ちくわブログ

ちくわの夜明け

伊勢神宮いってきた

2011-06-23 02:13:24 | Weblog
お伊勢さん行ってきました。
しっかり意識して行くのは初めてで。十代の頃、親に連れられて行った時は神社なんてつまらんなー程度の思い出しかなかったのですが、改めて行ってみるとこれがすばらしく、是非お写真で思い出共有を、と思った次第であります。

つっても帰省した折、今回もまた親に連れられて行ったわけですので、無自覚なのには変わりありませんが・・・だからこそ驚きも大きなものでした。
しかし「混むから朝3時おきね」とか言われて「それ朝じゃなくて夜では」と半泣きでした。
なんで年寄りって朝強いのか。



さて。
行ったのは内宮。

ででん。
ここですでにみなさんお辞儀していたので、そういうもんか、とわたくしもぺこり。

宇治橋を渡る。



伊勢神宮のHPを見ると、お伊勢さんの自然を「静謐、荘厳」と表現していますが、まったくその通りでした。
到着するまで大雨が降っていたためか、辺りはうっすら霧がかかっており、非常に神秘性のある景観となっていました。

橋を渡ると、俗世から切り離されたような、ゲンシュクな雰囲気に。



やや歩くと五十鈴川が見えます。これがまたなんというか心があらわれるかのような。


普通「いい景色だなー」っていうと、彩度が高くてコントラストが強い自然とか思い浮かべますが、ここの景色はこう・・・なんつうか、これぞ和、ていうか日本っぽい?そんな感じです。京都っぽい?かな。淡くて地味。
形容しがたいなー。いちいちガラのいい雰囲気っていうか。
すいません語彙の限界です。

で、やたらと樹がデカイ。
これ見るだけで歴史の重み感じますね。もうずーーーーっと昔からこんな景色なんだな、ここは、と理解させてくれます。


とりあえずデカイ樹を見たら触ったり抱きついたりするうちのカーチャンです。

バカみたいに抱きついている写真もあるのですが、わたしの名誉のために公開は控えます。

手と口を清める。

鶏が放し飼いにされていました。心なしか、小ぎれいに見える。
そして、「コケコッコー」と正しく鳴いてくれました。分かってるなあ。

お守り。「持っとけ」と2点ほど親が買ってくれました。


天照大御神がおらせられる皇大神宮(正宮)。

中は写真撮影禁止ですぞ。
なんかわりと地味でした。

参拝を終え、街道を通る。

すると猫の御一家が。

のび~

ちょっと通りますよ・・・

子猫もおりました。


おもうさまモフモフして手がくさくなって、トイレに引き返して、さて赤福本店で赤福を食います。

赤福ガールズ。

五十鈴川に面した縁側で食べる。


こんなのうまいに決まっています。

縁側近くの橋から見る五十鈴川。

まことにヒンがよろしいですなあ。
俺、こういうとこに住んで死んでいったらいいんじゃないか、と思っていたらそろそろ観光客がわんさと訪れはじめ、考えを改めました。

おかげ横丁はまだ早いため、ほとんどのお店が開いていませんでした。

普通なら汚いであろうこういった路地裏も苔むしており、なんだかキレイ。


周りのお店が開き始めた頃、人も多くなってきたことだし、帰ることに。

これはこれで、ニギニギしていて悪くないですね。

帰りに伊勢うどんを食べました。

うまかねえなあ別に。なんかやたらと千切れるんですね。しかしそういうもんらしい。



以上。
こういった場所はそれなりに年を重ねないと楽しめないもんだな、とオッサンになったわたしは思ったのです。
京都も普通に楽しめたしなあ・・・・

感受性の変容で月日の流れを自覚する・・・そんなプチトリップでありました。
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『棺を覆いて─永田洋子を送る会』 発言記録(後)

2011-06-10 01:43:59 | 映画制作
前回の続き。



■救援連絡センター 事務局長 山中幸男

森恒夫さんが自決したとき火葬する前に止めろ、ということで待て待てと、棺の前で体を張って止めた。それから医者に遺体を確認させた。
その後通夜をやりたいってことで場所を探したが、今回(永田さん)の場合は救援をやっている方の関係で段取りよくやれて良かった。

若松監督の映画は(『実録・連合赤軍』)どちらかというと赤軍の観点から描かれたものなので、革命左派からのことはあまり知られていない。
これから明らかにされていったらいいなと思う。




■漫画家 山本直樹

しばらく前から永田さんや坂口さんや植垣さん、大泉さんの本を読んでいて、これはすごい物語だ、漫画にして読みたいと思っていた。
でも僕の専門はエロなので誰か描かないかな、と思っていたが誰も描かないようだし、他の人にやられるのもしゃくなので、描き始めた。(イブニングにて連載中の『レッド』)

描き始めて5年ほど経つが、まだ陰惨なところには行っていない。これからまだ5年はかかると思うが、あさま山荘まで描きたいと思っている。

僕は永田さんとは当然面識は無く、読者でしかない。読者としての感想を言えば「かわいらしい方」。でも時々、自己承認願望が強すぎてうるさい、という印象。
そのような普通の人が後半あのような状態になっていく、それは人間通しての不思議さに通じると思うが、それを描ければと思っている。

永田さんにはもう少し元気でいてもらって、描いたものを読んでもらい、お小言のひとつでももらいたかった。




■モッツ出版代表取締役 高須基仁

今朝、歯が抜けてしまった。年とったな、と。悔しい思い。宮崎学も、重信さんもみんな体調を悪くして。
でも、ボウフラがいっちょまえの蚊になって、世の中に一刺しだけして死んでいく。そんなタイミングが来たのかな、と。

運動はわれわれの青春だったし、男と女、愛もあったし、志だけではないもっとドロドロしたものがいっぱいあった。
どんな革命を考えたって、ひとりひとり、愛を語ったり、セックスがあったり。
このひとりひとりの死がひとりひとり、みんなの記憶に残っていけば良いと思う。




■弁護士 大谷恭子

ご存知のように、第一審の判決が「女性特有の嫉妬」というかたちで表現された。それは許されないことであり、死者をも冒涜するもの、と私自身は率直に思った。

しかし一方で「なんであんなことになってしまったの?」という強い思いがあった。あの時代、共に何かをやろうとした者として許しがたい気持ちもあり、ある意味検事以上に彼女に糾弾的であったのではないかと思っている。

接見室で彼女に質問すると、どうしても弁解がましく言葉を連ねてしまうことに対して、ずいぶんと彼女を厳しく問い詰めてしまうこともあった。
しかし接見が長くなってしまい、彼女が事実関係を語ろうとすると「嘔吐」してしまっていた。
私はその頃彼女が病気ということを知らず、もどすほどに苦しい思いをしている被告人に、これ以上事実を聞くのは弁護人としていけないのではないかと感じた。しかしあの時代を担ったものとして事実関係を聞き出さなければならないと思った。
そうするとどうしても接見が長くなってしまう。接見室のアクリル板越しに彼女の顔を見ると、そのアクリル板に私自身の顔が映る。それはとても恐ろしく感じることだった。

私と彼女の顔が二重映しとなる中で、それでも私は事実を聞かせろと彼女に迫る。その二重映しの顔がある種同じだったから、私自身を責めてるのかな、と思って、初期の段階は非常に複雑な思いを抱えていた。

弁護人としてここまで糾弾的な立場もないが、みんなあの時代を経験したからこそ、それをしょいながら弁護活動をした。

その後彼女が病気だということが分かり、私自身非常にショックを受け、同時に私たちは彼女の病気をも許していなかったんだ、と思った。彼女が吐き気を訴えるのは、あの事件の重さがそうさせているからだ、と思い、彼女の病というふうには思い至らなかった。
辛いから横になりたい、という法廷態度も許せず、病気であることを見抜けなかったのは、自分たち弁護士としての一生の落ち度である、と他の担当弁護士も言っていた。
そういう点では彼女に非常に恥じた(申し訳ない)思いを持った。

私自身のことから言えば、どうしても許しがたいという思いと、でも彼女だけの責任ではなかったという思いと、法廷の中で明らかにされなければならない真実。この中で何ができたかと思いながら、彼女と共に10年間過ごせたことは弁護士冥利に尽きることだと思う。




■文筆家 大泉康雄

(吉野雅邦さんからのメッセージ代読)
「まず最初に自らの手で死なしめてしまった亡き14名の同志に心からのお詫びと共に哀悼の意を表させていただきます。
事件についてふれさせていただきます。私の認識では悲劇の発端は、下部の統制ができなくなった永田洋子が他組織の森恒夫の指導に頼っていったことのように思います。

(中略)・・・暴力的総括要求、死刑は共産主義化、人材育成ではなく、内部統制のための暴力に他ならなかったと考えざるを得ません。(中略)山岳ベースで森恒夫から『共産主義化』という用語を聞かされた覚えもありません。

(中略)山岳ベースでの暴力を指導したのは森といわれていますが永田洋子は森に等しい役割を果たしたと思っています。そして印旛沼での処刑を決行した革命左派側にむしろ強い要因があるのではないでしょうか。

(中略)寺岡氏や雪野氏のように永田の方針に異を唱えることも無く、また前澤氏や加藤能敬氏のように離脱者に一定理解を示すことも無く、永田を支持し、支えてきたのが当時の私の姿です。

(中略)しかしあの時点では誰が指導者になっても組織の分裂と崩壊の状況下では、同じような経過をたどっていた可能性が強かったでしょう。だから永田洋子個人を責めても仕方の無いことだと思われます。

(中略)永田・森が東京出張中に森が永田との結婚を踏み切った理由は、森恒夫が奥さんと子供を守りたかったという推測も成り立ちます。

(中略)14名の死に携わったものとしてはいかに償おうとしても、生涯をかけて償いきれるものではありません。ですが来世に顔を合わせた時に彼らにも顔向けできるような残生を送るべく心しています」




■編集者 椎野礼仁

(瀬戸内寂聴さんからのメッセージ代読)
「(略)いつでも正月過ぎから2月半ばまで年年にその季節が来ると、私は洋子さんを強く思い出していました。その季節になると必ず洋子さんは獄中で体調を崩しました。
私はそれを洋子さんの意識の外で体があの地獄の月日のことを思い出していて全身が痛むのだと解釈していました。洋子さんはそれを認めませんでしたが、そうとしか考えられない現象でした。

洋子さんと文通が始まって、私は洋子さんの信じられないほど無邪気な面にびっくりしました。(中略)私はどうしても洋子さんを世間の人のように悪魔とか鬼とか呼べませんでした。

(中略)最後の数年はもう人の分別もつかず、何も分からなかったと弁護士さんから聞いて、まだ浄土に渡ることは許されないのかと、胸を締め付けられていました。もう意識も無く、自分では歩けない人をどうやって死刑台に乗せられましょう。

(中略)もう十分十分この世で地獄を味わい苦しみました。洋子さんは許されて、今はかつての同志に迎えられていることを信じます。(以下略)」




■元・赤軍派 金 廣志

西馬込(「送る会」が行われた場所)というのは私自身40年ぶりにきた。他の方のおっしゃられるとおり「明るい、ゆかいな赤軍派」もしくは革命左派という時代もあって、70年の暮れに、ここに一軒家のアジトがあった。
M作戦に最初に出撃したのはここからだった。その当時、メンバーの半数が集まって「大貧民」をやった。そうしたら(ゲームの中で)革命が起こり、「我々の未来は明るい!」と言って出撃していった。

しかしちょうど40年前の今頃には植垣君の部隊を残して全ての部隊が壊滅してしまった。そういう懐かしい場である。

永田さんが亡くなり、通夜の晩と焼き場と、両方同席した。亡骸と対面したが、正直言って安らかな様子には思えなかった。顔も痛んでおり、オムツもはめられ、がに股状態で、棺に納めるのが非常に難しかった。最後は力いっぱい入れなければならなかった。

焼いた後見ると、頭蓋骨にシャント手術の穴があり、周りが茶色く変色していた。これが手術の跡か、と強く感じた。骨の量も少なく、相当病気で痛められていたのだなと思った。
私は横から骨をかすめて、口の中に含んでしまったが、非常に柔らかかった。

ご両親に死は知らされず、親族は見えていなかった。伴侶の方は「知らせていない」と言っていた。

永田さんに関して。意識のあるうちは最後まで社会問題に関心を持っていた。それを社会にアピールしたいと言う思いは強く持っていたよう。
私自身は直接の面識は無かった。法廷で顔を見たくらい。
一度差し入れをしたところ、その後何回かお手紙が来た。ただ私の方は明治大学のメンバー、遠山・行方・山崎・進藤と強い繋がりがあったため、それを思い起こすとどうしても返事を書くことができなかった。やはり自分は永田洋子さんに対して複雑な思いを抱いていたことは確か。

その後永田さんの文章を読み、非常に正直な人だなと感じた。世間では永田洋子を戦後最大の悪人と言う人もいるが、私自身は永田洋子は本当の善人だったんだな、という気がする。であればこそ、総括などが全て善意の中で行われていた。

「地獄への道は善意で敷き詰められている」というマルクスの言葉に謙虚に耳を傾けて、永田洋子さんのことをもう一度考えてみたいと思う。

今日は永田洋子さんを送る会ということだけど、共に亡くなった16名の同志の名前を読み上げておきたいと思います。

16名の魂が安らかでありますように。





以上。



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『棺を覆いて─永田洋子を送る会』 発言記録(前)

2011-06-06 01:26:44 | 映画制作
今年の2月5日、元連合赤軍指導者・永田洋子さんが亡くなりました。
永田さんに対する個人的な思いはこちらのエントリ「永田洋子さんについて」で書いたとおりです。


それから一月あまり後、あの震災から間もない3月13日、「連合赤軍の全体像を残す会」主催による、永田さんを送る会が開かれました。

わたしは取材・撮影のため会に参加させていただき、その後ほぼ全ての発言を一本の映像としました。
そこには元同志、知人、弁護士、救援関係者・・・さまざまな方が語る「人間としての」永田洋子像がありました。
発言内容を書き出しているうち、これはすごいドラマであると同時に、貴重な資料であると痛感しました。そこで「全体像を残す会」のご厚意により、以下にその文を掲載させていただくことになりました。
長くなったため、前半と後半に分けて掲載します。

以下、発言内容の主要な部分をわたしの主観で抜き出し、一部意訳したものです。




■「連合赤軍事件の全体像を残す会」
元・革命左派 雪野建作

案内を色々な人に出した。当事者たちにとっては、永田さんに対する感情は複雑。
兄弟を亡くされた方などはまだ返事が無い。これは非常によく分かることで、私自身も永田を何と呼ぶか、同志と呼ぶには経緯からして相当抵抗があった。しかし実際亡くなった、という報せを聞いてごく自然に「永田さん」と言っていた。

(当時のこと)最初に会った頃、彼女は薬剤師をしていた。ごく普通の女性。少し話が粘着質なくらい。その二年後、彼女の立場は変わっていた。指導者が逮捕されていく中で、彼女の立場が押し上げられていた。おそらく獄外のメンバーに、責任を取ろうとする者がいなかった。




■弁護士 秋田一恵

私は皆さんほど永田さんと縁のある人間ではない。感情も複雑なものではない。おそらくこの中で唯一永田さんの側にただ立っているだけの人。私にとっては私のかわいいクライアントの一人。
弁護士の立場から言えば、最後まで生きる努力をしたけれども、国家によって殺されたと思っている。

永田さんは、マスメディアを非常に恐れていた。いろんな風に書かれたので、自分はいつまでもそう書かれると思っていた。

後年の永田さんの生きる努力について。それはそれは凄まじく辛いものだった。目が見えなくなったり、激しい頭痛に襲われたり自分が何をしていたか思い出せなかったり。
あまりに辛いので獄中で「お母さん助けて」とか「秋田さん助けて」と叫んでしまったり。
皆さんはそんなの当たり前だ、それくらい苦しめ、とおっしゃるかも知れないが、私は自殺する方がずっと楽だったろう、と思っている。
「おめおめと生き恥をさらして」と判決で言われたが、生きている方がずっと辛かったと思う。

永田さんは最後まで皆さんに許してもらおうとか、そんなことは思っていなかった。どう言っても糾弾されると思っていた。
人の命は重い。何百、何千という数でなく、ひとつひとつが重いものだ。革命(運動や永田さん達)にはそういう、数の発想があったと思う。大儀に殉ずるという思想は左右問わず、会社や普通の組織にもあると思う。しかしそれは間違いだ。そしてそれは、今もひどくなっている。




■元・赤軍派 植垣康博

連赤問題をどうするかより、病気をどうするか、が最高裁まで続いてしまったような状況。
そんな中で拘留の停止がなされなかったのが最大の問題。それを考えたとき、我々自身が永田さんに対してどうだったか、今一度考えてほしい。
12人(14人)を殺害してしまった、という結果を見て永田さんの責任を云々するよりも、彼女なりに連赤問題に取り組んできたことを評価すべき。
一方で森恒夫さん、塩見孝也さん、川島豪さんはどうだったか。

重要なのは連赤がどういう問題にぶつかって、どう対処していったか、という点。

永田さん個人にどうこうというより、あくまでも連赤問題をどうするか、という観点から当時の指導部を守っていくというのが、僕の(裁判時の)立場だった。

連赤問題というのは、現代の社会を考えていく上で意味を持っているのではないか、と思う。
連赤問題を考えていく上でも永田さんは頑張って生きていくしかなかった。
そういう意味でも皆さんに望むことは「ご苦労様でした」「よく頑張りました」という声をかけてあげてほしい。




■元・革命左派 前澤虎義

自分も雪野と同じく「永田」と呼ぶか「永田さん」と呼ぶか迷った。
やはり永田さんは結果的にああいう立場まで行かざるをえなかったという意味では犠牲者だと思ってる。

そもそも川島奪還闘争から始まり、武装闘争に流れ込んでいった。なし崩し的になり、方針も立てれていなかったため、森・永田指導部への負担が大きなものになった。
しかし一方でそれが必ずしも同志粛清に繋がるものではない。その点では森・永田の責任は大きい。
早岐・向山殺しの時も反対意見は出てきたのに、それを黙殺したのはやはり責任は指導部にとってもらわねばならない。
翻って、裁判で最後まで永田さんが責任をとったのか、今でも疑問を持っている。




■弁護士 大津卓滋

植垣くんの主任弁護士をやった。かたちとしては坂口くん、永田さんの弁護も担当した。

永田さんと拘置所で初めて面会した時、いきなりワーッと話されびっくりした。
党派の指導部というものにある種のイメージがあったが、スーパーの安売りで他の人をかき分けているおばちゃんみたいな感じだった。
あまりにも一人でしゃべるので、ちょっとした嫌味で「主観的な善意ほどやっかいなものはないと思っています」と言った。それに対する反応が意外だった。
「あなたはいつからそういうことを気付きましたか」と聞かれた。「私は物心ついた頃からそう思っています」と答えたら「私はこの事件が起こって初めて気がついた」と。その時にこの人も被害者なのかもしれない、と少し思った。

色んな時代のエネルギーなどに押し上げられ、指導部になってしまった、という感じ。そんな、ちょっと胸が痛くなる初対面だった。




■元・朝日新聞編集委員 藤森研

当時朝日新聞の記者だった。傍聴記者として彼女の発言を聞いていた。
「近代的自我が確立しないまま運動に入ってしまった」等発言していた。
記事になるものは少なかったが、世代が同じ者として、どうしても完全に他人事とは思えなかった。
そんな過程から大槻さんの本(「優しさをください」)を出版するのを片隅でお手伝いした。

その後朝日ジャーナルに行き、比較的自由なことができたので、この問題を扱うようになった。

面会の時間を取ってしまうわけなので、申し訳なく思い、何度か差し入れをした。
その中で印象深かったのは、公判の日に着ていく服が無い、とのことなので、帰って女房に相談した。そこで結婚した当時に買ってまだ袖を通していなかった白い上下があったので、「これだね」という話になり、差し入れることにした。
すると彼女から非常に丁重な手紙をいただいた。服について「着るのを迷った」と。
というのも、自分は生まれてこの方オシャレ等を考えたことがなかった。
恥ずかしいがそれを着たら、女性看守などがみんな「それ、似合う。若く見える、是非着なさい」と言ってくれた。そして控訴審判決にはそれを着て出た。

ひとつだけ、彼女にいいことができたと思った。




■一水会顧問 鈴木邦男

僕は右翼学生だったので、左翼の連中とは学内で毎日殴りあいをしていた。「こういう連中は日本から出て行け」と思っていた。
40年たち、敵ながらあっぱれという人たちがいっぱいいて、その人たちとこうして交流できるのは幸せなこと。植垣さんを通じてこうして連合赤軍問題も勉強している。

新右翼の教祖といわれた野村秋介さんは永田さんと会っている。このことが生前最後の本に書かれてあるが、そこには「永田さんはもはや敵ではない」と書かれていた。しかし「アマチュアであった」と。闘争が獄中の指導者奪還から始まっているが、それは中(獄中)にいる人間のエゴなんだ、と。同志粛清も含め、彼らはアマチュアだった、と書いてあった。
それは批判ではなく、慰め、評価。いろんな思いを感じた。

昔はずっと連合赤軍はひどい運動だった、と思っていたが、当事者に知り合う中で、あそこまで思いつめて日本で革命やろうとした人達は、かつていなかったんじゃないか、と思った。

連合赤軍以降、そのせいで全てが駄目になったからといって、何もしてこなかった左翼、われわれの責任はあるのではないか。
日本赤軍もそうだが、獄中にこれだけの有能な人間を閉じ込めておくのはもったいない。もっと彼らの体験を聞きだしてこれからの日本に生かしていくべきだ。




【以下、後半に続く】




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