コートジボワール日誌

在コートジボワール大使・岡村善文・のブログです。
西アフリカの社会や文化を、外交官の生活の中から実況中継します。

歴史の汚点

2010-08-26 | Weblog
アフリカの人たちは、奴隷貿易の話をしたがらない。自分たちの祖先が、人間として扱われなかった、悲惨な境遇にあったという屈辱の歴史である。そのような、気が滅入るような過去など、振り返りたくないという気持ちは、当然だろう。そう思っていたら、違う、そういうことからではない、と言う。

そこにはもう一つ、誰もが認めたくはないが、厳然とした事実があるからなのだ。それは奴隷貿易で利潤をむさぼったのは、ヨーロッパ人だけではない、西アフリカのアフリカ人たちも、奴隷貿易の利益を享受していたということである。いや、分け前を得ていたなどという生易しい話ではない。奴隷狩りは、アフリカ人自身の手によって行われたのだ。アフリカ人は、同胞をヨーロッパ人に売り、奴隷に貶めた。アフリカ人にとって奴隷貿易は、悲惨と冷酷の歴史というよりは、むしろ歴史の汚点であった。

ベナンに行くと、首都ポルトノボの丘の上に、お城というか館がある。この館は、17世紀から19世紀末までの3百年にわたりこの地に栄えた、「ダホメ王国(Dahomey)」の王家の居城であった。この「ダホメ王国」は、港でヨーロッパ人商人と取引をして栄えた王国である。その取引とは、アフリカ人奴隷とヨーロッパ製武器の交換であった。王宮を見学すると、男性奴隷だと15人、女性奴隷だと21人で、銃一丁と取引されたというような説明があって、奴隷貿易の歴史が生々しく伺える。

「商品」となるアフリカ人を捕らえるために、ダホメ王国は周辺部族に戦争をしかけた。戦争というより、奴隷狩りである。ヨーロッパから持ち込まれる銃などの武器が、その奴隷狩りに使用され、捕囚の調達をさらに容易かつ残酷にした。捕えられたアフリカ人たちは、手と足を鎖でつながれ、あるいは首かせを嵌められて、コトヌから西に40キロほどの海岸にある、ウイダ(Ouidah)の港に連行された。そこで、道は尽きており、あとは奴隷運搬船に乗るしかなかった。今はウイダの砂浜に、「帰らざるの門(La porte du non-retour)」という大きな記念碑が、海に面してぽつんと建っていて、歴史を記すのみである。

このように、奴隷狩りを行って栄えたアフリカ人王朝は、ダホメ王国だけではない。東隣の現ナイジェリアにあった、ヨルバ人の「オヨ王国(Oyo)」も、18世紀の前半に、奴隷を捕らえてはヨーロッパ人に売り、そのお陰で栄えていた。オヨ王国は、一時はダホメ王国を傘下に従えるほどの勢いを示した。一方で、ダホメ王国の西側、現ガーナの沿岸地域においては、「アシャンティ王国(Ashanti)」が奴隷狩りを行ってきた。

「アシャンティ王国」とは、現ガーナの南西部の都市クマシ(Kumasi)を首都として栄えた、アカン族の王国である。1670年にオセイ・トゥトゥが建国、王国はちょうど盛んになった奴隷貿易で栄え、王国を拡大した。アシャンティ王国が、奴隷狩りを行い、奴隷貿易に従事していたのは18世紀である。その力の源泉は、奴隷貿易で得た大量の武器であった。銃などの火器で攻められると、弓矢で戦う周辺の部族はひとたまりもなかった。そして、19世紀に入り、アシャンティ王国は、英国と度重なる戦争を行っている。それほど、アシャンティ王国の軍事力は強かったのである。アシャンティ王国は、英国との戦争を繰り返して、ついに1902年に英国の軍門に下り、英国植民地に併合された。

大英帝国と堂々と戦い、これを手こずらせたアフリカの王国があったということは、私を驚かせる。なぜなら、植民地の歴史は、文明のヨーロッパ強国が、野蛮のアフリカ原住民を服従させた歴史としてしか、教えられてきていないからだ。実は、アフリカの民族は、白人の支配に抵抗している。植民地国側の歴史がそれを積極的に書かないから、アフリカの抵抗はまるで存在しなかったように考えられている。

でも、アフリカ人には、こうした王国の繁栄と栄光を誇ることには抵抗がある。なぜなら、アフリカの「強国」の軍事力は、奴隷貿易によって築かれたものであるからだ。大西洋沿岸の諸王国が、アフリカ人同胞を売り、武器を手に入れ、手に入れた武器で、内陸部の諸部族を襲撃した。武器の流入は、それまでのアフリカでの部族抗争を、激しく残虐なものと化したのだろう。奴隷狩りが本格化する18世紀に、内陸部の民族移動が、新たな形で起こる。強国の奴隷狩りを逃れるため、強国の手の及びにくいところ、つまり熱帯の密林の奥へ奥へと、人々は移動していったのである。

その当時、コートジボワールの南半分は、人の住まない密林で覆われていた。そこに、18世紀の半ば頃から、東側のアシャンティ王国から逃亡してきた部族が、次々に流入してきた。以前に、アブラ・ポク女王の物語、つまり現コートジボワールのバウレ族の起源の物語を、ご紹介した。この出来事は、王家の跡目争いが元になっているので、奴隷狩りの話とは異なる。しかしながらこの民族移動も、コートジボワール南東部において、18世紀を通じて、東から西へ新天地開拓の人々の動きが大規模に見られたという、歴史的な文脈のなかに位置づけられるのである。

こうして、コートジボワールは、奴隷貿易の余波を受けて、第二の民族大移動の波を経験する。その民族大移動が、18世紀を終えて、おおかた落ち着いたときに、いよいよフランス人の植民活動が始まる。

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