有田芳生の『酔醒漫録』

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市川森一さんの「去りゆく記」

2012-03-07 10:22:59 | 人物

3月7日(水)市川森一さんが亡くなる直前に書いた「去りゆく記」(クリックすれば拡大)を読む。何という澄んだ文章だろう。最後にお会いしたときの写真とともに紹介する。このときすでに病気を自覚されていたのだろう。何という明るさ、何という強さ!

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藤原新也さんとのトークショーを終えて

2012-02-06 17:42:40 | 人物

 2月6日(月)新宿の紀伊国屋ホールでのトークショーが終わった。『何が来たって驚かねえ! 大震災の現場を歩く』の定価が1000円なのに、トークショーは1500円。大震災直後ならいざ知らず、1年近くが経過して「東日本複合震災と日本人」のテーマでどれほどの聴衆が来てくれるだろうか。そんな不安を抱えながら当日を迎えた。結果的には京都からの来場もふくめ約200人の参加があった。数日前に藤原新也さんのご自宅で1時間ほど打ち合わせをした。それぞれの問題関心を話し合ったものの、対話の流れを詳細に決めたわけでもなかった。それでも私はいちおうテーマに沿って話が流れるようにメモを用意して臨んだ。しかし本番ではまったく予想外の方向に話は進んでいった。ツイッターや震災報道のあり方などは、まったくアドリブ的に出てきたテーマだった。藤原さんが被災地で撮影した動画を奄美大島の朝崎郁恵さんの歌とともに流したのは圧巻だった。藤原さんとの打ち合わせでは、最初と最後に流すつもりだった。ところが3時半までのトークショーが4時近くに延びたため、会場関係者から何度も「時間だから締めろ」との合図があった。5分ばかりの映像だ。強引に流すべきだったと反省している。終了後のサイン会が終わってもまだ時間的ゆとりはあったのだから、残念でならない。一夜が過ぎても聴衆の立場に立つべきだったと悔いている。藤原新也さんの会員制ブログではいずれ見ることができるように準備中と聞いた。

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市川森一さんの想い出ー果たせなかった大震災の映画化

2011-12-12 09:45:55 | 人物
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12月12日(月)市川森一さんが肺がんで亡くなった。数々の想い出がある。脚本家の世界では数々の成果がありながら、いっさい権威ぶらず、いつも笑顔であることが印象的だった。最後にお会いしたのは7月13日。神保町のワインバー「ヴォン ヴィバン」で開いた「上機嫌クラブ」でのことである。この「クラブ」は私と歌手のクミコさんが酒を飲もうとなり、ならば知人を呼ぼうというところからはじまった。音楽評論家の湯川れい子さん、酒場詩人の吉田類さん、そして市川さんにも声をかけ、「ザ・ワイド」リポーターだった杉本純子さんや私の知人など10人ほどで楽しい時間を過ごした。あの夜も市川さんはご機嫌だった。「あの夜も」というのは、酒場ではいつも楽しかったからだ。ちなみに「上機嫌クラブ」と名付けたのはクミコさんだ。市川さんと出会ったのは「ザ・ワイド」に出演するようになってからだから約17年のおつき合いだった。ご自身の専門分野や周辺のコメントは群を抜いていた。正義感が強く、オウム事件や拉致問題では厳しい論調で語っていた。ただし真っすぐなものだから「危ない」発言に向かうこともしばしば。そんなとき私は市川さんの顔をじっと見つめることにしていた。それに気づくと市川さんはいつも軟着陸。CMになると「アリタちゃんが見つめていたから危ないなと思ったよ。ハッ、ハッ、ハッ」と笑うのだった。市川さんの出演は木曜日。楽しみだったのはプロポリス飴を配ってくれることだった。いつも健康には注意している市川さんだったのだ。10月の「上機嫌クラブ」にお誘いしたが、体調が悪いというので参加されなかった。入院が10月末だから、そのときから自覚されていたのだろうか。7月13日にワイングラスを手にして語っていた夢はかなえられないままに終わってしまった。大震災の映画化だ。宮城県南三陸町の防災無線で最後まで避難を呼びかけて亡くなった遠藤未希さん(24歳)を主人公にした作品だ。「来年は映画を作りたいんですよ。主題歌はクミコさんに歌ってもらおうと思っていてね」。市川さんは遠藤さんが経験した勇気の発露と恐怖との闘いを讃えたかったのだ。市川さんらしいと思う。09年の衆議院選挙に出たときには最終盤で上板橋駅、板橋駅でマイクを持って訴えてくれた。ご自身の作品にも触れてのユニークな応援演説だった。落選したときには湯川れい子さんと激励会を開いてくれた。あのときは和服だった。17年間のおつき合いの印象はいつも明るいということ。長崎でトークショーをごいっしょできるはずだった。それもかなわない。東京では20日に通夜、21日に葬儀だが、16日に長崎で行われる通夜に行くことにした。市川さんの出身地であり、最後まで愛した街だからである。お会いしてホッとする先輩がまた一人いなくなってしまった。


談志師匠が語っていた「談志が死んだ」という回文

2011-11-27 10:44:01 | 人物

 11月27日(日)届けられた「AERA」を読む。古典芸能エッセイストの守田梢路さんが「時代と格闘した戦士」と題した立川談志さんの追悼文を書いている。弟子たちもマスコミと同時に逝去を知らされたそうだ。談志さんはシャレで「談志が死んだ」と言っていたことも紹介されている。回文でうしろから読んでも「だんしがしんだ」。昨日はNHK-BSで2時間のドキュメンタリーがあった。談志師匠71歳のときだから、4年前の映像だ。弟子の昇進試験の現場は凄まじい緊張感だった。前座から二段目に昇進したのは5人のうち1人。廃業が1人と厳しい世界を垣間見た。驚いたのはある会場で「富久」を演じているときだ。物語が流れていくなかで「そこで面白い?」とひとこと語る。聴衆はおそらく誰も気づかない。高座を降りた談志さんは不機嫌だ。シンミリした場面でどうして笑えるのかという不満だった。「大衆は」という言葉で不満が語られる。気が塞いでいく素顔いくつもの場面で記録されていた。「ガンバレ!ガンバレ!談志」と口にすることもしばしばだ。このシーンを見ていて井上ひさしさんのことが思い出された。一日に何度も「万事において、ひるむな」とつぶやくことがあると書いていたからだ。「天才」と評価されても老いは襲ってくる。セリフが出ないこともある。それでも聴衆は談志さんの落語を待っている。闘わなければならないと自己を奮起させるしかないのだ。夕方になり大山を歩き、ある新聞社の記者と会い、池袋「おもろ」に顔を出した。談志さんが「小ゑん」のころ小さん師匠に連れられて来たことがあるという。あまりに生意気だったので女将が「もう来なくていいよ」と言うと怒って出ていったという。談志さんらしいエピソードだ。井上ひさしさんも75歳で亡くなった。談志さんの著作もこれから続々と出るだろう。しかし落語家としての肉声が二度と聞けないかと思えば哀しい。1月18日に紀伊国屋ホールで聞いた短い話が最後になってしまった。


瀬戸内寂聴ー藤原新也対談で心穏やかに

2011-11-24 18:10:13 | 人物

 11月24日(木)法務委員会で質問。最近はなかなか『酔醒漫録』を書くゆとりがない。しかし「今日は書いておかなければ」と思った。なぜなら昨日参加した藤原新也さんの「書行無常展」で藤原さんと瀬戸内寂聴さんの対談を聞いたからだ。「3・11」や国会(政治)の有り様にギスギスしていた気持ちがスーッと消えていき、穏やかになった。客席から観客(藤原さんの有料ブログ「CATWALK」読者)のお顔を見ていても、みなさん穏やかな笑顔をたたえていた。午後5時からの対談に間に合わせるべく末広町駅で下車。開場前に案内されるとちょうど藤原さんが寂聴さんを案内していた。藤原さんの熱い握手。寂聴さんとの再会。オウム事件当時、「週刊朝日」で対談していただくため、京都にでかけたことも懐かしい。そのときの内容(「私の庵を訪れた『さまよえる信者』」)は『有田芳生の対決!オウム真理教』(朝日新聞社。いまでは古書でしか入手できない)に収録されている。おふたりの対談は藤原さんの写真と書に囲まれた場所ではじまった。この異空間での対話が特別の空気を醸し出していたこともあるだろう。そこに「顔を見ているだけでいいから」と藤原さんが何度も強調した寂聴さんがいる。心穏やかになった理由は、メモしたこんな言葉に込められている。「90歳になったけれど、あきらめない」「言霊(ことだま)って本当にあるのよ。こうなりたいって思うのは絶対に大切」「いつでも楽しいの。なぜなら楽しいことを考えているから」「現地へ行ってそこに立てば大地が語ってくれる」。この最後の言葉は被災地に行くことの大切さを口にしたときのものだ。寂聴さんにすれば被災地の人々は「代受苦」(だいじゅく)と理解すべきだという。私たちの代わりに「苦」を引き受けてくれている。そのためにも現地に行くべきだ。「行って話を聞くだけでも喜んでくれるのよ」。喜ばれた被災地入りだが、原発被害を受けた飯舘村だけは違ったという。「みなさんの顔が厳しかった」という。何かを語る雰囲気ではなかった。そこで寂聴さんはみなさんの身体をマッサージしていった。3時間も黙々と。そのうちに「何か言いたいことがあれば」と水を向けると政治に対する批判を口にするようになった。寂聴さんは気仙沼で「若き日に薔薇(ばら)を摘め」と色紙に書いたそうだ。若い日にはトゲある美しい薔薇をいくつも摘んでいれば、きっとそれが生きてくるというのだ。「若き日に薔薇(ばら)を摘め」。失敗を恐れるなということである。対談が終わり帰っていく聴衆を藤原さんはひとりひとりと握手して送っていた。私には「こんど書を教えなければなりませんね」とひとこと。会場をあとにして昼食をとっていなかったので銀座「ささもと」。いつまでも心穏やかなのであった。いまもなお。「書行無常展」は27日まで。


【資料】森達也『A3』の講談社ノンフィクション賞受賞に対する抗議書

2011-09-03 22:23:27 | 人物

           抗  議  書

2011年9月1日
青  沼  陽 一 郎
滝  本   太  郎
藤  田   庄  市
(50音順)
株 式 会 社 講 談 社  御中
代表取締役社長野間省伸  殿


               記
貴社にあって、「A3」森達也著(集英社インターナショナル刊、2010年11月)に平成23年の講談社ノンフィクション賞を授与するとの報に接し、ここに、次のとおり抗議する。

1 オウム真理教およびその事件の重大性と特質 
いわゆるオウム真理教とその事件は、1995年発覚した戦後日本における最大かつ一連の刑事事件として、果ては化学兵器まで使った無差別大量殺人事件として、また教祖の麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚と実行犯ら弟子の関係の異様さから大きな関心を集め、その裁判も様々な分析ともども、日本国中のみならず世界的な関心事となっている。
それら内容は、過去の事件にとどまらず将来にわたって類似の事件を再来させてはならないという観点から、今後とも関心が持たれ続けるべき事柄である。

2 「弟子の暴走」論に帰着する「A3」
  書籍「A3」は、オウム真理教を内側から描いたという映画「A」「A2」の監督である森氏が、月刊PLAYBOYに連載していた記事をもとに集英社インターナショナルから平成22年11月30日発行された。
  「A3」は、松本死刑囚にかかる刑事裁判を軸として様々な記述をしているところ、地下鉄サリン事件を中心として、ほぼ確信しているものとして「弟子の暴走論」を結論づけている(485ページ)。すなわち
       *******
  連載初期の頃、一審弁護団が唱えた「弟子の暴走」論について、僕は(直観的な)同意を表明した。二年半にわたる連載を終える今、僕のこの直観は、ほぼ確信に変わっている。ただし弟子たちの暴走を促したのは麻原だ。勝手に暴走したわけではない、そして麻原が弟子たちの暴走を促した背景には、弟子たちによって際限なく注入され続けた情報によって駆動した危機意識があった
          *******
というのである。

3 司法の認定や実行犯の供述と真反対の「弟子の暴走」論
「弟子が暴走」したとすることは、松本死刑囚は刑事法上も無罪であって、「首謀者ではない」という主張に帰結する。森氏にあってどのような文学的な修辞を施そうと、そう把握される。森氏自身も、「A3」の94ページで、「弁護側は、起訴された13の事件すべての背景に『弟子の暴走』が働いているとして、被告の全面無罪を主張した。」と無罪主張に帰結することを認めている。
しかし、松本死刑囚が被告となっていた一連の事件に関しては、最高裁判所での判決を含めすべて松本死刑囚の指示があると認定し、また松本死刑囚を「首謀者」と認定している。例えば、土谷正実死刑囚に対する最高裁判所2011年2月15日判決では「被告人の本件各犯行が,松本死刑囚らの指示に従って行われたものであること,被告人は,サリンやVXを使用する殺人等の実行行為に直接関わっておらず,また,これらを用いた個々の犯行の具体的計画を知る立場にもなかったこと,被告人には前科もなく,犯罪的性向を有していたわけではないことなど,所論指摘の諸事情を十分考慮しても」として松本死刑囚の指示を認めている。
さらに、「首謀者」の裏付けとなる「グルと弟子」といった異様な服従の関係は、弟子らについて鑑定をしてきた精神科医・社会心理学者らによっても認定され、また弟子らの判決文にも多く示されている。
新実智光死刑囚に対する東京高等裁判所2006年3月15日判決でも「いずれも教祖の指示があって,被告人はこれに従って実行したものである。被告人がどう言おうと,客観的には,他の弟子らと同様に被告人は,松本被告によって,その帰依の心を最大限利用されて,悪質な実行行為をさせられたというべきものである。」としている。さらに例えば、林泰男死刑囚への2000年6月29日東京地裁判決には「麻原および教団とのかかわりを捨象して、被告人を一個の人間としてみるかぎり、被告人の資質ないし人間性それ自体を取り立てて非難することはできない。およそ師を誤るほど不幸なことはなく、この意味において、被告人もまた、不幸かつ不運であったと言える」とある。死刑判決の中にかような文脈があるのは、まさに異例中の異例である。
松本死刑囚が首謀者であり、その指示に基づく犯罪だと言うことは、傍聴し続けた多くの識者の分析からも指摘されてきたことであり、何よりも実行犯である弟子らが明白に証言してきていることである。松本死刑囚の東京地方裁判所の判決公判を傍聴しただけの森氏にあっては、直接には見聞しなかったことであろうが、様々な記録から極めて容易に分かることである。なお、松本死刑囚の刑事弁護人らが被告人の有利になすべく様々な主張をなすは、職務上当然のことである。
  一連の事件の首謀者が誰であるのかは、司法のみならず、歴史上オウム真理教と事件を正しく把握しようとするとき極めて重要な論点であり、その点に誤りがあっては、事柄の本質をまったく違えてしまうという外はない。
しかるに、「A3」の「弟子の暴走」論は、オウム真理教事件にあって松本死刑囚の指示とか「首謀者である」という結論をつまりは否定しているのである。なおさら十分な検証が必要となる。

4 講談社が「A3」にノンフィクション賞を授与することの意味
書籍は、単に一般に出版されるだけでならば、所詮一筆者の論述にすぎないとして格別の影響力を持たないことがある。森氏の月刊PLAYBOYでの連載も書籍「A3」にある「弟子の暴走」論は、司法判断をあまりに無視したものであったこともあろう、社会的な影響力をほとんど与えなかった。
しかし、権威を備えておられる貴「講談社ノンフィクション賞」を受賞したとなると、後世に残り得るものとして、多くの人が関心を持つことになる。そしてその権威からして、後世に、その内容にわたっても相当の信頼性があるものと思われる蓋然性がある。
まして、事件発覚から16年を経過している今日、若者はオウム真理教の実態もオウム裁判の情報も得ていないことが多い。その状況で、かかる受賞までしている書籍だということとなれば、影響は看過しがたいものがある。
オウム真理教にあっても、有力な出版社である御社から賞まで与えられて「弟子の暴走」論を支持しているとか「教祖の無罪」を支持しているとして、信者の勧誘・維持のために有力な材料として使えることとなる。事実、後継団体の一つであるアレフは未だ残存しており、オウム事件は他からの陰謀事件であった、教祖は無実だが「殉教」されてしまうなどとも言っているところ、その維持・拡大の助力となるのである。
貴社が、「A3」にノンフィクション賞を授与することは、このような重大な意味を持つ。

5 刑事事件・裁判と「ノンフィクション」について。
講談社ノンフィクション賞は、受賞基準といったものが事前に決まっていないようであるが、ノンフィクションは、「創作をまじえない、事実そのままのもの。記録文学、紀行文、記録映画など」であるから(講談社『現代実用辞典』第二版2010年2月1日第一七版)、作品である以上創造的な再現描写や主観部分が入ることはあり得ても、事実を歪曲させてまで個人の見解を披露している創作については「ノンフィクション」に値しないことも、また明らかであろう。
刑事事件や裁判に関する事柄の著作でも、優秀な「ノンフィクション」が成立することはもちろんある。戦後日本の作品群にあっても、いくつもの裁判、特に確定判決についてさえも判決の信用性、説得力のなさや証拠との矛盾、またさまざまな証拠の別の見方、新たな証拠の呈示・説明をするなどしたノンフィクションも多くあり、中には後に再審無罪となった事案にかかるものまであるのである。そのような水準に達していると思われる「ノンフィクション」の場合、推薦されるべき優秀に作品として、賞に値することも十分にあろう。
したがって、「A3」特にその中の弟子の暴走論についても、ノンフィクションとして十分な報告、分析をふまえてなされていて質が高ければ、多くの確定判決とは矛盾するが、1つの視点、考え方を示したものとして、授賞に値することも、論理上はあり得なくはない。
しかし、「A3」がこれに達していないこと明らかである。

6 教祖の指示など確定判決を検討・記述せず、考察していない「A3」
  すなわち森氏は、1995年3月20日朝の地下鉄サリン事件につき、「弟子の暴走論」と矛盾する多くの事実について、確定している2004年2月27日の東京地裁判決文に示されている松本死刑囚の関与さえ記述せず、また考慮もしていない。
そもそも森氏は、531ページにものぼる「A3」の中で、27ページの1カ所のみにてこの判決文のごくごく一部を紹介したにとどまるのであって、実に驚くべきことである。
松本死刑囚の地下鉄サリン事件における指示は、3月18日未明のいわゆるリムジン謀議を別としても、具体的には、別紙1のとおりである。
  その他の事件についても、まったく同様である。森氏は、起訴されている事件だけでも1989年2月の田口修二君殺人事件以降、実に多くの事件があって、それらには松本死刑囚の指示などあると具体的に認定されているのに、これをほとんど書いておらず、「弟子の暴走論」の矛盾点を覆い隠している。具体的には別紙2のとおりである。
  これらは様々な反対尋問をも経て認定されている松本死刑囚の指示であり、遺体の状況、サリン副生成物の検出その他の多くの客観的な証拠とも合致していることからこそ、判決で認定されている。
それは多くの判決書、傍聴記を検討すれば勿論得られる情報であり、インターネットでも検索できるものである。もとより、森氏が唯一傍聴したと自認している公判は、この判決文が朗読された東京地裁での判決公判であって、知らないとは言えない筈であろう。それをも確認、分析そして記述しないままに、どうしてノンフィクションと言えるのであろうか。
森氏は、地下鉄サリン事件の動機についてミスリードもしているが、これが原因かとも思われる。すなわち、「A3」の冒頭8ページには、地下鉄サリン事件の犯行動機について「そもそもが『自己が絶対者として君臨する専制国家を建設するため』と『警察による強制捜査の目をくらますため』なる理由が共存することからして、論理として破綻している。もしも麻原を被告とする法廷が普通に機能さえしていれば、この程度の矛盾や破綻は整理されていたはずだ」と指摘する。しかし、前記判決は、地下鉄サリン事件の動機をこう認定している。「被告人は,国家権力を倒しオウム国家を建設して自らその王となり日本を支配するという野望を抱き,多数の自動小銃の製造や首都を壊滅するために散布するサリンを大量に生成するサリンプラントの早期完成を企てるなど教団の武装化を推進してきたものであるが,このような被告人が最も恐れるのは,教団の武装化が完成する前に,教団施設に対する強制捜査が行われることであり,(中略)現実味を増した教団施設に対する大規模な強制捜査を阻止することが教団を存続発展させ,被告人の野望を果たす上で最重要かつ緊急の課題であったことは容易に推認される」と。森氏は、地下鉄サリン事件の動機について、判決文を示さないままに、明白なミスリードをしているのである。
これらが、森氏の意図的なものでないとするならば、取材の意欲と取材力、何より真摯な態度が圧倒的に不足していることを示している。それにもかかわらず、「A3」では「弟子の暴走」論を実に安易に結論づけられているのである。
いわば先入見を記述しているに過ぎないこのような「A3」が、いったいどうしてノンフィクションとして推薦できるのだろうか。

7 実行犯と面談・手紙のやり取りを先入見で利用している「A3」
森氏は、面談した被告人らの話を軽視し過ぎている。松本死刑囚のもとで極悪な事件を起こした被告人らは、死刑が確定せんとする状況下で森氏との面談に協力し、また文書を送るなどしてきた。
その中では、多く森氏の「弟子の暴走」論を遠慮がちに諫めているところ、その一部を紹介しつつも自らの「判断」を率直に顧みることなく、つまりは「弟子の暴走論」に終始させている。
  これら面談内容や供述や文章は、『最終解脱者』『教祖麻原彰晃』の桎梏を離れた獄中で死刑判決を受けた立場になっていた者らが、喉から血を吐くようにして述べているものであり、ノンフィクションであらんとするとき、あだや疎かにしてはならない情報である。疎かにするはたとえ重大な罪を犯した者らだとはいえ、人の命に対する冒涜である。
  もとより、それぞれの視点とアプローチ、さらには「先入見」が異なろうことは当然にあるが、ノンフィクションとする以上、真実に肉薄しようとしなければならないはずである。ノンフィクションは「フィクション」ではないし、矛盾した多くの情報までも捨てて、自分の先入見を披露する場でもないのである。
そんな、「A3」が、どうして優秀なノンフィクション作品として、推薦できるのだろうか。

8 松本死刑囚の陳述についても記述、分析していない「A3」
森氏は、実は、松本死刑囚の弁論更新時になされた罪状認否、すなわち1997年4月24日の意見陳述のほとんどを記述せず、また分析していない。一部記述はあるが、精神状態の説明として利用するために記述しているだけである。すなわち陳述の最終部分の記述のみ示し(19-24ページ)、森氏はこれを引き合いにして、松本死刑囚の精神状態が普通ではないと主張しているのである。
しかし、松本死刑囚は、当日、実に驚異的な記憶力にて起訴された順番に個別具体的に認否しているのである。後に裁判の早期の進行のために起訴が取り下げられた事件を含めて認否している概要は、別紙3のとおりである。
これらの陳述の部分も、文献やインターネットで容易に入手できるものである。しかし森氏は、これらをなんら記述していない。本人の陳述自体からして「弟子の暴走論」が成り立つのかをつまりは分析しようとしておらず、先入見を記載しているだけなのである。「弟子の暴走」だったのかどうかにつき、この松本死刑囚本人の陳述を考察しないなどあり得ない態度である。
このような手法の上で「弟子の暴走」論に帰着させる「A3」の、いったいどこがノンフィクションなのであろうか。


9 切り貼りと恣意的な引用、信用性のないものまでの引用
「A3」が優秀なノンフィクションとは到底考えられず、むしろ事実を歪曲するまでしている作品であるのは、なにも「弟子の暴走」論にいたる記述だけではない。
「A3」は、多くの文献、証言、手紙その他を引用して記述されており、切り貼りでできた作品といった趣でもある。その合間の文章は森氏本人の見解のように記載されてあるが、裁判で判明しまた報道もされている事柄を初めて分かったような書き方をしている所が少なくなく、面喰ってしまう状況でもある。
たとえば、「A3」を通じて問題に挙げられている地下鉄サリン事件直前のサリン原料のジフロ保管に関連する事柄は、降幡賢一著「オウム法廷」に強調して記述してあるところである。また、中川被告の「巫病」指摘とそのエピソードは、藤田庄市氏が雑誌『世界』2004年4月号で初めて指摘し、同著「宗教事件の内側」(岩波書店、2008年10月)にて記載してあるが、藤田氏文献はなんら参考文献ともされていないのであり、不可思議である。
さらに、「A3」には、恣意的また信用性のないものまで引用しているという大きな問題がある。また明確な事実誤認をしたままの記述も多く記述されている。
  恣意的な引用としては、刑法上の責任能力と刑事訴訟法上の訴訟能力の混同において如実である。森氏は、青沼陽一郎氏の「思考停止しているのは世界ではなく貴方の方だ」(諸君!、2005年3月号)を68ページで引用している。青沼氏は、「諸君!」の中では、森氏が「世界が完全に思考停止する前に」という書籍の中で法廷での松本死刑囚の様子を根拠に「逮捕されてから現在まで、彼は一度も精神鑑定を受けていない。通常なら逮捕直後に実施されたはずだ」としていることから、森氏が刑法上無罪となり得る責任能力の鑑定を求めていると理解し、これを批判している。この青沼氏の批判の文脈は正しいものである。しかし、森氏は、自らが傍聴したのは逮捕から9年近く経った2004年2月27日の判決公判にのみであり、たったそれだけの状況から鑑定が主張できるのは刑事責任能力ではなく、言うべきは訴訟能力だけだとようやく刑事司法の基本に気付いたことから、自身の過ちには口を拭ってしまい、青沼氏こそ両者の能力について混同していると批判しているのである。さらに「A3」の242ページでは、森氏は「少なくとも逮捕直後の彼は訴訟の当事者としては問題ない精神状態を保っていたと思う」と記載し、自らの言説を巧妙に変更している。ノンフィクションを志すものとして誠意ある態度ではない。そのような文章がどうして「ノンフィクション賞」に値するのだろうか。
  作家・司馬遼太郎氏の発言の引用についても同様である。森氏は、司馬氏が雑誌の対談(「週刊文春」1995年8月17日・24日合併号)において、「僕は、オウムを宗教集団として見るよりも、まず犯罪集団として見なければいけないと思っています。とにかく史上希なる人殺し集団である」と発言したことを引用しつつ、「『人を殺すならばそれは宗教でない』とのレトリックはあまりに浅い。」と断言している(「A3」124-125ページ)。だが、司馬氏はこの雑誌の対談の中で、オウムは人を殺すから宗教集団でない、などとは一切発言していない。森氏は、人の発言を歪曲してもしくは言ってもいないことをでっち上げて読者を欺いているという外はない。この司馬氏との対談の相手は、選者のひとりでもある立花隆氏であった。立花氏がこの点をどう考えたか判然としないが、甚だ遺憾である。
信用性のない情報の引用としては、「一橋文哉」なる正体不明者であり証拠関係が何ら示されていない文章の引用さえも見られる。その他、旧上九一色村にある慰霊塔に「日本脱カルト協会」の銘があるなどと、実際に行けば間違うはずもないのに記述しているといった細かいところもあるが(482-3ページ)、これ以上は避ける。

10 松本死刑囚の視力障害につき、水俣病説の無責任すぎる流布
森氏は、藤原新也著「黄泉の犬」に記載ある松本死刑囚の水俣病による視力障害説を数カ所にわたって引用しているところ(112ページ、363ページ以降)これは少し検討すれば誤りであることが判明するのに、そのまま引用しているのであって極めて重大な問題である。未だ呻吟している方も多い水俣病患者への偏見をも生みかねないからである。1995年以降しばらくの間、松本死刑囚の被差別出身説や親の朝鮮半島出身説などまで流布させた者がありそれが未だ一部で言われているが、これと類似して大きく誤解を招くものである。
ところで、水俣病により視力障害の状況は、次の通りとされている。「水俣病診断総論」(2006年11月医師高岡滋水)による。
「水俣病では、メチル水銀による大脳の視覚野が障害されることによって、これらの視覚障害が現れる。とりわけ視野狭窄に関しては、視野の周辺部分から欠損する求心性視野狭窄が特徴的である。この求心性視野狭窄は、水俣病以外では極めてまれにしか見られない症候であり、八代海沿岸住民にこれが認められる場合は、水俣病と診断して間違いない。視野沈下等についても、水俣病との関係を考えなければならない。視野を調べる方法は、医師が向かい合って調べる対面法と、フェルスター視野計やゴールドマン視野計などの器械を用いる方法がある。視野障害をきたす水俣病以外の疾患で頻度の高いものとして緑内障や網膜色素変性症がある。いずれも放置すると進行することが多く、眼科的に診断が容易であるため、水俣病との鑑別に問題となることは少ないが、緑内障による視野障害は、通常、求心性ではなく不均一な分布を示すことが多い。網膜色素変性症は進行性で失明にいたることも少なくなく、鑑別は容易である。」
  一方、松本死刑囚の視力障害は先天性緑内障または網膜色素変性症と見られている。それは、上記のとおり水俣病による視力障害とは著しく異なって鑑別も容易である。もとより松本死刑囚についてはその他の水俣病、慢性水俣病にかかる症状は一切報告されていない。それにもかかわらず、藤原新也氏は、松本死刑囚の実家を訪れて水俣市が近いことに気がつき(地理を知る者なら行かずとも分かる情報であるが)、またその兄の話を聞いただけで、水俣病である蓋然性があるような記述をしている。
それを森氏は検討することなく引用し、更にハマグリのエピソードを記載して強調し(410ページ)、松本死刑囚の国家に対する恨み「ルサンチマン」を滔々と述べている。
しかも、森氏は、「A3」139ぺージにあるとおり、関係者から網膜色素変性症だろうと推測を聞いているのに、このように視力障害についての水俣病説を延々と記述し、無責任に流布しているのである。
  事実を追及しようとするものであるならば、これが水俣病の症状としてあり得るのかを確認すべきこと、実に当然である。森氏は、ノンフィクションとして刊行する者として基本的な「真実に達しようとする姿勢」に欠けていると言うべきではなかろうか。
  恣意的な引用、信用性のない情報の分析なき引用、単純すぎる取材間違い、他の論者の論を歪曲して記載するような「A3」のどこにノンフィションとして優秀な点が見られるのであろうか。

11 映画「A」についての基本的な情報を提供していないこと。
森氏は、書籍「A3」に至ることとして、各所で映画「A」「A2」の撮影制作関係の事柄を記述している。これは「A3」を著わす経緯、森氏がオウム真理教を考察する際に重要な事柄であり、記述するは当然であろう。読者にとっても、映画「A」を踏まえての書籍「A3」の理解、または書籍「A3」を読んだ後に映画「A」の視聴を得る方らにあっても、重要な経緯であろう。
しかし、その中には、いくつかの重大な事柄が記述されないままであり、読者らに大いに誤解を招いていると言うべきである。
  すなわち、映画「A」は、オウム真理教側にあって、その撮影に全面的に協力したのみならず、信者に「映画A推進委員会」まで作らせその上映普及を支えられたものである。当時そのメンバーであった信者が後に脱会し、森氏がそれを知らなかった筈はないとまで述べているが、この指摘について森氏は一切答えず、本書「A3」でも示していない。
  そもそも森氏は、「A3」の原点とする映画「A」は、テレビ局から排斥され番組放送ができなくなったものを自主映画にした、と主張するが、森氏の自著の中でも制作中止を命じた人物が二転三転しており、その具体的な体験の真偽が問われる事態でもある。
また、書籍「A3」の374ページに掲載されている「オウム真理教家族の会」からの内容証明郵便に記載の「A」君について「一生背負い込む責任」など言っても実際上できないものであるとの指摘には、森氏自身は未だに何ら答えていない。「A」君は案の上、未だオウム真理教の1つ「アレフ」の幹部として活動し続けているのである。
  そのほか、佐川一政氏が、雑誌月刊サイゾー2002年11月号81ページ「凶悪犯罪に群がる進歩的文化人の本音とは」にて、森氏が「「(A)君は、撮影の初っ端に、オウムの信仰についてとうとうと延べ、その信仰のためには人を殺めても構わないという発言までしたんです。これでは最初から観客が引いてしまう。自分はあくまで(A)青年を、普通の若者として撮りたかったんです。そこで、この(A)君の一連の『弁明』をすべてカットしてしまいました。案の定、上映の折、『オウムの信者も僕らと同じ普通の青年だったんですね』とある観客に言われ、とても嬉しかった」としているところ、これが事実であれば映画「A」自体に、現実の信者の姿として重要な本質が抜けているものという外はない。その釈明もないままに、「A3」にあって映画「A」の諸々を記載するのは、信者の姿を再び恣意的に扱ったものと言う外はない。
  これらの立場の説明がないことや状況は、その1つだけをとっても、ドキュメンタリー作品として避けられないとして許容される範疇を超えており、これを作る立場として許されない態度であって、意図的な誤導だと言う外はない。そして、そのような瑕疵について説明もしていない書籍「A3」が、ノンフィクションとして優秀である筈もない。
 
12 選者に中沢新一氏が含まれていることについて。
選者の中に中沢新一氏がおられたことは、今年度の「A3」への授賞につついて疑義をもたせ、同時に貴ノンフィクション賞の価値を減じるものである。
  中沢氏が著わした「虹の階梯」(平河出版社 1981年7月、 中央公論社文庫1993年5月)などは、オウム真理教の教義の成立、「グルと弟子の関係」の確定に多大な寄与をした。書籍の影響のみならず、中沢氏にあっては、坂本事件直後の1989年11月という教団にとって危機的状況の中で、真っ先に松本死刑囚と対談し、同人を宗教家としてほめたたえるなどしている(週刊誌SPA1989年12月6日号「狂気がなければ宗教じゃない」)。これが教団の危機を救ってさらなる拡大に寄与したことは明らかである。外部の者、知識人としてもっともオウム真理教の拡大に寄与したのが中沢新一氏である。
中沢氏が1995年当時、そうは批判されていなかったのは、「週刊プレイボーイ」1995年5月30日号にて、揺れ動く信者の心をつかみつつ、心からの脱会にはならずとも組織から離れるための文章を寄稿し、また1995年当時、「学問の独立」と矛盾しても被疑者の調べ方法について工夫をしていた東京地方検察庁に協力していたことによる。
しかし、中沢氏は、現在に至るまで結局は自らの言説を総括せず、「サリン事件の被害者が、一万人、あるいは二万人だったら別の意味合いが出てくるのではないか」などと脱会したばかりの元出家者に言ってきた存在である。その中沢氏らにより、森氏の「A3」がノンフィクション賞として選出され、貴社から授与されようとしている。
いったい、これがまともな「ノンフィクション賞」の授与であろうか。

13 結論
  森氏は「麻原彰晃という圧倒的な質量だ。」(88ページ、37ページ)と表現もする。オウム真理教教祖である松本死刑囚に幻惑されてしまったのであろうか。それを心配する。
「A3」はいかなる背景からか、判決公判でのたった1回の傍聴での印象から始まって、情報も分析も足りないままあるいは矛盾点も隠したまま、「弟子の暴走論」を記述しているなど、「ノンフィクション」としては多くの過ちを犯している。
  よって、貴社にあって、「A3」に2011年のノンフィクション賞を授与することにつき、ここに強く抗議する。
以 上


言葉が拡散する時代にあってーー辺見庸と石原吉郎

2010-12-20 08:58:16 | 人物

 12月20日(月)「変わらないですね」。講演が終わったあとの控室。再会した辺見庸さんからこう言われた。昨日は日比谷公会堂で行われた「死刑のない社会へ 地球が決めて20年」という集会に出席。その冒頭が辺見さんの「国家と人間のからだーー私が死刑をこばむ理由」という講演だった。その主張すべてに賛同したわけではない。しかし辺見さんの言動は自分の立つ位置をいつも確認させてくれる。ベトナムのハノイでいっしょに飲んでいたときとは異次元にあるようだ。講演というよりもまるで独白。言葉が拡散するのではなく、一人ひとりの参加者に届いていく語り方。石原吉郎を引用しつつ、死刑を執行した千葉景子元法相の言説を批判していく。〈千葉さんがいまさら考察にあたいする人かどうかわからない。「アムネスティ議員連盟」事務局長をつとめ「死刑廃止を推進する議員連盟」にぞくしていたこともある千葉さんはかつて、杉浦正健法相が「信念として死刑執行命令書にはサインしない」と話したあとにコメントをとりさげたことにかみつき、死刑に疑問をもつなら死刑制度廃止の姿勢をつらぬくべきではなかったか、と国会で威勢よくなじったことがある。杉浦氏は発言を撤回しはしたけれど、黙って信念をつらぬき、法務官僚がつよくもとめる死刑執行命令書へのサインをこばみつづけた。他方、千葉さんはさんざ死刑廃止をいいながら翻然として執行命令書に署名し、おそらくなんにちも前から姿見と相談してその日のための服とアクセサリーをえらび、絞首刑に立ち会った。これは思想や転向といった上等な観念領域の問題だろうか。それとも政治家や権力者や政治運動家によくある「自己倒錯」という精神病理のひとつとしてかんがえるべきことがらなのか〉(「共同通信」配信)……。言葉=思想への自己責任。「信念」を語り、表現することへの重み。石原吉郎はこう書いている。「ことばがさいげんもなく拡散し、かき消されて行くまっただなかで、私たちがなおことばをもちつづけようと思うなら、もはや沈黙によるしかない」(「失語と沈黙のあいだ」、『石原吉郎詩文集』講談社文芸文庫)。中山千夏さんにご挨拶して午後7時半まで続くという会場をあとにした。山野楽器でマウリツィオ・ポリーニ演奏のJ・Sバッハ「平均率クラヴィーア曲集」を入手。壹眞珈琲店で井上ひさしさんの新刊『この人から受け継ぐもの』(岩波書店)を読む。


「時の流れに身をまかせ~パート2~」ーーエンレイが歌うテレサ・テン

2010-12-18 10:52:28 | 人物

 12月18日(土)エンレイがいい。テレビではサントリー烏龍茶のCMを中国語で歌っている。彼女にはじめて会ったのはテレサ・テンが亡くなって10年。台湾で行われた墓参りのときだった。第一印象は小柄な人。その後日本で何度か歌を聴いたこともある。お会いしていても、どうしてもテレサと比較してしまうので、悪いなと思ったものだ。そのエンレイがすばらしい歌唱力を聴かせてくれた。「テレサの羽」「時の流れに身をまかせ~パート2~」というCDだ。三木たかしさんが作曲し荒木とよひささんが作詞した「時の流れに身をまかせ」。テレサ・テンが歌い、200万枚も売れた名曲の続きをエンレイが歌う。荒木さんは「時の流れに身をまかせ」の続編を書いてくれたのだ。テレサが生きていたら歌っていた曲でもある。エンレイの歌唱もすばらしい。曲が同じだから不思議な感覚にとらわれる。「あなたのことは 忘れはしない/今のわたしは 倖せだけど/若いあの頃 想いだすたび/心の隅が 切なくなるの/時の流れに身をまかせ」……。


オウム事件秘話ーー追悼・須崎哲哉

2010-09-01 09:44:27 | 人物

  8月31日(火)埼玉にある須崎哲哉さんの自宅を訪れた。須崎さんが65歳で亡くなったのは6月24日午後4時45分。警視庁幹部から連絡があったのは翌日のことだった。「こんなときですから、お知らせだけしておきます」というのは参院選挙が公示されたときだったからだ。須崎さんと最後に電話で話したのは3月後半だった。警察庁長官銃撃事件で意見を伺ったのが最後になってしまった。オウム事件当時、ときどき帝国ホテル地下にある迷路のような喫茶店で情報交換をしただけではない。オウムの危うい行動が予想されたときにはーー私はまったく知らなかったがーー1日にのべ50人が身辺を警護してくれた。多いときには10人がフォーメーションを組んで周辺を監視したという。あの慌ただしい当時でも酒場に行くことはあった。そのときにも客を装って警護が行われたそうだ。近くの席ではなく、少し離れたところで、周囲の客に怪しいものがいないかを監視していたそうだ。それを知ったのは事件から10年後のことだ。「子どもを誘拐する」といったオウム関係者の情報が流れたときには、私が住んでいた公団から通学路を調べ、学校とも協議し秘密裏に対策を取ってくれた。「これは注意した方がいい」と判断したときには、家族への身辺警護まで行っていた。どうしてそこまでしたかといえば、私がオウム真理教と厳しく対峙していたからだ。もし身辺に何かがあれば、「対決の構図」が崩れるという判断だったと聞いた。須崎さんは、そして同席したNさんも家庭では仕事の話をいっさいしなかったという。「私は何も知りませんでした」とは奥様の言葉だ。退職してからは農作業や趣味の油絵にも取り組み、私の選挙をいつも気にしていたという須崎さん。私は霊前に新しい名刺を置き、笑顔の遺影を眼に焼き付けてからご自宅を後にした。


近藤道生さんの「お別れ会」に出席

2010-07-29 09:42:12 | 人物

 7月28日(水)ホテルオークラ東京の「平安の間」へ。近藤道生さんの「お別れ会」に出席。近藤さんは大正9年生まれで、6月30日に90歳で亡くなった。昭和17年に大蔵省在籍のまま、海軍主計大尉に。戦後は国税庁長官から博報堂社長などを歴任、最高顧問を務めた。近藤さんからお話を伺ったのは昨年のこと。いずれ書くことになる単行本『X』の主人公である木村久夫さんとゲーテの「ファウスト」についてインド洋のカーニコバル島で語り合っている。お元気だった近藤さんの凛々しい遺影に献花。