<1>
<2> 続き。
前日の夜。
リュックの中の『ガス弾の谷間からの報告』を読んでみる。手に入れた当時の衝撃をたどるように読み「本当に聴きたいこととは何か」を自分に問うてみた。
翌日。8時起床。
柳井市へ向かう山陽本線の車中は、途中から乗っている車両にわたし一人になってしまうほど空いていた。
ただ、10月末だというのに快晴を照らす太陽が、窓越しにじりじりと暑かった。
しばらくすると車窓から海が見える。綺麗だな、と思うのも束の間、その向こうに、そしてやがては眼前に、コンビナートがそびえる。
約1時間で柳井市に到着。
柳井市は「白壁の街」として有名らしいが全国的ではないと思う。取材後日、地元の人に「ここらへんで、柳井市の特徴がつかめるような場所ってどこですか?」と聞くと、ある通りを教えてくれたが、その後「でも、人工的ですよ」と付け足すほどだ。
確かに、必死さが伝わってくる箱庭のように管理された通りだった。厚化粧のように施された白壁がお寒い。こういう「田舎くさいかっこうつけ」は、どこにだってある。なので「ここに来て」まで見たいとは誰も思わないんじゃないだろうか。
ただ、少し外れると昔ながらの白壁も現存しており、そこからは確かに歴史とか、情緒といったものが感じられた。
そういった化粧を施していない、タクシーから見る街並みは、ごく普通の田舎町という印象だった。
やがて福島先生のご自宅に到着。
部屋には同居人の愛犬ロクがワンとも鳴かず、こちらを興味しんしんに見ている。隅には数年前に自作した棺桶が。
もう年だということで「僕はそもそも君のことが思い出せないんだけどなぁ。ちょっとまた、自己紹介してくれるかい」と言われたので、6月、東京での講演会でのことをお話しする。そして現在何で食ってるかということや、この映画の製作意図という根本的なこともお話しする。
やがて、わたしが勝手に緊張する中、インタビューは始まった。
そこでお聞きしたことは、やがて完成するわたしの映画の中でお伝えしたいと思う。
ご自身の生い立ちから始まり、人生観や本題である学生運動についてなど。
持参した写真集で、特に気になった写真など、その舞台裏などもお聞きしたりした。
福島先生は、筋金入りの反権力者だ。
今まで二度、国側から命の危険を脅かされている。一度は放火による自宅全焼、一度は実際の鉄拳行使での重傷。
これらについて「いったい、誰がやったんですかね」と聞くとこう帰ってきた。
「国家なんてものは、邪魔な人間は簡単に殺すよ。僕は、殺されなかった。その程度だったってことだよ」
こういう言葉はなかなか信じられない人もいるかもしれない。しかし、先生自身、戦時中は他と同じく、ばりばりの軍国主義者で、国に逆らうことなど考えたこともなかったそう。そして、敵を殺すことこそ、正義と信じて疑わなかった。「陛下に命をお返しする」という言葉が、当たり前のように血肉化していたのだ。
ここからして、今のわれわれには実感が伴わない。何しろ自由とは、勝ち取るべきものではなく、「当たり前であるという、一種異常な環境の中」に生を受け、それを享受してきたからだ。
だからこそ、先生の言葉には迫力があった。むろん、防衛庁をだまして自衛隊内部に潜入、それらの写真を一般紙に売りつけるといった、普通では考えられないことを実際にやってのけた、という事実も手伝っている。そりゃ何らかの報復は受けるだろう。
最後に、今の人たちに期待するものは何ですか、と聞いてみた。
「こんな時代を作り上げたわれわれも悪い。しかし、そんなことは自分達で考えるべきだろう。突き放すようだが、86年生きてきたこの僕の、君は何がわかったのか?たった3時間ほどのインタビューで僕のことなど理解できやしないだろう」
先生は一時期、青酸カリ入りのペンダントを持ち歩いていた。
いつでも死ねるように。
そういう覚悟、孤独の中で生きてきた人間の、わたしは何を分かったフリをしようとしていたんだろう。
<2> 続き。
前日の夜。
リュックの中の『ガス弾の谷間からの報告』を読んでみる。手に入れた当時の衝撃をたどるように読み「本当に聴きたいこととは何か」を自分に問うてみた。
翌日。8時起床。
柳井市へ向かう山陽本線の車中は、途中から乗っている車両にわたし一人になってしまうほど空いていた。
ただ、10月末だというのに快晴を照らす太陽が、窓越しにじりじりと暑かった。
しばらくすると車窓から海が見える。綺麗だな、と思うのも束の間、その向こうに、そしてやがては眼前に、コンビナートがそびえる。
約1時間で柳井市に到着。
柳井市は「白壁の街」として有名らしいが全国的ではないと思う。取材後日、地元の人に「ここらへんで、柳井市の特徴がつかめるような場所ってどこですか?」と聞くと、ある通りを教えてくれたが、その後「でも、人工的ですよ」と付け足すほどだ。
確かに、必死さが伝わってくる箱庭のように管理された通りだった。厚化粧のように施された白壁がお寒い。こういう「田舎くさいかっこうつけ」は、どこにだってある。なので「ここに来て」まで見たいとは誰も思わないんじゃないだろうか。
ただ、少し外れると昔ながらの白壁も現存しており、そこからは確かに歴史とか、情緒といったものが感じられた。
そういった化粧を施していない、タクシーから見る街並みは、ごく普通の田舎町という印象だった。
やがて福島先生のご自宅に到着。
部屋には同居人の愛犬ロクがワンとも鳴かず、こちらを興味しんしんに見ている。隅には数年前に自作した棺桶が。
もう年だということで「僕はそもそも君のことが思い出せないんだけどなぁ。ちょっとまた、自己紹介してくれるかい」と言われたので、6月、東京での講演会でのことをお話しする。そして現在何で食ってるかということや、この映画の製作意図という根本的なこともお話しする。
やがて、わたしが勝手に緊張する中、インタビューは始まった。
そこでお聞きしたことは、やがて完成するわたしの映画の中でお伝えしたいと思う。
ご自身の生い立ちから始まり、人生観や本題である学生運動についてなど。
持参した写真集で、特に気になった写真など、その舞台裏などもお聞きしたりした。
福島先生は、筋金入りの反権力者だ。
今まで二度、国側から命の危険を脅かされている。一度は放火による自宅全焼、一度は実際の鉄拳行使での重傷。
これらについて「いったい、誰がやったんですかね」と聞くとこう帰ってきた。
「国家なんてものは、邪魔な人間は簡単に殺すよ。僕は、殺されなかった。その程度だったってことだよ」
こういう言葉はなかなか信じられない人もいるかもしれない。しかし、先生自身、戦時中は他と同じく、ばりばりの軍国主義者で、国に逆らうことなど考えたこともなかったそう。そして、敵を殺すことこそ、正義と信じて疑わなかった。「陛下に命をお返しする」という言葉が、当たり前のように血肉化していたのだ。
ここからして、今のわれわれには実感が伴わない。何しろ自由とは、勝ち取るべきものではなく、「当たり前であるという、一種異常な環境の中」に生を受け、それを享受してきたからだ。
だからこそ、先生の言葉には迫力があった。むろん、防衛庁をだまして自衛隊内部に潜入、それらの写真を一般紙に売りつけるといった、普通では考えられないことを実際にやってのけた、という事実も手伝っている。そりゃ何らかの報復は受けるだろう。
最後に、今の人たちに期待するものは何ですか、と聞いてみた。
「こんな時代を作り上げたわれわれも悪い。しかし、そんなことは自分達で考えるべきだろう。突き放すようだが、86年生きてきたこの僕の、君は何がわかったのか?たった3時間ほどのインタビューで僕のことなど理解できやしないだろう」
先生は一時期、青酸カリ入りのペンダントを持ち歩いていた。
いつでも死ねるように。
そういう覚悟、孤独の中で生きてきた人間の、わたしは何を分かったフリをしようとしていたんだろう。