ヌルハチの肖像画はホンタイジのそれとそっくりです。衣装はほとんど同じです。
ヌルハチは皇帝になる前に死亡したため、この皇帝の証であるこの黄色の衣装を着ていたとは考えにくいでしょう。
しかし、瀋陽に小さな宮廷を作ったり、天を祀ったりしていました。
本格的に清朝を設計したのはホンタイジで、後で廟に祀って清の太祖としたときに肖像画を作ったのでしょう。
ホンタイジも生前に太宗と呼ばれたわけでは無く、廟に祀られたときの贈り名として太宗と呼ばれました。
ヌルハチよりややふっくらして栄養状態は良くなったようです。奥さんは5人ともモンゴル人。モンゴルを味方に付けないと明に勝てないとはっきりしていました。
ヌルハチ時代はチンギスハンの弟の種族ホルチンブが家来になっていました。
ホンタイジになると、昔チンギスハンがそう言われたように、「ホンタイジは立派で公平である」という評判が立ちます。
モンゴルの君主でフビライハンの直系の子孫リンダンハンが当時いましたが強権的で評判が良くありません。
娘の嫁入り先で威張りまくったとかいわれていますが、資料は死後に書かれるので本当のことは不明です。リンダンハンはホンタイジのライバルだったのです。
モンゴルの部族長を懐柔して「リンダンハンに付くよりヌルハチに付く方が未来は開けるよ」と吹きまくります。
モンゴル部族と同盟を結ぶために奥さんはモンゴル人です。満州の中も中央集権ではなく、たくさんの部族がいました。
彼らを家来にすると必ず娘を嫁にやって姻戚関係を結びました。たくさんのお嫁さんは違う部族から来ています。
順次帝は母がモンゴル人、高誼帝は祖母がモンゴル人です。ホンタイジは八男で跡継ぎとなりました。兄弟で争うとその下に側近や派閥ができます。
満州八旗とい言葉があります。満州人は八つの旗のどれかに所属します。旗にはそれぞれ旗王という王様がいます。
ヌルハチの兄弟の有力者がそれぞれ旗王となっています。清の皇帝は最後には3つの旗王を従属させますが残り5つは別の領主の領民でした。
間接的統治の地域となります。年代が経つにつれて血統が薄くなると婚姻関係で結びつきを強めます。
モンゴル史は母方の血筋も大きな影響を与えます。ヌルハチの時は四旗でした。ホンタイジになると拡張してきたため8つに分けました。
しかし染めるのに八色は難しいため縁取りを加えて八旗にしました。正八旗は縁取りなし、じょう八旗は縁取りありというわけです。満州人は旗人と呼びます。
後の北京市フートンの全土にこの人達が住んでいました。満州人と行っても中にはモンゴル系、漢人系もいました。
行政上は満州人で旗の下に集まる人たちです。赤白青黄の色の軍服別に整列すると大変美しい景観です。旗本という日本の江戸時代の制度とよく似ています。
日本と同じ時代のことです。騎馬民族というと野蛮人と考える向きがありますが、支配能力が高く、情報力もあります。言葉もたくさんできます。
現代中国は「清朝の満州族のせいで近代化が進ず、遅れた」と悪口を散々言って、現在中国にたくさんいる満州族を満族といって満州人とは呼ばせません。
「支配階級の皇帝一族だった」と言わないようにして貶めます。「おまえらのせい中国ははこんなに悪くなった」といいます。
しかし、漢人よりよっぽど文化が高いのです。今の中華文明は清朝の支配階級が作った物です。
チャイナドレスもチーパオ旗の服で、一般漢族は着られませんでした。横側のスリットは馬に乗るための物です。軍服にもスリットが入っていました。
満州人の証は弓矢が上手で、馬に乗れて、満州語ができることです。当時まだ明が存在し、モンゴルもゴビ砂漠の北は様子見でした。
中央アジアはジョンガルといって西オイラットがあり大勢力でロシアと繋がっています。
ホンタイジの時はこれからどうするかと言う時代で文武両道に秀でていたと言われます。モンゴル人は人物を見て付いて行きます。
ホンタイジに全員がなびいたと言うことはよっぽど立派な人物だったのでしょう。
日本人も漢民族も「属地方」的に物を見がちですが騎馬民族は「属人」的な見方をします。
騎馬民族は羊さえあれば生きていけるので君主がいやなやつだとすぐ逃げてしまいます。一夜のうちに君主以外全員いないなんて事があるのです。
遊牧民の君主は民を養う公平で正直で周囲がもり立てる人でないと選ばれません。
後釜を決めないで死ぬと大集会が開かれ揉めて、最後には奥さんが出てきます。
「お父さんの言ってきたことを暗唱してご覧なさい!」と叫んで上手にできた人に決まった例もあります。大変な実力主義です。
ホンタイジは満州人をまとめ上げ、モンゴルの大半を味方に付け、漢民族を死に体に追いやり、ついでに朝鮮を叩きのめした人物なのであります。
☆お知らせ
営業日の午後12時~午後4時は、手術、治療業務のため留守番電話にしている場合があります。
フィラリアの予防を開始しましょう。
お休みの日のホテル受付は午前9時または午後7時の二回とさせていただきます。
~新年1月の予定~
3日(木)午前通常営業、午後お休み
4日(金)以降、通常営業

ヌルハチは皇帝になる前に死亡したため、この皇帝の証であるこの黄色の衣装を着ていたとは考えにくいでしょう。
しかし、瀋陽に小さな宮廷を作ったり、天を祀ったりしていました。
本格的に清朝を設計したのはホンタイジで、後で廟に祀って清の太祖としたときに肖像画を作ったのでしょう。
ホンタイジも生前に太宗と呼ばれたわけでは無く、廟に祀られたときの贈り名として太宗と呼ばれました。
ヌルハチよりややふっくらして栄養状態は良くなったようです。奥さんは5人ともモンゴル人。モンゴルを味方に付けないと明に勝てないとはっきりしていました。
ヌルハチ時代はチンギスハンの弟の種族ホルチンブが家来になっていました。
ホンタイジになると、昔チンギスハンがそう言われたように、「ホンタイジは立派で公平である」という評判が立ちます。
モンゴルの君主でフビライハンの直系の子孫リンダンハンが当時いましたが強権的で評判が良くありません。
娘の嫁入り先で威張りまくったとかいわれていますが、資料は死後に書かれるので本当のことは不明です。リンダンハンはホンタイジのライバルだったのです。
モンゴルの部族長を懐柔して「リンダンハンに付くよりヌルハチに付く方が未来は開けるよ」と吹きまくります。
モンゴル部族と同盟を結ぶために奥さんはモンゴル人です。満州の中も中央集権ではなく、たくさんの部族がいました。
彼らを家来にすると必ず娘を嫁にやって姻戚関係を結びました。たくさんのお嫁さんは違う部族から来ています。
順次帝は母がモンゴル人、高誼帝は祖母がモンゴル人です。ホンタイジは八男で跡継ぎとなりました。兄弟で争うとその下に側近や派閥ができます。
満州八旗とい言葉があります。満州人は八つの旗のどれかに所属します。旗にはそれぞれ旗王という王様がいます。
ヌルハチの兄弟の有力者がそれぞれ旗王となっています。清の皇帝は最後には3つの旗王を従属させますが残り5つは別の領主の領民でした。
間接的統治の地域となります。年代が経つにつれて血統が薄くなると婚姻関係で結びつきを強めます。
モンゴル史は母方の血筋も大きな影響を与えます。ヌルハチの時は四旗でした。ホンタイジになると拡張してきたため8つに分けました。
しかし染めるのに八色は難しいため縁取りを加えて八旗にしました。正八旗は縁取りなし、じょう八旗は縁取りありというわけです。満州人は旗人と呼びます。
後の北京市フートンの全土にこの人達が住んでいました。満州人と行っても中にはモンゴル系、漢人系もいました。
行政上は満州人で旗の下に集まる人たちです。赤白青黄の色の軍服別に整列すると大変美しい景観です。旗本という日本の江戸時代の制度とよく似ています。
日本と同じ時代のことです。騎馬民族というと野蛮人と考える向きがありますが、支配能力が高く、情報力もあります。言葉もたくさんできます。
現代中国は「清朝の満州族のせいで近代化が進ず、遅れた」と悪口を散々言って、現在中国にたくさんいる満州族を満族といって満州人とは呼ばせません。
「支配階級の皇帝一族だった」と言わないようにして貶めます。「おまえらのせい中国ははこんなに悪くなった」といいます。
しかし、漢人よりよっぽど文化が高いのです。今の中華文明は清朝の支配階級が作った物です。
チャイナドレスもチーパオ旗の服で、一般漢族は着られませんでした。横側のスリットは馬に乗るための物です。軍服にもスリットが入っていました。
満州人の証は弓矢が上手で、馬に乗れて、満州語ができることです。当時まだ明が存在し、モンゴルもゴビ砂漠の北は様子見でした。
中央アジアはジョンガルといって西オイラットがあり大勢力でロシアと繋がっています。
ホンタイジの時はこれからどうするかと言う時代で文武両道に秀でていたと言われます。モンゴル人は人物を見て付いて行きます。
ホンタイジに全員がなびいたと言うことはよっぽど立派な人物だったのでしょう。
日本人も漢民族も「属地方」的に物を見がちですが騎馬民族は「属人」的な見方をします。
騎馬民族は羊さえあれば生きていけるので君主がいやなやつだとすぐ逃げてしまいます。一夜のうちに君主以外全員いないなんて事があるのです。
遊牧民の君主は民を養う公平で正直で周囲がもり立てる人でないと選ばれません。
後釜を決めないで死ぬと大集会が開かれ揉めて、最後には奥さんが出てきます。
「お父さんの言ってきたことを暗唱してご覧なさい!」と叫んで上手にできた人に決まった例もあります。大変な実力主義です。
ホンタイジは満州人をまとめ上げ、モンゴルの大半を味方に付け、漢民族を死に体に追いやり、ついでに朝鮮を叩きのめした人物なのであります。
☆お知らせ
営業日の午後12時~午後4時は、手術、治療業務のため留守番電話にしている場合があります。
フィラリアの予防を開始しましょう。
お休みの日のホテル受付は午前9時または午後7時の二回とさせていただきます。
~新年1月の予定~
3日(木)午前通常営業、午後お休み
4日(金)以降、通常営業

