「正しい」と「正義」は違う。
英語で、right と righteous は違う。
right =正しい は、人の視点。
righteous =正義 は、天や神の視点。
キリスト教とかでいう「義人」はrighteous person.
私が好きなマタイ5:10 義のために迫害される者は幸なるかな は
Blessed are those who are persecuted because of righteousness
です。
right ではなく、righteous なんです。聖書で称揚されている価値観は。
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西郷隆盛も言っています:
人を相手にせず、天を相手にせよ。
西郷のみならず、儒教の価値観でも、「天」はもっのすごくたくさん出てきます。
孟子が 「天の大任をこの人に降さんとするや…」とか。
論語の「天を怨みず、人を咎めず」とか。
同じく論語の「死生命あり、富貴天にあり」とか。
古典をしっかり読む者は、天とか神の視点を持つんです。
人間(じんかん)の視点から一歩抜けて脱皮するんです。
形而下から形而上に進むんです。
天の視点からメタ認知するんです。
正しい(right) から正義(righteous)に進むんです。
10年単位ではなく、100年単位で考えるんです。
生きている間のみならず、死後に何を残すかを考えるんです。
それが古典を読むということの意義なんです。
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明日の広島の平和シンポジウムでは、こんなことも、ちこっとだけ、お話しします。
月刊『致知』の巻頭言に、良寛のいい詩があった。
回首五十有余年
(首〈こうべ〉を回〈めぐら〉せば五十有余年)
人間是非一夢中
(人間〈じんかん〉の是非一夢の中〈うち〉)
こちら(致知ウェブ版)
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人間の是非は、一夢のうち。
人間社会の良い悪いなんて、一瞬のもの。
50年経てば、歴史が証明する。
たとえば、安保反対!とかも、世間から反対された岸信介が独り正しいってことが、50年経って、証明されています。
30年とか50年前の、ロッキード事件とか、マクリーン判決とか、尊属殺人罪とかいう刑罰の存在とか、、、
当時は「正義」だったものが、50年経って「不正義」だってことは、歴史を紐解けば、いくらでも転がっている。
鬼畜米英、ユダヤ虐殺、原水爆開発、、、
こういう50年、100年の視点を持つにはどうすればいいのか。
インテグリティ研修とかでも問いかけたい。
「何を遺して死にたいか」かなぁ。
財産を残して死にたいのか、なんらかの業績を残して死にたいのか、それとも、美しい精神を残して死にたいのか。
その辺の違いのような気がする。
この辺はまた掘り下げます。
五十にして四十九年の非を知る。
淮南子。
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私も今年9月で50歳。気持ちはまだ18歳、、、
18歳の頃に50歳の人を見たら、そりゃあもう父親世代だから、さぞかし大人だなぁと。
しかし50になんなんとして見ると、外見はともかく、中身はあまり成長していない、、、 多少は成長している自負はありますが。
古人曰く、
五十にして四十九年の非を知る。
まさに。日暮れて道遠し。斃れて後已まん。
知恵の増大は不機嫌の減少によって正確に測定され得る。
ニーチェ。
知恵ある者は快活たれ。
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似たような言葉を考えてみる。
■ 品性の向上は感謝の増加によって正確に測定され得る
…年取ると多くの人は感謝するようになります。
感謝しない人はお子ちゃまです。
■ 幸福の増大は笑顔の増加によって正確に測定され得る
…これは平凡すぎる。
■ 気力の増大は筋肉の増加によって正確に測定され得る
…たぶん当たっている
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んー、やっぱりオリジナルを真似て、
⚪︎⚪︎の増加は、▲▲の減少によって…
で揃えた方がいいな。増加は増加によって、では平凡だ。
なにか反比例するものを探せばいいんだな。
■ 知性の増大は愚痴の減少によって正確に測定され得る
■ 品格の増大は他責の減少によって正確に測定され得る
■ 品性の増大は言い訳の減少によって正確に測定され得る
■ 年齢の増大は性欲の減少によって正確に測定され得る
■ 魅力の増大は贅肉の減少によって正確に測定され得る
■ ストレスの増大は睡眠の減少によって正確に測定され得る
■ ハゲの増大は頭髪の減少によって正確に測定され得る
無理に世に出ようとするな。天の時を待て。
ゲーテの畏友が言った:
「まことの人は、彼の義務が要請する時と場合においてのみ、世間の舞台に現われねばならぬが、その他では、一個の隠者として、彼の家族の中に、僅かな友人とともに、また彼の書斎の間に、精神の風土に生活しなければならない」
(M・フォン・クリンゲル)
実力もないのに無理に世に出ても、嘲笑されるだけだ。鈴木エイト氏のように。
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このゲーテ畏友クリンゲル氏の言は、私が好きな史記の
夫(そ)れ賢士の世に処(お)るや、
譬(たと)えば錐の嚢中に処るがごとし。
そっくり。
立派な人間は、キリが袋を突き抜けるように、いずれ世に出るものである。
真理は古今東西を問わない。
君子は以下3つを畏れる。
- 天命
- 大人
- 聖人の言
Godに対してsubmissiveであれというキリスト教のメッセージに近い。
何かを畏れること。
- 尊敬する人物を持つこと。
- ロールモデルを持つこと。
- 好きな漢籍や聖書の一句を持っていること。
これって、すごく大事だと思う。
平日道を蹈まざる人は、事に臨て狼狽し、處分の出來ぬもの也
おお、我が尊敬する小泉信三ではないか。
西郷南洲遺訓
平生から道を踏む。日頃から修行しておく。日々、自分を苛めて、自分に厳しく、律しておく。
それがなければ、イザというときに、狼狽して、処分ができない体たらくになる。
平生のこころがけ が大事ですね。
そんな題名の本もあった。
おお、我が尊敬する小泉信三ではないか。
買って再読しよう。
不義にして富み且つ尊きは、我に於いて浮雲の如し。
私が一番好きな論語の一節。
論語
私が一番好きな論語の一節。
私が一番最初にビビッときた論語の一節。
高校生くらいか。遅くとも大学初期だから10代だったのではないか。
「我において」なんて、現代語チックで、論語らしくないですよね。
だから高校生の私にもすんなり入ってきたのかもしれない。
論語と言えば何を思い出す? と聞かれたら、最初か、3番目までには、この言葉が出てくる。
こういう言葉を聞いて、「かっこいいな」と思った。
そのかっこよさへの憧れが、今の自分を創っているのだと思う。
つくづく、言葉は大事だ。
富貴も淫する能わず、貧賤も移す能わず、威武も屈する能わず、これをこれ大丈夫という。
孟子
こういう言葉を知っているか知っていないかで、人生行路は違ってくると思う。
大学生の頃に、四書五経とまでは言いませんが、大学・中庸・論語・孟子(四書ですね)とかはよく読んだ。
言葉が人生を導く。
言葉が人生を救う。
初めに言葉ありき。
孟子に興味ある方は、 ↑ の一日一言シリーズが一番読みやすいです。
吉田松陰が最も愛した漢籍。
歴史好きの方は是非。
君子固より窮す、小人窮すればすなわち濫る。
論語の中で、とっても孔子らしい一節。孔子らしいというか、素の、孔丘仲尼らしい。
道を説けど、どこからも採用されない、哀れな浪人。
不遇のままに死んだ老人。
それが孔丘仲尼。
パーソナルな生涯では、全く浮かばれず、天を恨んでもよさそうな不遇の人生。
でも、「天を恨まず、人を咎めず」の言葉を残した。
君子だってそもそも窮している。この俺を見ろ。
でも、君子は窮しても乱れない。
小人は、窮したらすぐ取り乱すけどな。
「窮しても取り乱さない」自分に対する強烈な自負を見る。
この俺を見ろ、と行間に書いている。
論語の中でも大好きな一節。
聖人になろうとしないのは卑怯。
西郷隆盛が、西郷南洲遺訓36条で、こんな激しい言葉を使っていた。
聖賢にならんと欲する志なく、古人の事跡を見て、とても及ばぬと云ふような心ならば、戦に臨みて逃るよりなほ卑怯なり。
儒教でもキリスト教でも、究極の目標は聖人・聖者になること。他の宗教でも似たようなところがあるんだろう。
一世の知勇を推倒し、万古の心胸を開拓す
南宋の儒学者、陳龍川の言葉。
藤田東湖が好きだった。それを見た西郷隆盛がいたく気に入った。
西郷が書いたこの書が残っている。達筆。というか剛気。
現世のインテリの批判を恐れず、永久に万人の心を発憤させよ。
うつし世の毀誉褒貶ではなく、将来にわたって永遠に続く名を惜しめ。