広岡ファンでもない。西武ファンともいえない。
でも、合気道とかを修め、中村天風の一番弟子みたいな広岡達朗には、自分の世界がある。精神世界がある。
野球界に、こういう人は珍しい。
だから買った。読んだ。
よかった。
広岡達朗はインテグリティある人だ、というのが第一印象。
広岡達朗伝を読んでインテグリティあると評するのは、世界中で私だけだろう。
インテグリティある - 常に完璧を目指している、という意味で。
自分に厳しすぎるあまり、他にも厳しく映っちゃう、というのは、私と似ているかも、と思った。
広岡達朗は、長生きして、いろんなものに勝利した、といいうる。長生きしてまだ健在で活躍しているからこそ、こういう本が出た。
なんでも、起きたら冷水を浴びる、ような節制をしていたらしい。日頃の節制が寿命を導き、こういう本をもたらす。
なんだかんだ言って、「長生きしたもん勝ち」的なところはありますよね、、、
◆ この本の冒頭で、日本刀で藁を切る見本を見せるくだり
…そうそう、この精神性、武道との親和性が広岡達朗の本質。
◆ 弱小球団を2度も2年半以内に優勝させたのは広岡だけ
名将とされる野村も森も、1球団でしか優勝させることはできていない
◆ 率先垂範の人。プレーの見本を見せる。だから50歳までしか監督をやらないと公言していた。
63歳でロッテのGMになるときも、自宅にコーチを招いて、上半身ハダカで、コーチにスローイングの練習をさせた、、、
◆ 新人時代、一日2000本の素振りを自らに課した
◆ 「打撃の神様」川上哲治は、二軍投手を3人引き連れて、多摩川河川敷(私の自宅近く)で、2時間ぶっ続けで打ち続けた
◆ 川上は、戦時中、「銃弾の雨の中を潜り抜ければ、無の境地を会得できて打撃に活かせるのではないか」というアッタマおかしい思考回路をしていた。
「打撃の神様」ではあったけど、野球の神様でも人間の神様でもなかった
◆ 王貞治はデビューして27打席ヒットなし
◆ 榎本喜八も、荒川道場で、藤平光一から合気道を学んでいた。
ちょっとおかしくなっちゃったみたいな(失礼、人付き合いが下手だった)榎本は、広岡に似ているところがあるな、、、
◆ 王貞治の一本足も、合気道の藤平光一のアドバイス
…これはあまり論じられないのはなぜだろう
◆ 王は常に「長嶋の2倍」練習することを自らに課していた
…実際、ホームランもほぼ2倍打った
◆ 広岡は、引退後、1ドル360円の時代に、半年、世界を見て回った
◆ 広岡は、カープのコーチ退団後、猟官のために(巨人のコーチにしてもらいたくって)、確執があった川上哲治宅を訪れた
…その勇気たるや。「逃げない」人ですね、広岡は。
◆ 「このくそ!」
この一念が、広岡達朗の原動力であった。
◆ 1978年、ヤクルトの初優勝時、監督の広岡達朗は14回も胴上げされた
◆ 新人の工藤公康が、投手連携練習で気のないボールを投げたら、西武の先輩から「おい、出ろ!」と言われて練習の外に出された
…すごいプロフェッショナリズム。
◆ 西武の辻発彦の前で、50を過ぎた広岡が守備の見本を見せた。
辻は「やべぇ、かっこいい~」と思った。
◆ 西武時代、広岡達朗は、選手とともに、1時間も、ランニングをしていた。50歳で、、、
◆ 西武初期、まだグランドもないので、品川プリンスホテルの駐車場でキャッチボールをしたり、高田馬場Big Boxで水泳トレーニングをしたりしていた(!)
◆ 西武監督就任の初っ端、田淵とかをくさした。
田淵は「優勝してやろうじゃないか。優勝して胴上げして、3回はちゃんと上げて、4回めに監督を地面に落としてやろう」とチームに言った。それでチームがまとまった。
◆ 62?63?歳でロッテのGMに。早稲田の後輩小宮山悟に:
「その年でそんなに背筋をピンと伸ばして、姿勢良くボールを獲ったり投げたりできるのはもう人間じゃない。妖怪だ」
と言われた。
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私も、広岡達朗にあやかり、妖怪と言われるように頑張ります!
なお、松永さんの文章は、時系列が分かりにくかったり、主語が分からないところもあり、、何度か読み返しをさせられました、、 次回作に期待!