隨縁寺ブログ 道場與三九郎(どうじょう よそくろう)

十方三世の無量慧 同じく一如に乗じてぞ 二智円満道平等 攝化随縁不思議なり  (『浄土和讃』親鸞聖人)

宮城先生 「教行信証聞記Ⅰ」

2018-02-18 11:28:11 | 聞の部屋

『教行信証』題号釈

自らが仏法の歴史の中に見出されてくる。自らが、仏法の歴史の中に見出され、その自らにあらわれている仏法を讃嘆する。

「顕」という一字のところには、まさしく仏法の歴史の中に自己を見出し、見出した歴史を喜ぶという意義が、一言でいえば仏法の存在となるという意義がある。

私たちは、自分の信心の証明を、自分の求道が生きているのかどうかとの証明を、常に世間に求めます。意識して世間に求めるということではなくても、よく反省をしてみれば、つねに自分の歩みの結果とか、それに対する世間の評価によって、自分の歩みというものを支えている、たえず結果とか評価を私たちは気にかけているわけです。それによって勇気づけられたり、挫折感を持ったりする。一つの学習会を持っても、人数が増えたとか減ったとかの外形にとらわれてしまう。そういう歩みである限り、それは世間道にしか過ぎない。自分の歩みの証明を、世間的な結果とか評価に求める限り、その歩みは、ついに世間道を出ない。 <改行> ですから、「顕~文類」というところには、自らの信心の証明を、ただ仏法の歴史にのみ求めるという、一つの決断があるのです。

 


カルト問題は現在進行形です

2014-04-09 08:43:47 | 聞の部屋

 大学入学・都会生活を始められる方、春は要注意です。 

 都会生活が始まる前に、家族で話し合ってみてください。 

  

最近、知人から送っていただいた『さよならS会』という本を読みました。瓜生崇さんという現在は滋賀県のお寺の住職をされている方の体験記で、お寺の報恩講でお話をされたものなので、読みやすい内容のものでした。(笠井武文庫に在ります) 

瓜生さんは、もともと在家の出身でしたが、東京の大学に入学する際、S会からサークルの勧誘で(S会と名乗らない形で)声をかけられ、大学受験の失敗が機縁となって、後に、その会に入会してしまいました。 

12年間入会しましたが、あるきっかけでマインドコントロールされていたことを知り、教団の実態を知り、脱会され、縁あって浄土真宗のお寺に入寺されました。 

昨年、御七昼夜特別企画でもカルト問題は取り上げ、そのなかでも触れましたが、今、特に注意をしなければいけないパターンが、大学入学の折のサークル勧誘です。いくつかのカルト系宗教団体は、自分たちの正体を隠して近づいてきます。例えば「和風キッチンひなた」などといったサークルで、みんなで一緒にご飯をつくって食べて、その後に人生について語り合う、というようなものです。高山から一人都会へ出て、これから友達を作っていこうというタイミングで近寄ってきます。積極的に仲良くなろうとしてきますし、仲良くなったら誘いを断りづらい、という関係をつくろうとしてきます。 

最近では、オウム真理教といった破戒的カルト教団ではなく、精神世界(スピリチュアリティー)やパワースポットといった、ゆるい形で勧誘してくる、本当にサークル的な団体も出てきているようです。 

カルトというのは宗教団体に限ったものではありません、マインドコントロールされ周りの声が聞こえなくなってしまう状態で、反社会的な活動や多額の寄付を求めてくることがあっても、そのことへの疑問を感じない、話し合いが出来ない状態です。そうなると、そこから抜け出すことはかなり困難なこととなります。 

日本人は、特に、安易にカルト性のものに入りやすいとも言われます。特定の宗教を信仰しているかという問いに対して、7割以上の日本人が無宗教と答えたという統計があります。日頃から、信仰をもって生きるとはどういうことなのか考えようとしない国民性が、カルト宗教にはまりやすい要因だとも言われます。信仰を持たないということは、日本では普通かもしれませんが、海外の多くの国では信じられない事だそうです。 

我々宗教者がしっかりしなければということはもとより、みんなで考えなければいけない問題だと思います。 

 


勧衆と帰敬 1

2014-04-03 09:58:12 | 聞の部屋

『観経四帖疏 玄義分』 「勧衆偈」 (帰三寶偈・帰敬偈・十四行偈)

「先ず大衆を勧む、願いを発して三寶に帰し」

 「観衆」と「帰敬」ということは、換言すれば「教人信」と「自信」ということです。

 本当に公開された世界を生きる自分となれるということが、信心の具体的事実だというわけです。真宗は聞の宗教・・・

 親鸞の言葉でいえば「とも、同朋にねんごろ」である世界です。本当に「とも、同行にねんごろ」だというのは、自分が本当に公の世界に目を開いたという感動です。隣人に対してその道を勧めずにはおれない。もし勧めなかったら、それはエゴイストです。                                                  

                                        (廣瀬杲師)