コートジボワール日誌

在コートジボワール大使・岡村善文・のブログです。
西アフリカの社会や文化を、外交官の生活の中から実況中継します。

歴史を大切に(1)

2009-08-19 | Weblog
アビジャンのココディ大学で、一般向けの市民講座をやるという。ガーナにいたアカン族の末裔が、どのようにコートジボワールに移住したか、という歴史についての講義である。これはまさに、私の今の関心そのものだ。ぜひ聴講したい。

ところが、大使であるというのは厄介で、下手に出かけると先方に余計な負担をかけてしまう。何も特別なことをしなくていい、と予めよく伝えていても、特別席が用意され、責任者が出てきて、全員に紹介され、スピーチを求められ、そして陳情まで並んで、大袈裟になる。だから、このたびは全くのお忍びにしようと出かけた。普段着で、私用車に乗って、である。

会場に到着すると、他の車は外に駐車しているのに、門が開いて車ごと中に通されてしまった。私用車といっても外交官ナンバーが付いているから、素性が分ってしまう。案内の人が出てきて、どちらの大使館ですか、と聞くから、日本大使館の者です、と答える。丁寧に一番前の席に案内された。

アカン族の歴史を研究している、アルー・クアメ教授の講義は、とても面白かった。アフリカの民族には、記録媒体がないので、歴史は消えて無くなっていると思われている。確かに本や日誌や手紙などは存在しないのであるが、実は口承文学のかたちで、歴史がかなり詳細かつ正確に分るという。

部族間の対立や、移住などの繰り返しの中で、それぞれの部族が、先祖代々歴史をつたえている。そうした伝承を細かく聞きとって、整理してみると、異なる部族が同じ出来事を、それぞれの言葉で伝えていて、歴史が浮き彫りになってくるのだ、と教授は述べる。教授は、コートジボワールからガーナに及んで、広く聞き取り調査を行い、科学的手法で、アカン族の抗争と移住の歴史を調べ上げた。

アルー・クアメ教授によれば、アカン族の人口増大と、内部抗争の帰結として、すでに17世紀後半から18世紀にかけて、西へ北へと、移住が進んだようである。有名なアシャンティ王国が樹立される前に、すでに17世紀にアンティラ王国という、同じくアカン族の王国が覇を唱えていた。それが、新興のアシャンティ王国との間で、18世紀に入ってから激しく抗争を繰り広げるようになる。

1715年に始まった両国の抗争は、この頃奴隷貿易のために入り込んできていたヨーロッパ人たちの所為で、より激しさを増す。つまり、銃と火薬が持ち込まれたのだ。両国とも、豊富に産出する金や、奴隷を売って、ヨーロッパ人から銃を手に入れた。同じ民族の間で殺戮を行い、脅威を感じた人々は、避難先を求めて大移動を始める。どこかで聞いたような話だ。つまり、カラシニコフが民族紛争を作り、大量の難民を生み出してしまう、現代の地域紛争と、全く同じ構図である。

アシャンティ王国は、1721年になり、アンティラ王国に大攻勢をかけ、両国は激しく戦いを繰り広げる。その結果、西側に向けて大規模な民族移動が始まった。熾烈な抗争は、1732年にも数年間続き、難民を生み続けた。これが、今のガーナのあたりからコートジボワールにむけての、民族大移動の起源である。

バウレ族の創世記、つまりアブラ・ポク女王の英雄譚は、18世紀半ばの話、つまりこの時期から少し後の出来事である。アブラ・ポク女王の物語は、歴史科学的にみると、ガーナ方面からコートジボワール方面にむけて起こっていた、大きな民族移動の流れの、一つのエピソードに過ぎない、ということらしい。

(続く)

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1 コメント

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Unknown (おフランスかぶれ)
2009-08-22 13:24:11
大使も30年くらい前に爆発的にヒットした、アレックス・へイリーの「ルーツ」という歴史小説を覚えていらっしゃると思います。アフリカ系アメリカ人である作者が、自分の家族に言い伝わっていた話を手がかりに、自分のルーツをたどることに成功し、誘拐されアメリカに渡り、奴隷として生涯を終えた祖先クンタ・キンテについて一冊の本としてまとめたものです。

作者があとがきの中で、手かがりの少ない歴史的事実の掘り出しや確認を行なうために取った方法をいくつか説明していました。アビジャンの市民講座で教授が述べられたように、やはりアフリカにおける歴史は口承による伝達という手段をとっているため文献が無く、へイリーも「生きている歴史の教科書」のような人物にアフリカまで会いに出かけ、話を聞いています。その際に、語られる内容を偶然、西洋的の歴史の年号と照合できる事実があり、その具体的な正確さに作者が驚かされたということが書かれていました。

しかしながら、内容は正確でも「歴史の口承人」は数も限られますし、本人に会いに行かなくては話が聞けないという不便さもあります。外国人には言語の壁もあるでしょうし。大使もコートジボワール史の資料探しに苦労されたようですが、やはり、文献のようなもう少し流通性の高い手段でも存在すると、普及度も高くなります。「口承人」の話を録音してテープ起こしをするような形ででも、文字に残すということを予算を持っている人が考えてくれると良いのに、と考えるのは現地事情を理解しない無知な外国人だからでしょうか。
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