ちくわブログ

ちくわの夜明け

北の国からただいま。

2012-07-28 18:01:44 | 映画制作
例によってとっくに帰ってきているのですが、ひとまず報告まで。


北朝鮮から帰ってまいりました。
今回の訪朝は約5日間。目的は「よど号メンバーへの取材」でした。

もちろん北朝鮮に行くのは初めてでしたが、平壌での滞在は、驚きの連続でした。
今改めてしみじみと振り返るに「あ~ いい街だったなぁ。また行きたい」というノンキな感想なのですが・・・

まぁでもほんとに楽しかった。
楽しかったんだからしょうがない!!!


というわけでわたくし、洗脳されて戻ってまいりました。


取材が目的とはいえ、観光に半分は費やしておりまして。
そこらへんのコントロールはこちらでは効かなかったのでしょうがないのです。
だいたい「平壌観光」といわれるコースで行く場所は殆ど訪れたと思います。



それではざっと、向こうで何をしてきたかを箇条書き。

・平壌観光
・よど号グループとの連合赤軍総括(今回、元・連合赤軍兵士 植垣康博さんが初訪朝)
・絶叫マシーン乗った
・サーカス観覧
・犬食った
・中学校参観
・よど号グループの帰国問題。欧州拉致疑惑とどう闘うか
・よど号グループインタビュー



おいおい、詳細はブログにて書いていきます。

先日交番の前を通りましたら、つい先週まで一緒にいた「よど号グループ」の方々の手配写真ポスターが貼ってありました。
なんだか不思議な気分だなーと思いつつ眺めておりましたが、なるほどこうして見ると反社会的な人達と映るかもしれない。

でも向うで会った彼らは、まったく「普通のオッサン」で、いい人で・・・。
今でも複雑な思いはあれ、訪朝時「拉致をした人達に会いに行く」と警戒して行ったものの、帰国時には「いや、彼らはやってないんじゃないか・・・」と率直に思いました。

そこにはもちろん、約一週間共に過ごしたという「情」もありますが、それだけではない「理由」をインタビューで語って下さいました。
それについてはいつか完成する映画の方で。
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北朝鮮へ

2012-07-14 01:26:02 | 映画制作
こちら北京の赤目です。


というわけでただ今北京に来ております。
日本と変わらず、じめじめと非常に暑いです。

今日は天安門広場をみてきました。
なかなか壮観でありました。

さて明日は・・・

実はこちらは経由地でありまして、明日からは北朝鮮こと朝鮮民主主義人民共和国へ向かいます。
一週間弱、取材のため滞在してまいります。

平壌は非常に素晴らしいところと伝え聞いております。
自分の目で見、いろいろ体感してこようと思います。

もちろん、北朝鮮ではあの方々に会ってきます。



滞在中はネット環境にはおれませんので、ツイッターもストップします。

それでは、行ってきます。
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「シンポジウム 浅間山荘から四十年 当事者が語る連合赤軍」に参加して

2012-07-12 19:00:23 | 映画制作
もうかれこれ2ヶ月経っておりますが、今更ながら書かせていただきます。
というか、前回の3月に行われた追悼会と同じく、救援連絡センターの機関紙『救援』に書かせていただいたものを転載いたします。


追悼会があくまで純粋に事件後40年からの「追悼」を目的としたものに対し、このシンポジウムでは事件後40年を経た当事者の今、そして事件をどう考えるかを改めて様々な世代、層と語る場にすることが目的でした。
その「当事者」は以下4名の方々。


元・革命左派 雪野建作さん

元・革命左派 前澤虎義さん

元・赤軍派 植垣康博さん

元・赤軍派 青砥幹夫さん



わたしは今回も運営から携わらせていただき、「第1部 映像でふりかえる」の映像制作と当日の記録係を兼任しました。




では、以下『救援』の原稿より転載します。



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『歴史としての再定義を』



5月13日「シンポジウム─浅間山荘から四十年 当事者が語る連合赤軍」が行われました。

前回の「連合赤軍殉難者追悼の会」に引き続き運営の側から携わらせていただき、第1部の「映像でふりかえる」を制作しました。
以後はシンポジウム形式で約4時間、第4部まで多彩な世代、立場の方々が当事者4人と意見を交わしました。

ゲストパネラーの方々が様々な立場であるがゆえ、観覧者の方々も様々な世代、層が集まりました。

今までどうしてもこういった内容から、内にこもった参加者で、内にこもった議論をえんえんと展開しがちでしたが、今回はそこから大きく脱却していたのではないかと思います。

東京新聞の田原牧さんは事件の映画化、漫画化等からくる現象を指し「連赤事件に市民権を与えるような雰囲気を感じており、非常に嫌な気分。事件が市民社会に回収されるのは危うい」と問題提議。

作家の雨宮処凛さんは「2012年“今”の生きづらさと連赤事件は繋がっている。私が育った80年代~90年代は社会への回路が切断されていた。それを辿っていくと連赤事件に突き当たる。社会と切断されると“怒り”が自分や内(自殺や家庭内暴力 等)に向かう」と持論を展開していました。


こうした意見にその場で当事者4名が応えていく。その様子に40年という時間と、当事者それぞれの積み重ねを見た気がしました。

そろそろこの事件を“歴史”としていかなくてはならない。
そのために当事者や周辺にいた方々が語っていくことが、40年という歳月を経た今だからこそ、必要とされているのではないかと思います。

私自身当事者への取材を重ねている身ではありますが、やはりどんどん語っていくべきだと思っています。彼らは社会、あえて大きく言ってしまえば“世界”に向けて運動・闘争を展開しました。そうであればこそ、あの体験を社会に向けて語っていって欲しい、と願っています。

ゲストパネラーの映画監督 森達也さんに聞きました。「彼らは表に出て語り続けるべきでしょうか」
森監督はしばらく考えた後「それは僕が決めることじゃない。語って欲しいとは思うけど、語りたくないという気持ち、筋の通し方も分かる」と。

また、こうした公の場に初めて参加した元・赤軍派の青砥幹夫さんに、なぜ参加する気になったのか、その心境を伺ったところ「そろそろ息子に父親がどういう人生を送ってきたのかを知らせるために(考えを)纏めていかなければいけない」とカメラの前で答えて下さいました。

具体的な「理由」を目の前にすると、たじろがざるを得ないものがあります。そうした時、改めて一人一人の当事者を“歴史”としてひとくくりにしてはいけない、とも思います。

しかし歴史は想いとは別に、時間が作り上げる側面もあると思います。現状、あまりにもネガティブな側面しかもたらせていないこの事件、引いては「赤軍という現象」をどう捕らえ直すか。

それは今ではない、未来に繋がる歴史への再定義に、必ず繋がると確信しています。


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以上。

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FUKUSHIMAにて

2012-07-03 00:14:24 | 東日本大震災
初めて実物を目にするガイガーカウンター。
そのアラームがピーピーとなった時、恐怖というより「この国の一部はもう、こういう地帯になってしまったんだなあ」という諦めに近い「慣れ」のような感情しか沸いてきませんでした。

今考えると、現地に行って変に気が張ったせいで麻痺していたんでしょうか。

何とも言えない、複雑な気持ちになりました。
というより、今もなっています。


ライラ・ハリドさん来日時、福島にも行くとのことで取材兼記録係としてついて行きました。


震災から2週間後、最初に被災地を訪れた時の、あの地獄のような風景とはうってかわり、静寂の中、それでも確実に被災地を蝕んでいくとらえどころのない地獄を見たような気がしました。
わたしはジャーナリストでもマスコミでもない、ただの一市民なので、ここでうまいこと自分の言葉で見たものを表現できればいいな、と思ったのですが、事態があまりにもあんまりで、ちょっと自分には荷が重い、というのが正直な気持ちです。

ただ、その一市民が何を感じたかより、何を聞いたかは「記録」として残っていますので、そこから掘り起こせる言葉を、以下に写真と共に羅列します。





【仮設住宅にて 若者数人の言葉】



「飯舘村でも(家に)戻る、戻らないでモメている。放っておいたら、この(放射線量の)レベルが世界基準になってしまう可能性が出てきてしまう」


「飯舘に入ったら肌がピリピリする」


「家はもう荒れ放題。あと2年避難生活を続けていれば、家はもうダメになる」
「(被曝どうこうではなく)あれから髪は抜け、顔は皺だらけになってしまった」

「飯舘村では3号機爆発の時『ド、ドーン』という音がした。当時は何かと思ったが」

「双葉厚生病院にいた姉は、一回目の爆発の時揺れて、余震かと思っていた」
「その後白い、破片のようなものがパラパラと落ちてきた」


ガイガーカウンターについて
首都圏の通常時は0.05μSv/h(マイクロシーベルト/時間)ほど
飯舘村は2μSv/h以上


ガイドしてくれた方の家、ホットスポットの地面の雑草近くでは70マイクロシーベルトを超えた。
「国はここに『除染して戻ってきて住みましょう』と言っているが・・・」



「ここらへんの人達が所得が低くても暮らせていけるのは、水は井戸水、野菜は作れる(作れた)ので、現金を使わなくてよかった。その生活が壊されてしまった」


除染区域にて

「除染当時は少なくなったが、今はほとんど元に戻ってしまっている」

「この除染に約6億円かかっている」






その日の夜、旅館にてネットのニュースをチェックしていたら、こんな記事がトップに出ていた。

一時帰宅の男性、遺体で発見 福島・浪江町、自殺か

28日午後0時半ごろ、東京電力福島第1原発事故で警戒区域に指定されている福島県浪江町の倉庫で、男性の遺体を消防団員が発見した。

 県警は、27日に行われた浪江町民の一時帰宅で行方不明になっていた自営業の男性(62)と確認。首をつった状態で見つかった。「生きていても仕方ない」「夜よく眠れない」などと話していたといい、自殺とみている。

 政府の原子力災害現地対策本部によると、男性は27日午前10時ごろ、荷物の持ち出しなどのため、妻と自家用車で、浪江町の自宅と経営していた商店に一時帰宅。午前10時50分ごろ、男性の姿が見えなくなり、妻の親族が警察に通報した。






【エム牧場にて 浪江農場長・吉沢正己さんの言葉】



浪江町。原発から14キロ地点。



「(国から)殺処分指示に従わなければご近所迷惑にもなる、と言われた」
「300軒の畜産農家、60~70軒の酪農家は、殆どの人が二度と牛飼いなんか出来ないというくらいの精神的な挫折感を味わった」
「今も20キロ圏内の警戒区域には約1000頭の牛が生きている」

「2万1千人の浪江町民は追い出され、もう二度と浪江町で米作りは出来ない」
「米作りの出来ない浪江町に、農家が帰る意味が無い」


「浪江町はいずれ、崩れていく」


「ここで300頭の牛達に餌を与えるということに、経済的な意味は無い」
「この牛達は放射能汚染を正確に伝える生きた証人。絶対に殺処分指示には従わない」
「残りの人生を賭けて、国・東電と闘っていく」


自殺した一時帰宅の男性について
「170人で捜索して見っかったんだよ。首つってた」
「そういう、『死にたい、死にたい』『(生きてても)意味が無い』と言ってる人たちはいっぱいいる。アンケートにもいっぱい書かれてあった」

「日本のチェルノブイリになったが、故郷を復活させるために、放射能とも闘っていく」
「仮設住宅で人生終わっていいのか」
「お年寄りが仮設住宅にいっぱい居るが、あれではそのうち死んでしまう。なんとかしていかなければならない」


「絶望的情況に負けないためには、抵抗するしかない」







【昼食で立ち寄った定食屋にて あるおじいさんの話】



「息子夫婦と一緒に仮設住宅に住んでる」


「狭いから、寝起きの時間も一緒にしないといけない」


「こんな生活はもう耐えられねえ」





【南相馬市・小高区津波被災地 ガイドしてくれた方の言葉】



「ここらへんは畑も家もたくさんあった」



「地震で1~2メートル、場所によってはもっとだが、地盤が陥没しているため水が引かない」



「家が残っても、『ちょっともうここには・・・』と住みたがらない人も多い」









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