ちくわブログ

ちくわの夜明け

レバノン取材記・1 ベイルートへ

2011-11-28 04:12:40 | 映画制作
行ってきますと、ただいま、というエントリを書いてから、もう一ヶ月たつのですが・・・・

やっと仕事も落ち着き、考えも落ち着いてきたので、そろそろと映像や写真データの整理をしながら取材記をまとめていた今日このごろです。


行く前はあらゆる方々ガタからあらゆる心配をされ、心配されまくってもはや「え、俺はそんな危険区域に行くんか」と逆に自己暗示かけてしまうくらいでした。
母に至っては「好きにし・・・帰るまで連絡せんといて」と言われる始末。
おいおい、ベイルートって、レバノンって、そんなに危ないとこなの?

答えだけ先に言ってしまえば、レバノンの首都、ベイルートの「観光地」は安全です。
いぜん緊張はしていますが、フツーに栄えておりました。


さて。
今一度、今回の旅の目的を整理しますと・・・
元赤軍派メンバー(Aさん、Bさん、Cさんとします)と、丸岡修さんの妹さんに同行し

・今年獄中で亡くなった丸岡修さんの納骨、散骨を撮影
・レバノン内の日本赤軍ゆかりの地に行き、撮影
・岡本公三さんにお会いする
・現地の方から見た日本赤軍という内容でインタビュー
・シャティーラ難民キャンプに行く

というものです。
これは以前にも書きましたが、ほとんどはかなえられました。

以下、取材記録をコピペし、再編集したものを書いていきます。


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某日。
関空にて他メンバーの方々と落ち合うはずが、関空の国際線が初めてだったため、迷いに迷って会えず。
結局そのまま機内へ。

出発ほどなくして機内食。
チキン、腹が減っていたためうまい。赤ワインももらう。映画など観ていたが、眠くなって寝てしまう。


午前3時に起こされ機内食。スクランブルエッグとパン。重たい。


ドバイに到着。トランジットのため降りる。やっと皆さんと合流。自己紹介。

ドバイ国際空港は経由地のためか、いかにも旅人といった客が多かった。とにかく面積がやたらに広く、通路の両側には簡易なリクライニングチェアがあり、そこで休んだり寝たりできるようになっている。電源のステーション的なものもあって、面白かった。


バーガーキングにて休憩。ポテトとコーラ。コーラがやたらでかくて飲みきれず。

ベイルート行きの機内へ。
ここでまたしても機内食。薄いパンが出る。
日本赤軍に関する本や資料にたびたび出てくる「薄いパン」とはこれのことか。

「アラブパン」というらしく、ナンを薄くクレープ状にした感じか。やや塩気があってこれだけでもうまい。

昼にベイルート着。気温は暖かい春のよう。

現地のOさんが迎えにきてくれる。

ホテルに到着し、中のレストランにて今後の予定を立てる。すると、いきなり墓地に行くことになった。
夕方から丸岡さんの納骨ということで、こちらではそうういう手はずだったらしい。
ここで、Oさんに取材内容の希望を伝える。
あらかた「大丈夫、問題ない」と言ってくれた。しかしやはり条件として「コーゾーさんを映してはいけない」と。
残念だったが、もはや覚悟していた。


コーゾーさんとは岡本公三さん。
リッダ闘争(テルアビブ空港乱射事件)で唯一生き残り(手榴弾で自決するはずが、不発のため生き残ってしまった)、イスラエルに捕えられ長年の拷問を受ける。
1985年に捕虜交換で釈放。拷問の影響で精神的な後遺症を患っている。
97年に他日本赤軍メンバーと共に逮捕された折、他メンバーは日本に強制送還されるが、岡本さんはレバノン政府に政治亡命を認められる。
これは、日本側が未だ岡本さんに対し「テルアビブ空港乱射事件」への刑事責任を問おうとしているため。
実際、帰国すれば即逮捕。生きて獄外に出られることはないだろうと言われている。

数年前まではマスコミに露出していたが、近年保安上の理由、その他諸々から露出を控えるようお達しが出ているとか。
存在そのものが極めて政治的な方なので、運命も行動も、政治や国のパワーバランスで決められてしまう。

わたし自身、この映画の最終目的として「ベイルートに行って、岡本公三さんと会う」と設定していたので、『露出不可』の事実を知った時は目の前が真っ暗になった。
それから約半年の今、覚悟の上でベイルートに来ている。



その後、部屋でやや休憩。

荷物整理から間もなく、すぐAさんに呼び出された。
何事かと部屋へ向かうと、墓地で演奏する曲の練習だった。
「兄が好きだった曲で送りたい」と、妹さん、Aさんが企画したものらしい。
Aさんのギターを伴奏に、ビートルズと中島みゆきの『時代』を練習する。
「どっちにしよう」という話になり、聞かれたので「『時代』の方が心に響きますかね」と答えた。それが通ったのか知らないが、実際に歌われたのは「時代」だった。


夕方から墓地へ向かう。
移動時あらためて、車からベイルートの街並みを見る。空爆や銃弾の跡がそのままになったビルが散見された。



レバノンでは75年から90年にかけて内戦、そして首都ベイルートでは、2006年にイスラエルから空爆を受けている。

昔の傷跡がそのままになっているのは、意味があるのだろうか。
何かの本に書かれてあった話では、「建築途中のビルがそこかしこに見られるが、予算が尽きてそのままになっている物件が多い」と。確かに、わたしが泊まった部屋のまん前は、建築途中で放置されたビルだった。
予算が無いからそのままなのか、他に意味があるのかは分からない。

とはいえ、かつて「中東のパリ」と呼ばれた街なだけあり、綺麗なところはとても綺麗だった。ある通りは、まんまパリのシャンゼリゼ通りのようだった。

パリ行ったことないけど。


そんな、傷跡や古めかしさと観光地が一緒くたになった、不思議な空気の街並みだった。






続く
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2 コメント

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Unknown (メル斗)
2011-12-02 11:24:12
あの無理矢理起こされてまで食う
機内食っていかがなもんか?
まあ自分嫌いじゃないけどあの所狭しな雰囲気は。

空爆の跡は実にリアルですねぇ…
多分こんなん生で見たら身震いするんでしょうね、
負の遺産的な扱いにもなっているのでしょうかね。

ベイルートまではどのくらいの
時間がかかったのでしょうか?
Unknown (赤目)
2011-12-04 19:43:39
機内食、慣れてない分ワクワクするんですよね。
この前ネットで自称旅慣れた人が「あんなまずいものは食うもんじゃない」とか言ってたけど、それも旅情じゃねーか、と。
でもそんなまずいかな?

しかし図体のでかい欧米人が小さな机を器用に使ってメシ食ってるの見ると感心します。


内戦の傷跡は、もはや傷跡というより溶け込んでる感があって、そのうち街の景観として見てしまい、麻痺してきました。

ベイルートまでは・・・時差があってどれくらいかかったか忘れちゃいました。
確か関空からドバイまで10時間強、経由に2時間くらい、ドバイからベイルートまでが2時間半とか、そんな感じだったと思います。
ひたすら寝てましたw

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