1日23時間働け。
私が言っているんじゃない、ナイキ創業者のフィル・ナイトが言っている。
1日23時間、厨房で働き詰めになる覚悟がなければ、レストランなんか開くな。
大前研一さんの以下の本から。この本は2005年の本なのに、古びてない。むしろ新しいことを言っている感。さすが大前さん。
フィル・ナイトの以下の本は、私もまだ完読できてない、、
安倍元首相暗殺犯の母親は高額献金して破産した。これはよく知られている。
でも、今更ですが、よーく考えてみると、その「破産」がナゾ。もっと言えば、高額献金との関係がナゾ。
ってか、高額献金と破産は、むしろ、無関係では?
それを法律的に解説します。
■ 時系列
暗殺犯母親が、ひどい家庭の境遇(夫のDV、荒れた長男)等を理由に、実践倫理宏正会から乗り換えて家庭連合(当時は統一教会)に入信したのが、1990〜91年らしい。だとすると暗殺犯10〜11歳。
1998年に、母親はその父(暗殺犯祖父)の死亡により不動産等を相続。翌1999年(暗殺犯19歳)まで、相続した不動産を売ったりして、1億円の献金を家庭連合にした。
その3年後の、2002年(暗殺犯22歳)のときに、母親は破産した。その年に、父親(暗殺犯祖父)が経営する会社の社長に。
その後、2005年から2015年まで、10年かけて、家庭連合から5000万円の返金を受けた。毎年500万円。結構な額だ。
なお、2009年に、母親が社長だった会社は清算している。清算というのは、プラスの財産を処分する行為。債務超過(資産がマイナス)なら破産だが、破産ではない清算をしたということは、資産がプラスだったということ。
暗殺犯兄が自殺したのは、5000万円の返済を受けた2015年。暗殺犯35歳。
以上、報道ベース。
■ 破産原因は「支払不能」
さて、今更ですが、暗殺犯母親の「破産」って、何の債務が原因なんでしょう。
法律的に、破産は「支払不能」のとき。
支払不能ってのは、「債務者が、支払能力を欠くために、その債務のうち弁済期にあるものにつき、一般的かつ継続的に弁済することができない状態」。
以上、破産法2条11号と15条。
要するに、「支払うことができない債務を負っている」のが、破産原因。
■ 支払不能となった「債務」は何?
では、何の「債務」の支払不能なんだろう。債務はなぁに?
暗殺犯母は、不動産を売って献金したらしい。でも不動産を売ったなら、対価としての現ナマ収入がある。債務を負うわけではない。
また、当然、献金は債務ではない。破産裁判所が献金を債務と認定するわけがない。
つまり、暗殺犯母は、1億円の献金後も、破産するに値するほどの債務を負っていた。不動産売買とか献金以外で。
こう考えると、法律的にも、母親の破産は宗教とは無関係なのでは?と邪推もしたくなる。
考えられるのが、以下3つ。
・選択肢A ーサラ金
選択肢Aとして、献金のためにサラ金等から借りていた? だとしたら、そう報道すればいいところ(統一教会を攻撃するためには格好のネタだ)、そういう報道は皆無、、、
仮にこのA「献金のためにサラ金から借りていた」のであれば、「教会がどれだけ強制的に献金させたか」が問われる。
しかし、当の本人の暗殺犯母は、今でも教会の信者で、教会に感謝・謝罪こそすれ、教会に対して恨みつらみは一切吐いていない。
ってことは、悪どい「強制」はしてないと推測される。だとすると、サラ金は暗殺犯母の自己責任?
・選択肢B ー会社の債務の連帯保証
暗殺犯母は、その父(暗殺犯祖父)が社長だった会社の社長を引き受けて、1996年には4000万円の借金を抱えていたらしい。
とすると、この会社債務を連帯保証していた(選択肢B)? 父親の負債を相続したとか?
しかし、探偵会社のこの サイト によると、暗殺犯母が破産した2002年に暗殺犯母が社長になり(その先後関係は不明)、7年後の2009年にこの会社は「清算」(≠破産)している。
債務超過では清算できない(特別清算=破産に移行する)から、会社財産は要するにプラスだった。
だから、「会社債務を暗殺犯母が肩代わりしてそれが債務になり、それが破産原因になった」とは言い難い。
いずれにせよ、会社債務の連帯保証なら、父債務の相続であろうと、その責任は経営者としての責任なのであって、献金との関係は薄かろう。
・選択肢C ーそれ以外
一方、選択肢Cもある。これは、暗殺犯母が、献金とか宗教とは無関係に、経営する会社とも無関係に、債務を負っていたってこと。
このCだとしたら、暗殺犯母の破産はさらに宗教とは無関係だし、暗殺犯の境遇も、宗教とは無関係ってことに近づく。
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以上、破産した母親が背負っていた「債務」が、
A(サラ金)であれ、
B(会社債務)であれ、
C(それ以外)であれ、
家庭連合の献金との関係は、そんなに強くない、と強く推察される。
さらに有益な情報を入手したら、またご報告差し上げます。
マッキンゼーでは、「Obligation to dissent 異見を言う義務」を行動規範として掲げている。
素晴らしい。
- 同調圧力に負けてはいけない。
- 忖度してはいけない。
- 空気を読んではいけない。
プロとして言うべきことは言わないといけない。
弁護士にもすべからく持ってほしい義務ですね。
家庭連合問題がおかしいと思ったら、dissent (異見を言う、反対意見を言う)義務を負う。
プロはかくありたし。
戦争のとき、特攻隊士は、「天皇陛下万歳」と言って死ぬ人はほとんどいなかった。
ほとんどの隊士が、「お母さん」と泣き叫んで死んでいった。「お父さん」と叫んで死に行った者は皆無だろう。
特攻隊士の遺書で、一番印象深いのは、以下の相花信夫さんのもの。18歳。
「母を慕いて」
母上様御元気ですか
永い間本当に有難うございました
我六歳の時より育て下されし母
継母とは言へ世の此の種の母にある如き
不祥事は一度たりとてなく
慈しみ育て下されし母
有難い母 尊い母
俺は幸福だった
ついに最後迄「お母さん」と
呼ばざりし俺 幾度か思い切って呼ばんとしたが
何と意志薄弱な俺だったらう
母上お許し下さい
さぞ淋しかったでせう
今こそ大聲で呼ばして頂きます
お母さん お母さん お母さんと。
相花信夫
第七七振武隊
昭和二〇年五月四日出撃戦死
宮城県 一八歳
これを読んで泣かざる者は人でない。
反家庭連合の学者に、塚田穂高って人がいる。
その論じているところを見ると、鈴木エイト氏や紀藤正樹弁護士と同程度かそれ以上の「歪んだ」見方をしている方。
共著本をいくつか読んだ。単著でも読んで勉強するかな、、と思ってググっても、ほとんど単著をものしていない。
唯一ともいえる塚田氏の2015年の著書『宗教と政治の転轍点』でも、家庭連合のことについては一切触れられておらず、「鈴木エイトブログ参照」としか書いていないらしい(Amazonレビュー)。
転轍(てんてつ)なんてイミフな言葉を使って一般ピープルを煙に巻こうとするのはエイト氏に似ているな、、なんて言いたくもなる。
塚田さんも、「2015年以前の家庭連合(統一教会)と政治の関わり」については何も触れていなかった。
ズブズブって言えるんですかいな? って事情の一証拠(反証)として使えそうですね。島薗さん同様、塚田さんも、「ズブズブ」陰謀論については、1ミリも鈴木エイト氏を援護射撃できていない。
『人生が整うマウンティング大全』なんて、ネタみたいな本が出ている。
これを読んで、自慢とマウンティングの違いを考えてみた。
ググるといろいろ出てくる。
要は、マウンティングは「上から目線」「上下関係」を前提にする。
自慢にはそれがない。
例えば、子どもが大人に「100点取ったよ!」「かけっこで1番だったよ!」「先生に褒められたよ!」と言うのは、自慢であって、マウンティングではない。
それ以外のすべての自慢は、相手方が「自分が下にいる」と感じたら、マウンティングになる。
つまり、「相手がどう受け取るか」の問題。
話者が(可愛げのある)「自慢」だと思っていても、受け取った側が(嫌味な)「マウンティング」だと思ったら、マウンティング認定される。
そう。
受け手が主役。
パワハラやセクハラと同じですね。やっている人がハラスメントだとは思っていなくても、やられた側がハラスメントだと思ったら、ハラスメント。
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だから、劣等感の強い、コンプレックスを感じている人にとっては、もうほとんどすべてがマウンティングに聞こえる。
大学に入りました、就職できました、結婚できました、子どもが生まれました、、、 こういうやや日常的な会話や報告やSNSのポストも、聞き手が「やられた」と思ったら、マウンティング。
だから、世にマウンティングは溢れている。
同じことを、中卒の人が言ったらかわいい自慢だけど、高学歴の人が言ったら嫌味なマウンティングになる。
ってことなんだと思います。
フォーバル創業者の大久保秀夫さんの本はみんな読んでいる。
立派な方。
この本も、私のクライアントの中小企業経営者にお勧めしたくらい、いい本。
大久保秀夫さんの到達地というか、彼の今を知るにはいい本。
このサイト こちら にある、「社会性」「独自性」「経済性」は、経営の軸(とバランス)を探る上で、参考になります。
森田さんは私と5歳くらいしか違わないけれど、10年くらい前から7冊くらいの本を著されている。
つまり、40代前半から、かなり輝いて本をたくさん書かれてきた方。
小中高から「ぶっとんだ」ことを成し遂げてきた森田さんは、進学校でエスカレーターのように大学まで行った私とは対局にあるような方。
そんな森田さんの本は、実践家・経営者としての説得力がある。道学者臭を感じさせない。
■ リーダーシップの定義
リーダーシップとは、
自分の人生を自分の物差しで自分らしく行きていく力。
また、その生き方が結果として周囲に与える影響力である
文句のつけがたい定義。これをインターン生3名に閃かせたその仕組みというか手法には脱帽しかない。
この本が刊行された2010年くらいにはありませんでしたが、今はこういうリーダーシップをオーセンティック(authentic)・リーダーシップと呼びますね。
私が行っているコーチングも、この自分らしさ(オーセンティックなところ)を掘り起こすコーチングです。
■ 傾聴とは
自分が「聴いている(傾聴している)」と思っているかどうかではなく、
相手が「ちゃんと聴いてもらったと感じている」かどうかが重要
ほんとそのとおり。自戒を込めて。
コミュニケーションは「受け手が主役」ですからね。
定義風に言えば、「傾聴とは、相手にしっかり聴いてもらったと感じてもらうこと」ですね。
■ 人はいつ変わるか
感情が動いたときしか、人は行動変容を起こさない
そのとおりだろう。
だから研修とかセミナーでは、私は「没入感」を最も大事している。
■ コーチング
寸止めFeedback
がいい。最後の一言は、話者(コーチ)が喋り切っちゃうのではなく、「寸止め」して、相手(クライアント)にしゃべってもらう。
クライアント様(の信者)から贈られて来た本。
家庭連合さんの弁護をしていながら、組織トップの本を読まないってことは私のプロフェッショナリズムが許さない。
そこで、ざっとですが取り急ぎ備忘のため:
■ 1976年9月18日 ワシントン・モニュメント
アメリカ建国200年を記念する大講演会
30万人が集まった
■ 文鮮明のダンベリー入獄
1982年
3年で7300ドルの税金を支払わなかった
判決:懲役18か月と25,000ドル
■ 『ショーシャンクの空に』がお気に入り
■ 真の愛の人とは「自分がない人」
…新井奥邃の「有神無我」みたい
■ 日本が「母の国」であるということ
…338頁
やや批判めいたことを書くと、本当に「世界平和」One world under Godを標榜するなら、国家単位、国家ごとに「父の国」「母の国」と定義づける(国境を利用する)のはどうなんだ、って否定的な見方もできよう。
ただ、「組織の規模的成長」を優先的に考えると、便宜的に「国家」という枠を利用することには一理あろう。現実問題として、国家の枠を全く失くして世界宣教なんかはできないだろう、、
たとえば、世界のカラテとか柔術が、白帯と黒帯のみならず、「色帯」ってのを設けて、段階的な成長を促したのも、「級が上がる(色が変わる)ごとに審査料収入を得る」という、経済的&組織的な、メリットがあった。
母校桐蔭学園の同窓会イベントで奔走した。疲労困憊的に帰宅して、昼寝していたら両足太ももが攣って、HELP ME!的に大騒ぎして家族に迷惑を掛けた。
頑張っている(つもりの)家事の手伝いも(ワタシ的には全力投球しているんですが)、家人にはまだまだ不満のようで、私の母校OBと恩師への感謝の意を込めた奮闘ぶりも、家人には「遊び」としか映らない。
ま、私の説明不足とキャパ不足が原因なので、家族を責めるつもりは毛頭ない。
ただ、これを機に「仕事」と「遊び」(や趣味)の違いを考えてみたい。
ゼニを稼ぐのが「仕事」で、それ以外は「遊び」なのか。
でも、営業マンがゴルフをするのは、それが売上に繋がり得るから、「仕事」とも「遊び」とも言い難い。
それと同様、同窓会の幹事ってのは、最も人脈を広げる手段にはなりうる。私がそんな下心を持って幹事をしているわけではないが、「下心がゼロか」と問われると、YESとは言えない。
自営業者・経営者は、いろんなところに顔を出し、いろんな人に接するのも「仕事」。地域のボランティアとかも含めて。
私は「袖振り合うもポテンシャルクライアント」と思っており、かつて自転車通勤をしているときに交通事故に遭遇した際も、その加害者さんをついでにクライアントにできないか、とほぼ瞬間的に思ったくらい。
要は、経営者にとって、「仕事」と「遊び」の区別はない。人生が公私混同なんですね。
これは自己正当化のためで言っているのではなく。
一方、会社に9時5時で働いていても、その7時間、きっちりすべて「ゼニ」に繋がる「仕事」をしているかというと、みんなそんなことはあるまい。サボっている時間もあるはずだ。
だから、「仕事」に見せかけた「遊び」の時間はたくさんある。
そこで考えてみたい。
そもそも、「仕事」ってなんだろう。
金を稼ぐこと?
そうは定義したくない。
私の人生における「仕事」は、「人様のお役に立つこと」である。「人を幸せにすること」でもある。
そのための一手段として、弁護士をして、国際法律事務所を経営している。
また、最近は認定コーチとして、コーチングの「仕事」もしている。人様のお役に立っているという自負がある。
ただ、それのみならず、20年の長きにわたって、渋谷で大人に空手を教えている。新極真会渋谷道場の指導員として。
これも、請求すれば指導料はいただけるのですが、空手と師範に対する恩返しとして、今は指導料を請求していない。完全なるボランティアである。
でも私としては、お金をもらっていないものの、「仕事」の使命感と責任感を持って行っている。
他に、プロボノ(ボランティア)的活動としては、IPBAっていう国際弁護士団体がある。この団体の役員等の役職に長く就いていたが、それにより報酬を受けたわけではない。
でも、創業者の遺志を継ぐ一人として、「仕事」の使命感と緊張感とともに、誇りを持ってボランティアをしている。
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長くなりましたが、ワタシ的には、「人様のお役に立つこと」は、お金をもらえようがもらえまいが、貴重な「仕事」なんですよね、ある意味。
だから、同窓会の幹事をしてたくさんの人に楽しんでもらえることも、私にとっては貴重な「仕事」であり、「遊び」とはわけが違う。
私の昨日の(及びそれまでの)幹事ぶりをご覧頂いた方には、私の言わんとすることが通じるはずである。
それこそ、家庭において、家事を負担したり、子どもの面倒を見るのも、父親及び夫としての、「仕事」。お金はもらえなくても。
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これ以上書くとどうしても言い訳っぽくなりますが、傍から見たら「遊び」に思える営みを、一種の「仕事」と思って、嬉々として、それなりの使命感を持って行っています。
これは、「仕事」をどう英語で表すかって問題ともいえますね。
work, task, vocation, calling,,,
私は、人様のお役に立つこと、世のため人のために貢献することを、広く私のcalling (天職)だと思って、引き受けています。
おって別稿で書きますが、悪名高い笹川良一も、似たようなことを考えていました。
中野毅って人(創価大学名誉教授)の本に、
この「3年で7300ドル」ってのが、家庭連合さんの公式見解なんですね。中野教授の書く金額と同じでした。
文鮮明がわずが7300ドルの脱税で懲役
って書いてあって、えらい低い金額だなって思った。現在価値で100万ちょっと(円安なので116万円)。
過去記事 ↓
40年以上前の話なので、その真偽は詮索していませんが、家庭連合総裁・韓鶴子自伝『平和の母』169ページにも、同じ「7300ドル」の記載があった。3年で7300ドル。ってことは1年で30万円、毎月2.5万円。
この「3年で7300ドル」ってのが、家庭連合さんの公式見解なんですね。中野教授の書く金額と同じでした。
陪審制のアメリカだからだろう、低額の脱税にしては懲役18か月(判決の宣告。実際は13か月の服役?)ってのはやはり重いですね。
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裁判の当否は詮索しません。ある程度、内情は知っているのですが。
そもそも、大昔、例えば戦前の判例はほとんど参考にならない。日本の法実務でも、戦前の判例を参考にすることはほとんどない。大本教とかの弾圧を、判例として扱えませんからね。
同様に、40年前とかの判例の価値は、やっぱり時間と共に低下していく。
例えば、「パワハラ」という言葉・概念がなかった時代の旧世紀の労働判例は、今の時代には先例的価値はほとんどない。
そう考えると、反家庭連合が依拠している「統一教会は裁判で負けた!」って事案も、ほとんど30年くらい前の事案なんですよね、、、どれだけ汎用性・通用性があるか。
数字は忘れてしまいましたが、家庭連合の解散命令請求の根拠とされている献金裁判も、平均して30年くらい前の事案だったはずです。
このように、法実務においては、「いつの事案か」ってのがかなり大事。
裁判書面でも、事実関係に関して、「いつ」の記載がなければ、一気に信用性が落ちます。
内村鑑三が再臨運動(イエスの再来キャンペーン)を始めたのは1918年。
文鮮明の生誕は1920年。
この近接性から、家庭連合における文鮮明メシア論を結びつける方がいらっしゃった。
ググってもこの関係に論じている文章は見当たらない。
私はキリスト教の洗礼も受けておらず、イエスの再臨を本気で信じているとは言えないし、家庭連合の教義も信じているわけではないので、この符合に宗教的な意味を与えようと思っているわけではありませんが、クライアント及び宗教一般を知る一端の、備忘録として。
家庭連合信者の方で、この両者(内村再臨運動と文先生の生誕年)に意味を持たせている方は、どれくらいいらっしゃるのでしょうか?
「聖典」はほんとうに聖典なのか。
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聖典とされるものにも、今の時代にそぐわない記述がある。
冒頭の、剣呑な記述は、マルティン・ルターの残した言葉。キリスト教が愛を標榜する平和主義的な宗教なのか?って問題提起。
聖書の記述をそのまま現代にすべて通用させることができるのか?
離婚とか、女性の扱いとか、体罰とか、献金に関することとか、とても今にはそのまま聖書を「逐語的」に適用できない記述が多い。
イエス最期の金曜日、エルサレムの神殿で、金儲けする人にブチギレして、イエスがちゃぶ台ひっくり返したみたいな「暴れん坊」エピソード。
マタイ21:12−17
あまりに人間的すぎないか。三位一体説を取れば、イエス=神。神がブチギレしてちゃぶ台蹴っ飛ばしていいのか?
エホバの証人がつい最近まで体罰を容認していたのも、旧約聖書で「体罰(愛の鞭)を控えちゃダメ」って書いてあるから。
「聖書をそのまま実践しようとした」ことだけで一冊の本になったりする。
同様に、聖書の教えに忠実であろう、とするのがキリスト教の一派・福音派になる。
要は、世の多くのクリスチャン(世界23億人)は、言葉を選ばずに言えば、聖書の「つまみ食い」をしている。
ーーーーーー
論語だってそうだ。
女子と小人は養いがたし
なんて、男尊女卑そのまんま。
まあ、2500年前のシナにおける文化と教育レベルの低さから、女性を低く見ざるを得なかったのも頷ける?
いや、理性重視の「男性脳」からしたら女子は養いがたし、って言えるだけであって、感性重視の「女性脳」からしたら、むしろ「男子は養いがたし」なんだろう。
私もいつも家では妻に叱られているし(笑)
この辺(男性脳と女性脳の違い)は黒川伊保子氏のトリセツシリーズに詳しい。
ーーーーーー
仏教だって似たようなものだろう。
ブッダの言葉はよく知りませんが、例えば日蓮の「我日本の柱とならん」とかの三大請願とかも、額面通り受け取っていい場合とよくない場合があろう。
禅語でも「仏に逢うては仏を殺せ」ってのがある。
仏を殺せ?
額面通りに受け取るのか、それともその文脈を解釈するのか。
ーーーーーー
このように、どんな聖典も、揚げ足を取って、切り取って、文脈を無視して、悪意に解釈することはできる。
でも、どんな宗教も、ある程度の「つまみ食い」をしているのではなかろうか。
そしてそれでいいのではなかろうか。
ーーーーーー
最近は話題になりませんが、家庭連合の教典の『原理講論』の揚げ足をとって「反日だ!」と攻撃する論者・メディアがいました。
しかし、大事なことは、「経典になんて書いてあるか」ではなく、「今の信者がそれをどう解釈しているか」であるはずだ。
ーーーーーー
なお、本稿の論旨とは外れますが、「つまみ食い」をしないで、創始者の言ったことをそのまま生かしているのが、サイエントロジーさん。
日本では宗教法人とはなっていませんが、創始者ロン・ハバードが膨大な著作と講演を残して、それを「そのまま」生かすのがサイエントロジー。
トム・クルーズとかジョン・トラボルタで有名。トラボルタはサイエントロジーの教えを映画化までしている。
ロン・ハバードが亡くなったのが1986年。死後まだ38年。
いつまでロンの遺作の「逐語的実践」が続くか。見ものである。
教育とは、学校で学んだことをすべて忘れた後に、残るものをいう。
アインシュタイン
ーーーーーー
アインシュタインの名言の中でも、私がいちばん好きなものの一つ。
本当にそう思う。
高校3年生の、12月? 1月? 最後の物理の授業。私は大学受験は物理で選択した。理数科の高校に通い、高2まで理系科目の方が得意だった。
物理の先生(担任の矢口祐一先生、通称「ブー」。高木ブーっぽい容貌から)が、最後の物理の授業で、
俺はアインシュタインになりたかった
と、人生の夢を語った。矢口先生は、隠居された今も、数学だか物理だかの問題を独り解いて楽しまれている。
教育とは、夢を語ること。
誰かがそう言った。
教育とは、背中を見せること。
これに同意しない人はいないだろう。
最後の最後に、夢を追う、その背中を見せた矢口先生に、生意気な高3の私は、「おいブー、いいこと言うじゃねえか、こういうのはもっと早めに言ってくれよ」と思ったのを思い出す。
誠にクソ生意気なガキであった。今もあまり変わっていないかもですが、、
物理のことはすべて忘れてしまいましたが(矢口先生、すみません)、最後の授業で夢をお語りになったその背中は、しかと心に刻ませていただいております。
私も、いつまでも、夢を語る人間でありたい。