人称別の僕~肉体の悪魔
http://web.archive.org/web/20071228121521/http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/298.html
早熟で20歳で夭折した天才は早くから父の書斎から,マルキ・ド・サドの「悪徳の栄え」やラファイエット夫人の「クレーヴの奥方」を見つけだし弁証法の手法を覚え,フランス唯物論を身につけた。第一次世界大戦の混乱期に年上の既婚者マルク(マダム・ラコンブ)との愛欲を書いた「肉体の悪魔」はジェラール・フィリップ主演で映画にもなったが,このドン・ファンも36歳で夭折した。「ドルジェル伯の舞踏会」はラディゲが死んだため未完成に終わったが,その後ベルナール・グラッセ書店から出版された。
肉体の悪魔では愚かな母を皮肉を込めて描き,実際にはアンリ四世校を放校処分になったラディゲは気まずいのか,友だちのルネを退学処分にさせている。詩人のマックス・ジャコブはラディゲの才能に驚き,詩人ジャン・コクトウに詩集「燃ゆる頬」を見せるやコクトウは「一番賢明なのは詩がそれに価する時にだけ狂人になることだと」評価し「阿片」の助けをかりた。ラディゲがジャン・ケレビッチに影響を受けていたことは「死を冷静に受け止められるのは,一人でいるときに限る。二人で直面する死は,死とは言えない。たとえ神の存在を信じない者にとっても。心が痛むのは,命を断ち切ることではない。命に意義を与えているものと離れることだ」という文章からうかがい知ることが出来る。この本では最初から最後まで僕という一人称しか使っていない。
「望みをすべて叶えてしまうと(マルクとの愛欲),自分が不当な人間になっていくような気がした。.....人の心に理性にはない道理があるとすれば,それは理性が心ほど思慮深くないからだということを認めなければならない。.....ところが現実には,道徳にさえ背かずにつねに同じ型を追いかけていられるのは,愚かな者達ばかりだ」肉体の悪魔・松本百合子訳より
神は生成の誤謬を理解し,なお自制心を失わない者を極端に嫌う傾向がある。それによって発狂した者には微笑みかける。しかし神も自制心を失いかける時もある。背教者ユリアヌスがミトナ教を愛したときのような場合だ。
『ヤーウエと蛇の遭遇の後に起こるアダムとイブの追放は,人間の堕落にほかならず,新約聖書におけるキリストの受難は人間の救済にほかならない。どの場合も物語りは完全な陰の状態からはじまる。ファウストは知識において完全であり,ヨブは善行と幸運において完全であり,アダムとイブは罪のなさと安楽さにおいて完全である。しかし,陰から陽に移行させる場合,もう一人の役者が必要になる。苦悩や不安や恐怖や反感を注入する敵を登場させなければならない。』これが蛇の役割であり対立物の統一という弁証法...............これが分かれば自殺なんてしなくてもいいのですよ。管理人の長い間の苦悩はこれで解決できたのです。
過去記事は奇跡的に残っていました.......
真珠の首飾り
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