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伝統 数秘学批判

http://entee.archivelago.com/?cat=23

ここのENTEE MEMOの筆者はいわゆるスーパーインテリジェンスと言われる人で一般的に普通のインテリは過去から現在にいたるまで,歴史のうちに一つの筋書き,一つのリズム,一つのあらかじめ定められた型を認めている。しかし,『普段何気なく暮らしていても,実は形而上学的な意味で,鎖につながれていながら鎖に気づかない囚人のような自己』からの脱却を目指しており時おり聖書の内容を排撃することも含めこれから世界で起こるであろう悲劇的な未来を冷静に見つめる客観的知的判断材料となるのであれば管理人の歓びでもあります。鎖に気づかない大衆は近道をしなければ指導者に追いつくことができず,破滅にいたる広い道の上(ルカ13:24狭い門参照)に展開することによって,はじめて隊伍をととのえて行進する余地を見出すことが出来る。生命を求めるために,どうしても破滅への道を歩まなければならないとすれば,しばしば不幸な結果に終わるとしても,驚くに当たらない。

反対物の一致《目次》

Wednesday, March 3rd, 2010

善だけの世界もなければ悪だけの世界もない。真実も多くの虚偽があってこそ意味を持つ。これらの言わば認識論的な価値の存在の仕方の中にわれわれの住む世界がある。つまり苦も楽も、それらは互いにその反対物の存在によって存在を許されているのだ。考えてみて見るが良い。一体、全くの不正の無い世界で、どんな正義が意味を持つというのであろう? 一体、まったく自己中心性の無い世界で、どんな自己犠牲が意味を持つというのであろうか? 不正や利己主義の全くない世界において、どんな救世主(キリスト)が意味を持つというのであろうか?

《反対物の一致》

エリアーデがよく問題にした「Coincidentia oppositorum」に関連しての小論考:

#1:原初的な前提

#2:いかにして「忌避すべきこと」が「歓迎すべきこと」に転ずるか

#3:死を欠かさぬものとする聖化の運動について

#4:死を伴わない発展はないことについて

“伝統”数秘学批判
──「公然と隠された数」と周回する数的祖型図像《目次》

Monday, May 19th, 2008

ナビゲータ・メニューの「カテゴリ」から「伝統数秘学批判」をクリックして遡ることでも全文を読むことができるが、およそ94,000文字(2007年3月28日現在)のテキストおよび図版データをわずか数ページで表示しようとするので開くのに時間が掛かる場合がある。《目次》

タイトルをクリック

[1] 序論(上)

[2] 序論(中)

[3] 序論(下): 数性と歴史の回帰の秘儀

[4] “1”の時代(“8”の時代)〜「元型的日曜日」

[5] “2”の時代〜「元型的月曜日」(前半)

[6] 積み重ねられる数的祖型

[7] “2”の時代〜「元型的月曜日」(後半)

[8] “3”の時代〜「元型的火曜日」(上)

[9] “3”の時代〜「元型的火曜日」(中)

[9] “3”の時代〜「元型的火曜日」(中)【挿入節】

[10] “3”の時代〜「元型的火曜日」(下)

[11] “4”の時代〜「元型的水曜日」(上)

[12] “4”の時代〜「元型的水曜日」(中ノ上)

[13] “4”の時代〜「元型的水曜日」(中ノ下)

[14] “4”の時代〜「元型的水曜日」(下)

[15] “5”の時代〜「元型的木曜日」#1

[16] “5”の時代〜「元型的木曜日」#2

[17] “5”の時代〜「元型的木曜日」#3

[18] “5”の時代〜「元型的木曜日」#4

[19] “5”の時代〜「元型的木曜日」#5【補遺 01】[未完]

Venus on Venus 《目次》

Monday, August 13th, 2007

副題:

ウェヌスの黙示録

──秘儀的オブジェとしての貝殻(貝)とそれにまつわる範型的伝統について

主に貝殻とともに描かれてきた「愛と美の女神」ヴィーナス(ウェヌス)を通して伝えられてきた仮説的秘教論

目次:

#1. 【予告編】“ヴィーナスの丘”への付言(仮題)

脱線を覚悟でここで一旦立ち止まって確認しておくべきことがある。

《マリア信仰》はカトリック教化されたいわゆるラテン地域に広く見出される。だが、むしろそれがキリスト教化される以前の土着の慈母神/地母神への信仰を偽装したもので、キリスト教化の早道としてカトリック教会が布教の便宜を図り眼をつぶったものだと説明できる面がある。一方、イコンとしての聖母マリア像は同時にマグダラのマリアの像と重なる部分がある。明らかに傍目から見て瓜二つに描写される二人のマリアを対称に配置することで、二者のその対称性と相似性が強調されてきた。また、「我らが夫人 ノートルダム」と呼ばれることでどちらのマリアを指しているのかを敢えて曖昧にするというような伝統的作法さえも産み出している。後に述べることもあろうが、二人のマリアについての作為的な混乱(攪乱)について論じるのが本稿の目的ではないので言及するだけに留めておくが、南欧の「黒いマリア信仰」などを始めとして、それらはどうやら「マグダラへの崇拝」を「聖母マリア信仰」で隠匿するという巧妙な二重の偽装構造になっていると考えることもできるのである。それは例えばフランスや地中海地方の各地に伝わる「史実としてのマグダラのマリア」の伝説*などの存在とも符合する。

#2. “ヴィーナスの丘”と褥の皺と [1]

西の果ての「聖ヤコブの貝殻」/東の果ての「旭日旗」と「シェル石油」の発端

#3. “ヴィーナスの丘”と褥の皺と [2]

地中海周辺のマリア信仰への一瞥/マグダラの名を持つ貝殻紋様の菓子

#4. 名前と秘教についての関連文書「秘儀(密教)は顕教によって伝えられる」

#5. “ヴィーナスの丘”と褥の皺と [3]

ヴィーナス絵画に伴われる貝殻/性器を連想させる装飾としての貝殻

#6. “ヴィーナスの丘”と褥の皺と [4]

ウェヌスあるいは「性愛と美の女神」の名前への一瞥/そして探査機マゼランが金星(ヴィーナス)から送り届けたもの

#7. “ヴィーナスの丘”と褥の皺と [5]

双子の惑星としての地球と金星/地球人が古代より金星を鏡として写して見せたもの

Jの陰謀
〜 新しいアルファベットを巡る仮説的表象論《目次》

Saturday, April 28th, 2007

#1. Jの陰謀〜 新しいアルファベットを巡る仮説的表象論 [1]

■ 綴り全般の話
■ 歴史的に若い記号“J”

#2. Jの陰謀〜 新しいアルファベットを巡る仮説的表象論 [2]

■ 「J祖型」──ひとつの仮説
■ 聖書における“J”

#3. Jの陰謀〜 新しいアルファベットを巡る仮説的表象論 [3]

■ クリスマス装飾の象徴性
■ 祖型的「自己犠牲」の象徴としての“J”

#4. Jの陰謀〜 新しいアルファベットを巡る仮説的表象論 [4]

■ 20世紀最大の犠牲者“J”
■ 神の名としての“J”:Jah/Yah

#5. Jの陰謀〜 新しいアルファベットを巡る仮説的表象論 [5]

■ 日本──もうひとつの“J”
■ 順列の機能としての“J”
■ 反復される“J”
■ “J”に引き続く“K”
■ “J”に対する概念としての“M”

#6. 関連文:秘儀(密教)は顕教によって伝えられる

“伝統”数秘学批判
──「公然と隠された数」と周回する数的祖型図像 [9]
“3”の時代~「元型的火曜日」(中)

Trefoil: St. Mary of Sorrow333 [図版1]
Hindu Trefoil33333... [図版2]
Fleurs de lys & three magi33333... [図版3]



■ 天上的な“3”と地上的な“3”

これは“3”とその倍数であるところの“6”(そして将来的に“9”)の間にある関係を論じる際に再び取り上げることになるだろうが、ここでは簡単に「数性3」をめぐるもう一つの課題として、天上的な三位一体をあたかも反映したかに見える形で現れる数々の地上的な三位一体について、そして「数性3」の発揮する「上下相似」的、「天地呼応」的な象徴機能について言及する。
 
 
ENTEE MEMOより

過去における他者の《死》が未来におけるあなたの贖罪になる理由(あるいは詭弁)

Pieta

拙論は、
イエスがみずからの身を十字架にかけることにより「贖罪(罪をあがなうこと)」を全人類のために果たしてくれたから、とキリスト教では教えている*

『イエスがみずからの身を十字架にかけることにより「贖罪(罪をあがなうこと)」を全人類のために果たしてくれたから、とキリスト教では教えているというキリスト教の中核ともいうべき(だが大胆な)教義の記述についての解釈論である。

過去に行なわれたキリストの十字架上の刑死が、未来の人間であるわれわれの罪を消し去る「贖罪 しょくざい」であったという考えはどのように成立しうるのだろうか? そのようなことが論理的に成立するのかと言えば、どうしても否と言う誘惑を感じないわけには行かない。。だが、こうした不可解もキリスト者にとっては当然のこととして躊躇いなく受け入れている部分のようである。そもそもどうして過去の聖者の自ら選んだ死が、未来の人間の過ちまで含んでそれらを消し去ることに通じ得るのか? 

こうした疑問は決して真新しいものではなく、キリスト教に対する懐疑の発端としては古典と言うべきものである。例えば、「贖罪【しょくざい】論 」として書かれている解説にもそうしたトーンが反映されているのを見て取ることができる。これは一読の価値がある。(管理人注:多くの聖職者はキリスト教は許しの宗教であると言う。それは過去から現世までを俯瞰して視る能力がない表れでもある)。

ある意味、これは現世を生きる人間にとって大変「便利」な教えである。現世を生きるわれわれがこれほどまでに堕落し、「間違って」いるのは、この免罪符をすでに手に入れたと考えたためではないかと思われるほど、われわれにとっていかにも有利な教えである。もし、「イエスがみずからの身を十字架にかけることにより贖罪を全人類のために果たしてくれた」と受け容れることが、キリスト者への第一歩であるとすれば、そこには信心することに付随する苦悩が存在しないように思えるではないか? 一体このような「決心」のどこが困難な修練となるのであろうか? 聖書時代から視れば、すでに未来の時を生きているわれわれの犯した(あるいはこれから犯す)罪が、過去の“聖者”による行為によってあらかじめ「消し去られている」のであれば、われわれは何をやっても良いという風にさえ、あえて解釈されはしないだろうか?(いや、現にされているのではあるまいか?)私ならそうするだろう』。
 

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詳しくは「課題が見出される庭園」にて http://www.archivelago.com/Garden/ メールはフォームメール経由で http://www.archivelago.com/Garden/Formmail/ ■ Archivelago 宣言(Archivelagoとは、何か?)   http://www.archivelago.com ジョン・ダンはこう言った。「人類は孤島ではない。全体の一部である。すべての人間は、大陸を成す一片、すなわち主要なあるものの一部なのだ*」と。 この言葉をジョン・ダンはヨーロッパと(現在なら当然のように「世界」の一部であることが)了解されているが、おそらく当時「人類」そのものと信じられたある特定の民族集団に言及するための便宜として持ち出した隠喩なのだと読むこともでき、それに引き続く部分を「都合よく省いている」のだが、それは敢えてこだわらない。むしろ、「人は孤島ではない」というワンフレーズにArchivelagoを含め多くの人が共感しているのである。むろん、自覚的にである。 * 誤解を避けるために文章全体をここに転載する。 No man is an island, entire of itself; every man is a piece of the continent, a part of the main; if a clod be washed away by the sea, Europe is the less as well as if a promontory were, as well as if a manor of your friends or of your own were; any man's death diminishes me, because I am involved in mankind; and therefore never send to know for whom the bell tolls; it tolls for you. 「何人も孤島ではない。何人も独りで完全ではない。人はみな大いなる陸のかけら──そのかけらが波によって奪われ欧州の土が無くなるのは、さながら岬が失せるようだ。あなたの友人やあなた自身が喪しなわれてしまうようだ。誰が逝くも、これに似て自らが死に往くに等しい。何故かならば、我もまた人類の一部であるが故に。だから訊かないで呉れ給えよ、誰の為に弔いの鐘は鳴らされるのか、と。それはあなたの為に鳴らされるのだから。」 それにしても「人類は孤島ではない」という言葉ほど、われわれ人類の「一蓮托生」性を表し、共感を誘う言葉はない。そのフレーズは様々なところで引用され、場合によってはジョン・ダンの意図から離れた意味で使われていることもあったに違いない。そしてこの宣言文自体がその範疇から免れぬ可能性がある。 Archivelago主催はこう言う。「人類は絶海の孤島ではない。全体の一部である。すべての人間は、列島を成す島の一つ。すなわち海面下に存在する主要な山脈の一部なのだ」と。 「大いなる陸のかけら」と人類を視た我がジョン・ダンは、流れ行く時間軸というもう一つの捉えられざる次元を勘案することこそはなかったが、現在の、あるいは当時の、ある特定の歴史的瞬間の断面に現れた人類という大陸と、大洋に浮かぶ孤島の群れとしての個人や民族を、そしてそれ自体を成す大陸や岬を、視たのだった。そして、それが一つの大いなる塊(かたまり)であり、魂(たましい)であることをおそらく語ったのである。 だが、Archivelagoはこの類い希なる名言を吐いたジョン・ダンに大いに崇敬の意を払いつつ、このように続ける。 人類とその歴史を、すなわち高さや奥行きをもった瞬間的存在である平面を、平面の垂直方向、すなわち時間軸上に連続的に無限に配置したものであり、三次元的な厚みをもったモデルであると視る。(ジョン・ダンが視たものは、すなわちこのモデルの切断面である。) そして、その時間軸上に伸びて長さをもった人類史の実体は、大陸のような実体としての核があり、その表面の大部分を満々たる水が覆っている。つまり、実体の大部分は海底に横たわるものとして存在する。標高高く大洋の表面から陸地が飛び出せば、われわれの意識の網膜に刻まれ認知できる現象として記録・記憶される。多くの場合は、その行為の意味を問わない職人たちの絶え間ない努力によって、そして時として宗教的な霊感や霊視として通念上受け入れられてきた千里眼的な能力、さらに、近代以降は「天才」と現代人がしばしば呼んでいる人物らの新たな表現手段の発見や工夫などからも多いに触発を受けながら、帰属する民族、社会の通念、信仰の相違を容易に突破する超人的な洞察の内容を伝えてきた。 そして、その記憶がわれわれの歴史(history of art)として認識されているものである。そして、おそらく海面上に現れないものは、かつて人類が「無意識」と名付けた大いなるものである。つまり、そこにありながらわれわれには意識されないために、不当にもそのように名付けられた実存体がその長さをもった本体として通底するのである。 すなわちArchivelagoは、いくつかの島々が孤立して、ひとつひとつ時間的な隔たりを経て、海面上に現れた飛び石のように一見ランダムに配置されているのを視る。だが、海面上に突き出ているそれら絶海の孤島のように見えるひとつひとつの島々は、その海面下では一つの厚みのある長い山脈として繋がっているのである。そして、その島々は時間軸上に辿って行くと、視覚的には距離のあるものとして、時間的には隔てられたものであるように見えながら、無関係ではあり得ない。 誤解を恐れずに換言すれば、この山脈の名前こそが、伝統的な動作、言葉、文字、色、形などの「表現」や「創作物」を介して過去から現在まで、絶えることなく脈々と伝えられてきた大いなる徴のことである。 この僅かに芸術の名で呼ばれるにふさわしいもの(ふさわしいと信じられているもの)は、実は大いなる芸術的本体(the body of Art)の、「五感に触れる部分」に他ならないことを肝に銘じつつ、それを自覚的に未来に伝えて行くという役割を担う運動として、ここにArchivelagoの礎が置かれるのである。 すなわちArchivelagoは、過去より伝えられてきた特定の意味を持った「目に見え耳に聞こえる表象」が「目に見えず耳に聞こえぬ水面下」において根源的につながっていることを表す造語である。Archiveは、あらゆる保管・記録された「作品群・書庫・文書」を表し、Archipelagoは「諸島・列島・群島・多島海」を表す。Archivelagoとは、表現創作物群(archives)をつなぐ、1万年を超える時間軸上に連なる「群島」の別の謂いであり、前掲の理念自体を象徴している。「保管庫列島」「コトノハ群島群書島」。 そして、Archivelagoは、表現ジャンルを問わず、その具現化の下では繋がって共通の聖なるものの顕現(ヒエロファニー)として機能する作品群の総称である。 ■ 古典音楽・即興音楽(ピアノ、オーボエ、声、他)、物書き、仮想庭園園丁、錬金術
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