な変更を要するものは戦没学生7名」で「細目にわたる遺稿との不一致の訂正を要する箇所は数え方によるが約170箇所」もあるという。今度公表された論考は、その根拠を具体的に示している。「改竄、歪曲、捏造」まであると言われているのに、日本戦没学生記念会(わだつみ会)はなぜ真摯に対応しようとしないのだろうか。岡田さんは2000年に「わだつみ会」の理事長に就任。会として二冊の『きけ わだつみのこえ』の編集・校訂作業を進めることが決まる。ところが「新版・第一集」の作業については棚上げというよりも妨害されてきたという。今年4月の総会では「新版・第一集」の校訂をすることが決定されたが、5月の理事会ではこの問題を解決しようとする岡田さんが常任理事から外される。この推移を外部から見ていると、現在の執行部は、資料の私物化だけではなく、真実をも覆い隠しているとしか言いようがない。その集団的真意はどこにあるのだろうか。そこには歪んだプライドが隠されているように思われてならない。


統一教会に激震の予感あり

2006-12-27 09:31:34 | カルト

 12月26日(火)朝から冷たい冬雨。試写会をやめて茗荷谷クリニック。定期的な血液検査などをする。2006年もあと5日。今年はここまでいちども熱を出していない。いささか風邪気味の時期はあっても発熱しなかったというのは、とても珍しいことだ。小学校を振り返れば、布団のなかで伏せている姿を思い出す。父親が仕事帰りに買ってきてくれた「冒険王」などの雑誌が楽しみだった。それからの生活でも年に何度かは熱を出していたはずだから、この年は不思議な一年だった。これまで12年も泳いでいても熱を出していたから運動効果という問題ではないのだろう。漢方だ、整体だ、鍼だなどと健康に注意してきた結果なのだと勝手に判断する。銀座経由で新橋の日本テレビ。「ザ・ワイド」のスタッフルームで民主党議員と厚生労働省に電話取材。タクシーで国会図書館へ。単行本『X』のための資料を探し、コピー。まともに考えれば必要のないことなのだが、お世話になった飲食店を歩こうと、まず「はら田」に電話をしたが満席。神保町に出て昨夜入れなかった「家康」。カメラマン矢口、カメラマン角守などと雑談。「お勘定」と言えば、ありがたいことに角守が支払ってくれていた。きっと酔っぱらっていたのだろう。さらにバーへと誘われたが明日の仕事のことを思い断ることにした。年末に京都へ向うときに何を読むかをずっと考えていた。吉村昭さんは、新幹線のなかでは何も読まず、ただ空を眺めていたという。青空でも雨空でもずっと見つめていたのだそうだ。何事かを思索していたのだろう。凡人は何かをしていなければ落ち着かない。いろいろと迷っていたが、吉村さんが「ホンモノ」の作家として高く評価している大岡昇平さんの『野火』(新潮文庫)と単行本『X』のための資料だけに決めた。吉村さんは城山さんとの対談で「作家としては、『俘虜記』と『野火』の二冊が残るだけで幸せだろうな」と語っている。

061226_16590001  統一教会と闘った飯干晃一さんのことを「週刊文春」でコメントした。その統一教会が2007年から大変なことになりそうだ。文鮮明教祖の四男である国進(クッチン)が日本の責任者として乗り込んでくることが内定したからだ。これまでの劉正玉総会長時代には日本からの献金が減少してきた。ここで人事変更をすればさらに献金が減るとの意見も韓国の指導部のなかではあったが、もはや限界にきたという。問題は国進が大学で経営学を学んでいたため、日本統一教会からの献金で企業買収や資産運用などを行おうとしていることだ。そうした動きに反発する幹部もいる現状にあって、日本の統一教会人事も若返るようだ。そもそも劉総会長の娘が国進の妻であった。ところが国進は子供が出来ないことを理由に離婚し、別の女性と再婚した。統一教会の教えからはありえない行為である。人事といえば、統一教会の友好組織である国際勝共連合および世界平和連合中央本部の事務総長に国時昭彦氏(元国際勝共連合組織局長、元世界日報編集局長)が就任する。国時氏の娘は文教祖の孫と結婚しているから、日本の組織も教祖の系列で固められていく。2007年は文鮮明教祖を入国させるべく、国会議員への働きかけが強化されるようだ。


藤原紀香ようやく会見へ

2006-12-26 08:27:50 | 酒場

 12月25日(月)26日午後11時から藤原紀香さんの結婚記者会見が都内で行われる。なぜ深夜かといえば藤原さんと陣内さんがいっしょに会見できるのはこの時間しかなかったからだ。制約があるとはいえようやく「自由」に発言ができることに他人事ながらホットする。芸能界には高価な背広を着たヤクザまがいの論理がまかり通っていることをこんどの騒動で再認識した。ジムで泳ぎ神保町。日ごろ「回遊」している酒場に「最後」の顔出しをする予定だった。ところが「家康」は満席。「北京亭」で食事をしつつ年末の挨拶。「ジェイティップルバー」に寄って年内で退職する「マッキー」に記念品としてカランダッシュの限定ボールペンをプレゼント。バーボンのソーダ割りを一杯飲んで店を出る。何でも来年にはしばらくニューヨークへ行き、日本に戻ってからは昼間の仕事に就くのだという。父親はわたしと同い年だというから、まるで娘の船出を見送るようなものだ。この年齢にしかできないことがある。そして心に浮かんだのは吉村昭さんの『回り灯籠』に収録された城山三郎さんとの対談だ。城山さんはかつてオーストラリアの大学から2年間講師として来てくれないかと頼まれた。ところがオーストラリアにいる親友からこんなのんびりしたところに来るとダメになると言われ、断念したのだという。城山さんはいまから思えばどこか海外で一年か二年暮らせばよかったと発言している。何でもいい。若いころに異文化体験をすることは人生の遺産になることだろう。わたしにとってもベトナム全土の見聞が、いまでも「第三の視点」になっていると自覚することがしばしばある。同年代のお二人の対談は「生き方の流儀」を知るうえでとても楽しく、役に立つ。多くの人に勧めたい。今年吉村昭さんを失ったことは文学界にとって事件でもあった。

 この吉村さんの著作を読んでから「事実感」という言葉が気になっている。歴史物を書くとき、すでに証言者はいない。そこに自伝が残っていても、思い違いが記述されていることも少なくない。ほかの資料などで確認すれば、誤りが発見されることがあるのだ。「本人」でさえ記憶が混濁することは誰でもが経験することでもあるだろう。しかし、そうした吟味をしたうえで最後に「事実」として採用して書くかどうか。それを吉村さんは「事実感」と表現している。これはもはや筆者の蓄積に基づく判断力と歴史への責任という範疇だ。リアリティと言い換えてもいいだろう。もうひとつ気になっているのは「仕込みどき」という言葉だ。吉村さんは、証言をふくむ調査を必要とする小説には仕込みどきがあり、それを逸すれば小説は生れないというのだ。『戦艦武蔵』を書いて7年で戦史小説をやめたのは、証言者の死が加速度的になっていたからだという。単行本『X』の時代は約90年前から60年前が中心になる。もっとも話を聞きたい複数の人物がすでにいないことはこの1年でわかったこと。時間がない。


「がんばってから死にたいな」

2006-12-25 08:03:22 | 思索

 12月24日(日)朝7時半に起きて雑務。1時間ほどで再び横になり、志ん生の落語「火炎太鼓」などを聴いていた。何と1956年の録音なのだ。うとうとと1時間。午後からも雑務に実務。夕方になり郵便物を出しに駅前まで歩いた。あのころは遠い昔と思い出すのは、この時期の奮闘だ。子供たちそれぞれのクリスマスプレゼントを確保すべく、あちこちのデパートなどを回ったものだった。とくに大変だったのは「たまごっち」だったなあ。いまではすぐに買えるから「流行」とはまさに流れゆくもの。売れ残りそうなクリスマスケーキを夜遅くまで売っている売り子の出す声が、何とも寂しげに聞こえ、この1年もまた暮れゆくと思うのだった。最近では買い物に出る必要がないので、あの声を聞かなくて済む。北海道の増毛で寿司屋を営む菅原豊さんに電話をした。札幌の名店を閉めた菅原さんは濃昼(ごきびる)に移った。鰊(にしん)漁に使っていた家屋を改装して季節の魚料理を出す「濃昼茶屋」を開店したのはいつだったか。ところがそこを閉めてこんどは故郷に戻り「スガ宗」という寿司屋を開店した。人口は約5700人。「いやー、客のこない日もありますよ」というものの、声にはハリがある。どんな店ですかと聞いたところ「明治時代のようにカウンターのない店です」という。カウンターがある寿司屋は昭和の時代、とくに終戦後になって増えてきたのだという。札幌でも寿司職人に教える立場にあった菅原さんは、繁華街を離れ、ひなびた土地へと戻っていった。これからの年齢が「人生の秋」ならば、漫然と今日が明日へと続くだけの生活ではなく、どこかで何かを決断をすることが誰にも必要になってくるのだろう。会社員は外部からの強制力によって人生の変更を余儀なくされる。その大変さはあるものの、計画的に生活を設計することができる場合も多いはずだ。いま背後にあるデッキから流れている中島みゆきの「重き荷を負いて」にはこんな歌詞がある。

 
掌の傷口を握るのが精一杯
 愛をひろう余裕もなく 泥をひろう余裕もなく
 ひび割れた唇は噛みしめるのが精一杯
 過去を語る余裕もなく 明日を語る余裕もなく
 がんばってから死にたいな がんばってから死にたいな


061219_14390001  それでも「這い上がれ這い上がれと 自分を呼びながら」と続いていく。「這い上がる」という言葉を聞いてあるシーンを思い出した。時代は90年代前半で場所は新橋駅前ビルの地下だ。ある酒場で酔っぱらった経済ライターが独り言のようにこう語った。「おれはロッククライミングのようにしてでも這い上がるんだ」。まだフリーランスになったばかりで、この言葉に驚いたものだった。「這い上がった」ところに何があるんだろうかと。ここまで書いて机上に置いたままの『ダ・ヴィンチ』1月号に掲載された中島みゆきのインタビューを読んだ。中島はこの詞を書くとき「あまりにもストレートなので、ある種の恥じらいはありましたね」と語ったうえで、「わかりやすい言葉とは、わかりにくいものを連れてくるのだと、改めて言葉というものの奥深さを知りました」と続けている。「ストレートかつシンプルゆえに、言葉の裏側に抽象的なものが貼りつくこともある」からだという。結論が一つしかない読み物より、想像力をかき立てるものに秘奥の息づくことがある。中島はカラーテレビよりモノクロテレビの方が、深い色彩を感じさせることがあるとも語っている。あの経済ライターの語っていた「這い上がる」とは、いったいどんなイメージで語られていたのだろうか。2006年最後の週がはじまった。


藤原紀香「結婚」報道の真相(3)

2006-12-24 09:14:54 | 芸能

 12月23日(土)夕方の新宿。月に一回のことだが、いつものように喫茶「凡」の階段を降りる。ところが満席。カウンターに一席空いていたが、両隣の客を見てそこに座るのをためらい、店を出る。年末「最後」の週末といっていい。酒場も昨夜がピークの賑わいだったようだ。来週は30日。やはり人出は今日、明日が山場なのだろう。「思い出横丁」を歩く。午後4時半。ほとんどの店がまだあくびをするようなのどかな空気だ。ところが「ささもと」は満席。紀伊国屋書店へ行って二階のCD売り場で「五代目古今亭志ん生名演大全集」を2枚買う。全48巻で志ん生のすべてが聴ける。最近は眠る前に小沢昭一さんの「手鎖心中」「唐来参和」を聴いていたが、そろそろ落語にしようと思ったのだ。代々木に流れ「馬鹿牛」。焼酎で牛刺しなどを食べる。「飲兵衛」ライターで名を馳せる吉田類さんの話になり昨夜は新橋の「浜んこら」で酒を飲んだことを思い出す。店を出る前に雑誌に紹介されたときの筆者を見れば、森まゆみさんであり吉田類さんだった。「何だ飲み友だちじゃないか」と酒飲みの行路が同じであることに納得した。恥ずかしい話だが天草は長崎県だと思っていた。天草には何度か足を運んだことがあるが、長崎から船に乗ったのでそう思い込んでいたのだった。熊本出身の女将が商う店で、ご主人が素潜りで得た魚介類を送ってきて、それを調理する。タモリさんが還暦祝いを奥様とこの小さな店で過ごした気持ちはよくわかる。吉田さんがふと顔を出す「馬鹿牛」では店主の息子、笑之介をかまったらケラケラと笑っていた。「何か面白い話はありませんか」と言われ、個人的にはどうでもいい話を教えた。ある芸能関係者との雑談だ。

061223_16450001 「もう2006年も終るけど、藤原紀香の結婚はどうなったの?」「ネットに書いていた紀香本人による日記も12月12日で更新されていない」「そこでは『本音はここに』というタイトルで結婚報道を最初に報じた『女性セブン』を批判していた」「そんなことを書くから結婚相手の陣内智則の女性問題が暴れてしまう」「でも問題はそんな現象的なところにはない。とても明らかにできない問題がある」「それをギリギリで表現すればどういうこと?」「まず週刊誌が紀香、陣内の婚約、結婚を報道した。その過程で紀香を育ててきた芸能プロダクションの大物が怒ったんだ」「それは曖昧だけど報じられている」「女性誌に報道されたあとで紀香がお世話になった人に報告した。そのとき12月10日に結納を交わし、2007年2月25日に挙式することがすでに決まっていると伝えられた。相談もなかったから許せなかったんだろうね。そこで二人が挨拶に行けばよかったのに行かなかった」「いまでは二人の所属事務所の打ち合わせも行われていないというんでしょう」「紀香が挨拶したいと言っても、育ててきた人物の怒りは収まらず会わない状態が続いている」「マスコミでは結納が報じられ、来年の挙式も明らかになった。藤原紀香ほどの芸能人がそれでも記者会見さえできない異常事態が続いている。本当はもっと深い情念がありそうだね」


「キッザニア東京」探訪記

2006-12-23 09:11:33 | 仰天

 12月22日(金)朝の満員電車に乗っていると、ひとつ後ろのドアのあたりで怒声が聞こえた。「…だろうが」「…しろ」正確には聞こえないけれど、男が一方的に叫んでいる。ギスギスした神経がこちらまで届いてきて不快になった。最近中高年のトラブルが電車内で増えているそうだが、何十年も満員電車に揺られ、しかもモラルの低下が進むなかでは、さもありなんと思う。豊洲駅で降りて「ザ・ワイド」スタッフと合流。ララポート豊洲に入り、いま話題のキッザニア東京を訪問する。開館は10時なのに、すでに1時間前から長蛇の列。母親に連れられた子供たちの姿がそこにはあった。入場できるのは2歳から15歳まで。入り口には本物のジェット機の機体が見える。アメリカから持ってきたそうだ。キッザニア東京は子供が主人公の街。入場するときにANAのカウンターでトラベラーズチェックが渡される。その通貨単位はキッゾという。街には実際の企業の店舗がある。50キッゾを持って三井住友銀行に行くと、そこには実際にカウンターがあり、制服を着た女性がいる。トラベラーズチェックを渡すと、紙幣に交換してくれ、財布をくれる。依頼すると、この街で使用できるカードを作ってくれる。ATMに入れると残高がわかり、引き出すこともできるようになっているのだ。街には信号もある。サイレンが聞こえたので眼をやると、消防車がやってきた。運転手の横には消防士の制服を着た幼児が乗っていて、マイクで通行人に語りかけている。後部座席には数人の子供たちが乗っていた。やがてある区画の建物から火炎が見えた。子供たちはその前で降りて、実際に放水する。

061222_16120001  テレビ局があるので入ってみた。スタジオがあり、放送機材も実物が置いてある。キャスター、リポーター、カメラマンなど、子供たちが役割を分担して、実際に放送が行われる。新聞社、デパート、裁判所、宅配便などなど、こんな仕事が44種類も経験できる。警察署では制服を着た子供たちが、街に出て、聞き込みを行い、事件を捜査する。最後には指紋の検出まで行っている。病院での開腹手術などは医学生が研修に使っている機器が使われるからリアリティにあふれている。モスバーガーでは市販されているハンバーガーを実際に指導されて、最初から作る。子供たちは仕事体験を終えると、それぞれ8キッゾの賃金を受け取ることになっている。子供たちはそれを貯めて売店でソフトクリームや記念品を買う。仕事体験をする子供たちの顔を見ていると真剣そのもの。親はこの街では子供たちの自主性に任せるから、カメラやビデオで撮影する者が多い。子供たちは入り口で腕に付けるタグで管理されているから、たとえば5人で入場すれば、全員が揃わなければ退場できない。安全管理も最先端だ。親のなかには休憩室で読書する者もいれば、ショッピングモールへ買い物に出かける者もいる。疑似的職業体験が面白いのだろう。オープンしてまだ3か月なのに、7回も来た子供がいるそうだ。任意に聞いてみたが、2度、3度来たという子供たちも珍しくはなかった。入場するにはネットなどで予約するが、それがなかなか難しいほどの人気だ。2008年には関西にもオープンする予定だという。7年前にメキシコシティで誕生したキッザニア。この発想がすごい。取材の様子は「有田が行く」総集編として28日の「ザ・ワイド」で放送される予定だ。


江戸・吉原の「さくらん」

2006-12-22 07:01:17 | 映画

 12月21日(木)「ザ・ワイド」が終ったところで書籍封筒を受け取った。差出人を見ると「晋遊舎」とある。聞いたことのない出版社だ。その場で封を開けて本を手にしていささか驚いた。タイトルは『ルワンダ大虐殺』。副題は「世界で一番悲しい光景を見た青年の手記」とある。家族43人が眼前で虐殺されるなか、片腕を切断され、片目をえぐられたものの、かろうじて生き延びたレヴェリアン・ルラングァの体験記だ。装幀に使用された本人の顔には静かな悲しみがうかがえる。2007年1月27日からは映画「ルワンダの涙」も公開される。その試写を見て愕然としたのは、1994年にこの地球上で起きた20世紀最後の大虐殺をほとんど知ることがなかったことであった。100日間で100万人のツチ族がフツ族によって虐殺されたのだ。しかも虐殺者たちは、いまでも罪に問われることなくルワンダで普通に暮らしている。無知は犯罪的でもある。ましてや恐ろしいのは、自分がもしその現場にいればどうしていただろうかと考えることでもあった。映画の主人公は理屈をつけて逃走した。数多くの「レヴェリアン・ルラングァ」たちを残したままである。おそらくわたしもまた小理屈を作り上げて卑劣にも海外へ逃げたことだろう。あるいは激情にかられて自滅するかもしれない。こうした問題はアウシュビッツにもつながる。筆者がプリーモ・レイヴィの言葉を引用しているのは、当事者として事件の歴史的同質性を理解したからにほかならない。

 この真っ暗な深淵を探索することは、容易でもなければ気持ちのいいことでもない。しかし、誰かがやらなくてはいけないのではないだろうか……

061221_17070002  アウシュビッツが歴史の特殊性から生じたものだとしても、条件が異なるとはいえ、再び大虐殺が起きたことをどうとらえるのか。歴史は同じようには繰り返さないが、時代と環境を変えて再発する。ルワンダの悲劇はそのことを教えている。未来から「いま」の日本を見つめれば何が進行しているのだろうか。テレビの討論番組や「論壇」もどきを見ていても、そこで横行するのは個人的思い込みや感想レベルを絶対化した声高な議論だ。理性的に見えても、その表皮をめくれば、厚ぼったい「正義」の情念があるだけだ。相対化という作業がないから、怖いものなしの厚顔無恥。人間とは悲劇を経験しなければ目が覚めないのかもしれない。少なくとも知ることだけは最低限必要なことだ。「ルワンダの涙」とともに『ルワンダ大虐殺』が広く普及されることを期待したい。六本木のアスミック・エースで「さくらん」の試写を見る。安野モヨコの原作で、タナダユキが脚本を書き、蜷川実花が監督した。主演は土屋アンナで音楽は椎名林檎。江戸?吉原を舞台にした粋な女と男の豪華絢爛な物語。女性の視点で吉原を生きる花魁を描けばこうなるのだろう。最後のシーンは「自由」への解放感が横溢していてとても印象的だ。土屋アンナの存在感は並大抵のものではない。木村佳乃がここまで演じるのかという驚きもあった。男女の機微を描いた作品には、江戸を描きつつ、現代の若者にも届くメッセージがある。