コートジボワール日誌

在コートジボワール大使・岡村善文・のブログです。
西アフリカの社会や文化を、外交官の生活の中から実況中継します。

蟻とキリギリス

2009-02-06 | Weblog
こちらには四季が無い、と書いたら、四季と「働く気力」との関連についてのコメントを頂いた。この論点には、私も大きな関心を持っている。

実際のところ、年中夏という気候が、単に月日のけじめや経過を曖昧にするというだけでなくて、人々の生き方に少なからず影響を与えているという気がする。私の考えでは、そのひとつは、農業のありかたに由来する。年中夏で、日照の豊富なこの地域では、また適当に雨が降る。何かを植えれば、どんどん育つ。マニオク(キャッサバ芋)は、枝の切れ端を植えれば、半年後には芋が出来る。パパイアの木は、苗を植えて1年もすれば収穫できるくらい、つまり数メートルの高さにまで成長すると言う。いや、植える必要さえない。森の中には、バナナでもパパイアでもマンゴーでも椰子でも、何でも生えている。

要するに森は豊かだ。ここの農業は、どうも見ていると「採る農業」であって、「耕す農業」ではない。自然の恵みをいただくのであって、自然の厳しさに挑戦して恵みを作り出すのではない。私たちの感覚では生産、つまり自分の力量で無から有を作り出す行為がなければ、収穫は無い。つまり、働かなければ食べられない。ところが、この年中夏の地域では、汗水して働かなくてもいい。「採る農業」では、無から有を作り出すのではなく、有るところから取ってくるだけでいい。そもそも、汗水することからして、この暑くて湿度の高い気候では、不快極まりない。労働は単に苦痛である。

また、年中夏とは、言い換えれば冬が来ないということである。よって、冬に備えなければならない、ということがない。これは、人々の生き方に影響を及ぼすもうひとつの要素である。この年中夏の気候においては、今日あるものを今日消費しても、明日は明日で別のものがちゃんと手に入る。これは、冬がある日本や欧州などとは大きく事情を異にする。そのうち厳しい冬が必ず巡ってくるならば、秋のうちに収穫を蓄えておかなければならない。しかしここでは、将来に備える必要はない。従って、今の欲求を抑え、蓄えをするという意識が希薄になる。「蟻とキリギリス」のお話は、ここでは成立しない。

だから、年中夏という風土にあっては、働かなければという動機が弱くなり、また将来に備えて貯蓄をしなければという気持ちも生じにくい。これでは、製造業・サービス業といった経済活動や、経済における資本蓄積において、どうしても引けをとる。私たちは、一生懸命働くのが義務であり善である、と考えている。だから、こちらの人々を見て、いまひとつ頑張りが足りない、という気持ちになる。でも、その背景に働くことを最優先に考えなくても良い風土があると理解すれば、あるいはもう少し寛容になれるのではないか。もちろん、同じ年中夏の気候にあっても、東南アジアやインドの人々は働くのに、という疑問はあるが。

そういうふうに、季節の変化がないから働く意欲が起きないのだという話を、コートジボワールの人にすると、半分はそのとおりだが、半分は違うという。違う半分というのは、北半分のことだ。つまりコートジボワールの北半分では、内陸の気候になって、つまり乾燥のサバンナ地域になり、緑豊かな森はなくなる。そして季節がある。季節といっても四季ではなくて、雨季と乾季だ。年に数ヶ月の雨季にだけ、農業が出来る。雨の期間にしっかり耕して、作物を育てなければ、収穫が出来ない。しっかり牛や羊を連れ歩いて食べさせなければ、乾季になって草がなくなる。つまり働かなければ、生活が出来ない。乾季に備えないと、飢えるかもしれない。だから、北半分の人は、働く文化に生きている。

実際のところ、アビジャンで労働している人の出身を聞くと、ほとんどが北部の人であることに驚かされる。商店で物を売っている人々や、タクシーやバスの運転手は、まず間違いなく北部部族の出身者である。ホテルやレストランや、また工場などで立ち働いている人々は、殆どがブルキナファソやマリからの外国人労働者である。

「蟻とキリギリス」の話は、コートジボワールでは成立しない、と書いた。冬が来ないので、キリギリスが困るという展開にはならない、という意味では成立しない。しかし、よく耐えてよく働く北部の蟻は、やがて経済的に成功し、のんびりとその日その日を楽しんでいた南部のキリギリスとの間に、経済的な格差をつけてしまう。それはキリギリスの反感を買うところとなり、様々な社会的な軋轢を生んだ。そうした南北の問題は、この国に政治危機をもたらした。コートジボワールにおいて、「蟻とキリギリス」の話には、やはり深刻な教訓が含まれている。

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