有田芳生の『酔醒漫録』

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【資料】共産党練馬区議が除名された

2012-01-28 13:13:02 | 政談

 1月28日(土)電車の中で知人の共産党支持者に声をかけられた。練馬区に住んでいる研究者だ。自衛隊を憲法上どのように位置付けるのか。憲法学者の小林直樹さんが主張したように「違憲合法論」から出発すべきではないかといった会話をした。そんな流れで練馬区議会が話題になった。そのおり、昨年の区議会議員選挙で6期目の当選を果たした松村良一区議が共産党から除名になったと伝えると、「知らなかった」と驚いていた。熱心な共産党支持者も知らないことにいささか驚いた。たしか除名の事実さえ「赤旗」でも掲載されていないのではないか。かつてツイッターで触れたところ豊島区や板橋区の共産党関係者からも問い合わせがあったので、練馬地区委員会が作成した文書をここに紹介する。

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田口八重子生存情報の意味

2010-07-26 09:52:49 | 政談

 7月25日(日)26日から参議院議員としての任期がはじまる。拉致問題でのアプローチもこれまでとは異なる立場を求められている。田口八重子さんの生存情報が北朝鮮筋から伝えられている。平壌の万景台区域にある統一戦線部が管理しているアパートに韓国人拉致被害者と暮らしているという。この情報源が北朝鮮関係者だと公表したのは韓国の「拉北者家族会」代表だ。ハノイで行われたASEAN地域フォーラムに出席した北朝鮮代表団のひとりが金賢姫元死刑囚について「国と家族を裏切った者」と語ったことは、大失言かと思ったが、もしかしたら戦略的意味合いがあるのかもしれない。大韓航空機爆破事件は「でっちあげ」で、金賢姫など北朝鮮にはいないと主張し続けてきたのに、ここにきて田口さんの生存情報を流すことは、「6か国協議」への復帰表明とともに日本との対話を促すメッセージだからだ。情報の信憑性は9月になればわかるだろう。北朝鮮では大使もふくめた大きな人事移動が行われるからだ。ASEAN地域フォーラムでの金関連発言が「失言」なら、団長である朴宜春外務大臣の責任も問われる。


金賢姫の存在を北朝鮮がはじめて認めた

2010-07-24 10:43:28 | 政談

 7月23日(金)韓国政府関係者に会った。金賢姫元死刑囚来日について韓国では「どうして日本政府は国賓待遇したのか」という疑問がいちばん大きいという。全体主義国家で工作員に抜擢されたことに同情の余地はあるものの、元テロリストの滞在に前首相の別荘を使ったことの違和感は日本にあるだけではない。移動時のリムジンは中国の胡錦涛国家主席来日時に使ったものだ。中井洽拉致問題担当相が招請を進めてきたが、当初は5月の予定だったという。金賢姫元死刑囚について、北朝鮮はこれまで存在そのものを否定あるいは韓国生まれなどとしてきた。事件そのものも「でっちあげ」と言ってきた。ところがハノイで行われているASEAN地域フォーラムに出席した北朝鮮代表団のひとりが「国と家族を裏切った者」と語ってしまった。先日の不安定研究会でもある出席者が、「金賢姫は韓国生まれじゃないか」「(遺体が発見されていないので)事件はなかったのでは」と言い古されてきた疑問を語った。北朝鮮当局が(失言とはいえ)事件そのものをはじめて認めたことは歴史的出来事だ。暑い中を白金にある土屋鞄に行ってきた。「ダレス鞄」(アメリカのダレス国務長官が使っていた鞄がモデル)を見たが、「いいな」と思ったものの、購入を保留。広尾まで歩いて喫茶店で水分補給。暑い日々が続く。


噂のキャッチボール

2010-07-23 09:15:38 | 政談

 100722_141401 7月22日(木)金賢姫元死刑囚に2000万円から3000万円が支払われると報じたのは「日刊ゲンダイ」だった。その根拠を調べると韓国在住日本人ジャーナリストのようだ。「韓国でそう言われている」というのだ。ところが日本でその噂が報じられると、韓国の「中央日報」が報じた。「日本の日刊ゲンダイによると」と書いて根拠とした。高世仁さんに伝えると北朝鮮問題ではよくあることだという。噂のキャッチボールが「事実」として確定していく。チャーター機も2000万円説から1000万円説もあったが、実際は後者だと朝日新聞は報じた。金賢姫元死刑囚招請の詳細について調査する方法を国会関係者に聞くことにした。それにしても「大山鳴動してネズミ一匹」も出なかった金元死刑囚招請騒ぎ。政府はどんな想定をしていたのだろうか。パフォーマンスと揶揄されても仕方がない。「週刊女性」の取材ではじめて議員会館の自室(416号)に入った。狭い会館が広くなったことへの批判がある。しかし現実は国際標準になったということではないか。これまでの会館には何度も入ったことがあるが、資料であふれ返っている部屋が多かった。仕事場として狭すぎたと思う。しかしこんどの会館で違和感を覚えるのは、机、椅子、ソファー、本棚までが完備されていることだ。衆参すべての部屋が画一化。まるで官給弁当のようだ。トッピングさえできない。最初に持ち込んだのは弘兼憲史さんに描いてもらった似顔絵。自分らしい部屋に改装するつもりだ。表参道のジムで泳ぎ、あれこれと電話連絡。弘兼さんとも久しぶりに会話。


金賢姫元死刑囚招請への疑問

2010-07-22 10:40:14 | 政談

 7月21日(水)神保町の松島清光堂で新しい名刺を依頼して、「伊峡」で野菜炒め定食。新橋の共同通信で不安定研究会。山崎博康・共同通信論説委員から「スパイ団摘発は『近代化』へのエール?」という話を聞く。ロシアが資源輸出依存経済からハイテク立国へと向うことができるのか、アメリカとの「リセット」(09年7月の首脳会談)がいかに進むのかなどが気になるところだった。会議では私が拉致問題に取り組むために関係者が何人か集まってくれた。意外な、しかし的確なアドバイスを聞いたうえで金賢姫元死刑囚について話し合った。鳩山由紀夫前首相の別荘で被害者家族と会うことには、警備上の問題というだけでは済まない。北朝鮮にすれば金元死刑囚は「暗殺対象」だ。それを守るために民主党前代表の別荘を使うことは、北朝鮮に「挑発的」なメッセージを伝えることになったのではないか。情報では22日には軽井沢から帝国ホテルに移動するとも聞いている。ならばそもそも滞在先は最初から都内でもよかったはずだ。さらに問題は「機密情報」がメディアに漏れていること。招請に1億円かかり、金元死刑囚には3000万円の謝礼が払われるとも報じられた(4月の黄元朝鮮労働党書記来日のときは2000万円の予算)。機密費はこうしたときに使われるのだろう。真偽のほどはわからない。しかし韓国紙でもすでに「事実」として報じられている。問題は金賢姫元死刑囚を日本に呼んで何をするかだ。被害者家族に会うことは必要だ。しかし横田滋、早紀江さんは「新しいことはなかった」と語っている。横田めぐみさんの消息についても一度だけ会ったことなどはすでに明らかになっていることであり、「特定失踪者」についても「見たような気がする」だけでは、意味がない。国会に呼んで詳しく話を聞くことなどをしなければ、いったい何のための訪日なのかとあえて言わざるをえない。飲食店経営に失敗し、韓国でも孤立している金元死刑囚がいくら「真摯」であっても、ビジネスとして拉致問題が扱われるならば、まったくもって本末転倒だ。


民主党「大敗」の責任はどこにあるのか  2

2010-07-16 10:30:31 | 政談

 7月15日(木)近所の知人から「おめでとうございます」と挨拶されたあとでこう言われた。「投票方法がわからなくて、『民主党 有田芳生』って書きました」。比例区は個人名か政党名を書くからこれが有効票にカウントされたかどうか気になった。民主党本部のNさんに調べてもらうと有効票だという。ホッとした。「民主党 ヤワラちゃん」でも有効だという。市ケ谷で岩見隆夫さんのインタビューを受ける。最初にこんな会話。「取材が殺到したでしょう」「いえ全然」「おかしいねえ」。岩見さんは私がトップ当選したことを政治の現状のなかで肯定的に意味付けたいという。知名度があるだけの「有名人」を候補者とする時代は終わったというのが岩見さんの見解だ。17日の毎日新聞「近聞遠見」に掲載される。選挙の敗因については消費税問題の唐突な提案とともに政治家への有権者の「眼」についても語った。鳩山由紀夫前首相は「政治とカネ」や普天間飛行場移転問題で発言がブレにブレた。菅直人首相もまた税制改革発言で言い訳をせざるをえなかった。政治家にとって一貫性はもっとも大切な資質ではないか。マックス・ヴェーバーのいう「情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業」(『職業としての政治』、岩波文庫版)だ。政権交代後の変化を有権者は大いに期待した。日本が「かつてない民族的閉塞感」(岩見隆夫『政治家』、毎日新聞社)に陥っているからだ。ところが有権者にすれば鳩山前首相も菅首相も「堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業」をしているようには見えない。かくて失望感が広がり、それが投票行動に現れた。比例区では16議席に留まったが、菅内閣が誕生したときには20から21議席まで届くだけの支持率があったにもかかわらずだ。わずか1か月でも世論=投票傾向は大きく変わる。


民主党「大敗」の責任はどこにあるのか

2010-07-15 10:49:49 | 政談

 7月14日(水)民主党「大敗」の責任はどこにあるのか。議席数は民主党が10減らし、自民党が13増やした。政治が結果である以上、敗北の責任は菅直人執行部にある。しかしクイズ番組のような二者択一では現実の複雑さは見えてこない。比例区得票は民主党は1845万票で自民党の1407万票より438万票多い。一方1人区で民主党は8勝20敗。この勝敗が決定的だった。その理由が唐突な消費税論議にあったことは、現場を歩いて有権者の声を聞いていれば実感でわかることだ。ましてや農村部の多い1人区は、小泉「構造改革」によって疲弊したままだから、不安感は大きく広がったはずだ。あるシーンを思い出す。6月17日に民主党本部で公認証書の授与式が行われた。挨拶した菅直人首相は、1998年の参院選挙直前に橋本龍太郎首相(当時)が「恒久減税」について肯定から否定発言にトーンダウン、選挙で敗北したエピソードを語った。「選挙は最後までわからないんです」といった発言を聞きながら「そうだな」と思ったものだ。驚いたのはそれからわずか4日後に菅さんが消費税をふくむ税制の抜本改革を提唱し、「消費税10パーセント」の自民党案を参考にすると語ったことだ。ここで一挙に潮目が変わった。私が主として行動した都市圏でも賛否両論だった。現場感覚からいえば商社勤務などの知人などは「必要」というが、私が出会った大山ハッピーロードの商店や主婦などは多くが「不要」だという。実感的には反対の方が多かった。税制改革を提言することは必要だが、どこまで周到に準備された発言だったのか。多段階売上税にはヨーロッパのようにインボイスの導入が必須だが、設計図はデッサン程度の代物だった。しかし朝日新聞や読売新聞の論調は、明らかに消費税増税に傾いていた。いまでもそうだ。たとえば14日の「読売」は社説で「税制抜本改革 ひるまず消費税論議を進めよ」、15日の「朝日」は1面で「消費税論議 気迫込めよ」と書いた。両紙とも世論調査で消費税増税は「必要」が「不要」より多いということを根拠としている。「朝日」は前者が49パーセント、後者が42パーセントで、「投票者の2人に1人が『10%もやむなし』の立場だった」と書いた。消費税増税を誘導する世論操作だ。財政再建を税制改革と合わせて議論をすることは大きな課題だ。そのときにも不公平感を少なくする制度設計が必要である。


普天間飛行場はグアムへ移転せよ

2010-04-26 11:19:37 | 政談

  「琉球新報」4月18日「論壇」に掲載された原稿は次のとおりです。

  嘉数高台公園から普天間飛行場を遠望する。視界の左には東シナ海の波頭が踊っている。飛び立つヘリの低音が耳に響く。たまたま隣にいた男子小学生が「あれ、コブラなんだよ」と飛行場に駐機するAHー1攻撃用ヘリコプターを指さして教えてくれた。「世界一危険な基地」とは活字で読んでいた。まさに市街地のど真ん中に位置することに驚いた。

 普天間基地移転問題。本土で報道を見ていても実感として捉えられないもどかしさがあった。現場に立ち、この眼で確かめ、考えよう。そう思った私は沖縄に向った。いきなりの発見。本土では「国外・県外」とワンパターンで報じられている沖縄の「意思」。ところが四月二五日に読谷で行われる県民大会の名称を見て、眼からうろこが落ちた。

 「米軍普天間飛行場の早期閉鎖・返還と県内移設に反対し、国外・県外移設を求める県民集会」。文字通り「早期閉鎖・返還」を求め「県内移設に反対」することが出発点である。その結果としての「国外・県外」だ。騒音被害などアメリカ国内でも認められない運用が行われている普天間飛行場。沖縄県民の決意の根拠は、どこまで日本全体の認識になっているのか。

 沖縄県民多数の固い意思を受けて「国外・県外」を決断し、交渉することこそが政府の重い責任だ。本土マスコミではなぜかほとんど報じられていないが、二〇一四年までのグアム移転は国防総省の既定路線だとも知った。伊波洋一・宜野湾市長に聞くと「沖縄海兵隊の定員は一万八千人だが、実数は一万一千人程度。グアムに八千人移るから、残りは三千人ほど。おそらく米本土に行くでしょう」という。

 ジェイムズ・コーンウェイ米海兵隊総司令官も昨年六月四日の上院軍事委員会で「普天間代替施設は完全な能力を備えるべきだが、沖縄では得られそうもない。グアムや周辺の島々、他のアジア太平洋地域で訓練にふさわしい場所を検討している」と語っている。政府は「グアム統合軍事開発計画」などアメリカ軍事戦略の内在的論理を前提に毅然とした交渉をするべきだ。

「沖縄よ/傷はひどく深いときいているのだが/元気になって帰ってくることだ」ーー「沖縄よどこへ行く」とかつて謳った山之口貘の思いはいまにつらなる。普天間をはじめとする基地の「早期閉鎖・返還」こそ現実的かつ緊急の課題なのである。沖縄の歴史と意思を本土に暮らす私たちも共有しなければならない。「砥石としての沖縄」(井上ひさし)である。


鳩山政権の現状について

2009-12-28 10:19:33 | 政談

 12月27日(日)江戸時代から明治時代への移行期について調べていると、まさしく大変革が行われたことがよくわかる。版籍奉還から廃藩置県までの周到に準備された移行を見ても然り。維新とともに政府高官に収賄事件が発生したのも、「私益」を求めないサムライではなく、生死をわけた闘いとは縁遠い、ただ官僚的能力があるからと登用された人材の腐敗から起きている。そんな激動に比べたとき、政権交代の起きた現下の日本は、あまりにも変化のスピードが遅い。「まだ100日」ではあっても、政権交代に期待した国民に、日本が変わりつつあることをもっとアピールするような政策実行と「希望の提示」を行わなければならない。日本経済新聞とテレビ東京が行った世論調査を見ても、鳩山政権の支持率は前月に比べて18ポイント下がって50パーセントとなった。「指導力がない」という理由は28ポイントも上っている。総選挙をやるやらないと迷走した麻生政権時の17ポイント低下時と同じだと日経記事は書いている。ただしこの比較は単純だ。昨年の数字は自民党政治の安倍、福田に続く体たらく自民党政権に対する批判が底流にあった。今回の調査では民主党支持が10ポイントも下がったにもかかわらず、それでも46パーセントと、自民党の23パーセントの2倍あることに注目すべきだ。世論はいまだ変革を求めている。リーダーシップ(指導力)は、まず説明責任を果たすこと、つまり言葉の発信力にかかっている。認識は行動と一体のものだからだ。頭脳の明晰さとはまた異なる資質なのだ。


敗戦記(最終回)

2009-12-03 11:27:55 | 政談

                        敗戦記
       小沢一郎流「どぶいた選挙」を闘って(最終回)  
                                                           有田芳生

 出発点は09年衆議院選挙での比例区での得票だった。新党日本が結成された2005年の総選挙の比例区では、全国5ブロックから立候補、得票は約164万票。私が立候補した07年参議院選挙では177万707票をいただいた。ところが09年衆議院選挙の比例区では、全国6ブロックで立候補、次のような得票を得た。東京選挙区10万381票、北関東選挙区6万8191票、南関東選挙区7万9792票、北陸信越選挙区7万3614票、東海選挙区7万2485票、近畿選挙区13万3708票。合計は52万8171票。

 明確な得票目標があったわけではない。しかし予想外の苦戦は、惨敗と言われても仕方ないほどの結果である。どの政党よりも先駆的な政策ーたとえばベーシックインカム(最低生存保障)の導入ーなどに期待を寄せてくださる有権者が約52万人いたことはありがたいことだ。とはいえ来夏までの10か月で再生できるかどうか。私の責任は新党日本が田中康夫代表ひとりの国会議席から政治勢力になることであった。少なくとも板橋で議席を獲得しなければならなかった。新党日本を「第三勢力」に育てる課題を果たせなかった自責の念は強い。

 どうするべきか。ノーベル物理学賞の益川敏英さんの『のりしろ思考』(扶桑社)を読んでいると、こんなことが書いてあった。「目標は、苦しくてもけっして下ろしてはいけない」。そうだと思った。シュテファン・ツヴァイクの『ジョゼフ・フーシェ』(みすず書房)の「一生の経歴にとって、一時的空白が生じることほど、幸運なことはありえないのだ」というフレーズにも考えさせられた。「失敗してはじめて、芸術家は自己と作品との真の関係を学び、敗北してはじめて、将軍は自分の誤りを知り、失脚してはじめて、政治家は真の政治的展望を授かるのだ」ともツヴァイクは書いている。

 信頼できる知人たちにも相談を続けた。民主党幹部からも電話をいただいていた。まずは「土俵」に登らなければテーマを有効に実行できないこともわかっていた。思いは固まっていった。ならばどこに所属するのか。ほかのミニ政党でも、テレビなどで同席し、じかに見てきた自意識過剰な政治家などといっしょに行動するつもりはなかった。田中康夫代表から民主党の石井一参議院議員に相談するように言われた。石井さんは総選挙のとき何度も電話をくれて、気を配ってくださっていた。話し合った結果は新党日本からの離脱であった。

 11月18日、国会内の民主党幹事長室で、小沢一郎幹事長、石井一選対委員長、田中康夫代表とともに会談、来夏の参議院選挙で民主党の比例代表候補として立候補することが内定した。翌19日には新党日本の副代表を辞任、離党をすることが役員会で了承された。「それがいちばんいい」と田中康夫さんからも言われ、握手をして2年5か月ほどお世話になった平河町のヘッドオフィスをあとにした。

 2007年の参議院選挙では15万9814人から「有田」と書いていただいた。それを気持ちの上ではリセットした。「1からの出発」だ。来夏も16万の有権者に「有田」と書いていただける保証は何もない。労組や宗教団体の支援(信仰などなくとも票のために「信仰」する場合が多い)を受ける候補者は、組織内を挨拶して歩き、そこを固めていけばいい。しかし私には何の組織もない。田中康夫さんと共通の思いは、組織に属してはいても「無所属の時間」(城山三郎)に自己判断をすることのできる方々に訴え、支持していただくことだ。

 そんな支援者のなかから、北海道でも大阪でも応援体制を取っていいという声が寄せられていることはありがたい。総選挙で現場に立ってくれた湯川れい子さんや市川森一さんなどからも「まだまだやるよ」と電話をいただいている。「時代の課題」にいかに接近していくのか。2年前に自分の判断で新党日本の理念を選択し、ここまで歩いてきた。現場で獲得した視野はさらに広がり、手触りもはっきりしている。これからの日本と「日本の未来である子どもたち」のための「最後の闘い」はすでにはじまっている。この国への思いを持続しながらさらに進む。(終り)