コートジボワール日誌

在コートジボワール大使・岡村善文・のブログです。
西アフリカの社会や文化を、外交官の生活の中から実況中継します。

ドド殿下の村の踊り

2010-05-18 | Weblog

一国のなかで、一番偉い人は誰だろう。もちろん大統領だ。そして、行政・立法・司法という、国を運営するための制度があって、それぞれの制度に、一番偉い人がいる。行政府には首相がいて、閣僚たちがいる。国会には、国会議長、副議長。司法権については、憲法院長が一番偉い。ところが、コートジボワールでしばらく生活しているうちに、どうも少し違うかもしれない、と思い始めてきた。

違うというのは、こういうことである。大統領が一番偉いのは、国民の生活や社会を支配する国家権力というものがあって、その統治機構のなかで一番偉い人であるからだ。ところが、コートジボワールでは国家権力がそれほど国民の生活や社会を支配していない。国の財政が弱く、国家が経済を運営したり、福祉制度に責任を持ったりしている度合いは少ない。国民の側から見ても、税金を納めている人はまれで、国の秩序の中で生きているという感覚は少ない。もちろん大統領の権威はある。でも人々は、大統領には余り世話になっていないのだ。それに、歴史が浅い。大統領や大臣や県知事などは、たかだか半世紀前から偉いと言われるようになったに過ぎない。

むしろ多くの国民にとって、自分たちの生活や社会のなかで、一番力を持っている人は、実は伝統社会の首長である。以前に「ヤム芋祭」に呼ばれ、王様から戴冠されたときに、王様が、人々の尊敬を得ているだけではなく、伝統社会の制度を通じて、福祉、裁判、治安維持といった、村の人々の生活に責任と権力を持っていることを知った。社会の問題は、伝統社会の寄合いが、話し合いで解決している。近隣の社会との「外交」も、伝統社会の枠組みで行われている。多くの国民にとって、国家は抽象的な存在でしかないけれど、王国や村落は具体的に生活を守ってくれる制度なのである。

だから、伝統社会、つまり王国や村落の首長、部族の首長といった人たちが、一番偉い。このことに気づいてから、こういう偉い人々を大切にするようにした。行事に招かれて出ると、貴賓席の一番上席に、私とともに大臣や県知事などが座っている。しかし、これはあくまでも「貴賓席」つまり招かれた側なのだ。主催者の側には、村の長たちが、民族衣装を身にまとい、体中に飾りを身につけて座っている。だから、そういう人々に丁寧にご挨拶をする。私は努めて、そういう人々を意識した演説などをしている。

そのうちに、ナナン・ドドと仲良くなった。「ナナン」というのは伝統社会の首長に対する、称号である。つまりドド殿下である。彼は、ドドコワ(Dodokoi)という村の首長である。そして、ナナン・ドドは、伝統社会の首長たちが、全国規模で形成した連合体、「伝統首長高等評議会(le Conseil Supérieur des Rois et Chefs Traditionnels)」の事務局長を務めている。この評議会は、伝統社会の首長たちの側から、国の政治に影響力を行使していこうという運動で、私が戴冠式を受けたアニビレクロのアニニビレ2世陛下が議長をしている。私にとって、こうしたお付き合いが進んでいるのは、ナナン・ドドのお陰だ。

そのナナン・ドドから、自分の村ドドコワでの式典に、「名付け親」として出席してほしい、という依頼があった。何の式典かというと、自分の「戴冠21周年」記念式だという。21年というのは、こちらの「成人」の歳である。だから、村の長を務めて、ひととおり首長として成熟したということを記念する式典なのである。他ならぬナナン・ドドからの依頼で、それにそんな大事な機会に私に「名付け親」を務めてほしいとは、名誉ある話だ。私は異論なく引き受けた。

ドドコワ村は、アビジャンを北に150キロ走ったアクペ町(Akoupé)から幹線道路を折れてさらに10キロ、アフェリ村(Afféri)を通過して、未舗装の道を17キロ走って抜けたところにある村である。この地域は、アティエ族(Atié)という、アカン系の一部族が住む。だから、ナナン・ドドもアティエ族の首長として、この村を治めている。しかし、この村に住むのは、アティエ族だけではない。カカオ・コーヒーの耕作を主産業にしているドドコワ村には、北部の人々をはじめ、さまざまな部族の人々が入り込んでいる。紛争の時にも、ナナン・ドドは彼ら他部族の人々との共存を維持した。その経験から、全国規模での部族間の対話と共存に、熱心に取り組んでいる。

アビジャンから3時間かけて村に到着したら、アチェ職業訓練相(ドッソ大臣の後任)がいる。ファディガ環境相も来る予定だという(結局他用で代理出席となった)。ヤポ・カリス商業相もやってきた。彼ら大臣たちは、皆アティエ族出身なので、ナナン・ドドのために、私のようにアビジャンから車を飛ばしてやってきたのだ。中央政府の権威も、部族の権威を大事にしているということである。それにしても、職業訓練相といい環境相といい、私が取り組んでいる具体的な案件それぞれの所管大臣が、揃ってアティエ族出身だったとは。

私や大臣たちが貴賓席に座っている。私を「ヤム芋祭」で戴冠してくれたアニニビレ2世陛下も臨席していて、陛下を中心に伝統社会の首長たちも居並んでいる。しかし、ナナン・ドド本人は、そこにはいない。しばらく待っていたら、鼓笛隊と角笛吹きの一群とともに、ナナン・ドドが入場して来た。村の長老たちや、御付きの人々に囲まれている。普段と同じく伝統衣装を身に纏っているけれど、今日は特別、金色の衣装に、体中に金色の装身具を纏って、頭には金冠、手には太い王杓を持っている。

そして、子供たちの行進、そして婦人たちの生活協同組合の行進を皮きりに、記念式典が始まった。ナナン・ドドの栄光を讃える、大臣たちの演説の合間に、踊りなどがある。村の婦人たちが登場し、太鼓のゆっくりした拍子に合わせて、何やら歌っている。歌いながら、腰をかがめて、体を揺らす踊りを繰り返す。
「これは、アンバン・サンバンという踊りです。」
司会者が解説する。そして、その踊りの由来を説明した。

「アティエ族では、古来、祭りのときに、人間を生贄とする風習がありました。もちろん、近代になってそういう風習はなくなり、家畜や鶏などで済ませるようになりましたけれど、実はアティエ族は人間をとって食べるのだ、という噂はいつまでも残っていました。1972年のある日、この村で農夫として働いていたマリ人が、行方不明になりました。どこを探してもいません。ちょうどお祭りの時期であったこともあり、彼はこの村の人々に食べられたのだ、という疑いが、村人たちに掛かったのです。」

「ところが、数週間たって、このマリ人がひょっこり帰ってきた。それで村人たちは喜んだ。ほら、我々にかけられた、食人の悪習の疑いは見事に晴れた。それで、ほんとうのお祭りをしたのです。その時にマリ人の無事を喜んで生まれたのが、このアンバン・サンバンという踊りです。そして、このドドコワ村では、それ以来、外国人であろうが他の部族の人であろうが、一緒に仲良く住んで、大切にするということを誇るようになりました。南北の民族が対立して、お互いに迫害しあった過去10年のコートジボワール紛争の間も、この村では決してそういう悲しい出来事は起こらなかったのです。」

式典は続き、村の長老たちによる、村の歴史の詠唱、そして土地の神様、先祖の霊、森や川の精霊たちへの挨拶の儀式が続いた。そしてここでも、私への名誉村長の戴冠。もともと暑いなかに背広を着ている、さらにその背広の上から、民族衣装の布を巻きつけられ、頭に冠を頂いて、祝福を受ける。私の名前は、「ヤピ・ドド」であると宣言された。

「ヤピ・ドド」は、ナナン・ドドのもとに歩いて行って、彼に抱擁されて祝福を受けた。そして演説台に登壇し、民族衣装のまま背広の胸元から演説文を取り出して、私は演説を始めた。

(続く)

 ナナン・ドドが女性陣に囲まれて入場
傘の下が、ナナン・ドド

 金色に輝くナナン・ドド

 角笛士たちが後に従う。

 伝統音楽の鼓笛隊

 こちらはブラスバンド

 子供たちが行進する。

 婦人団体の行進

 お母さんたち


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