コートジボワール日誌

在コートジボワール大使・岡村善文・のブログです。
西アフリカの社会や文化を、外交官の生活の中から実況中継します。

フランス植民地の進出

2010-08-28 | Weblog
18世紀から19世紀にかけて、ヨーロッパに大きな革新をもたらしたのは、産業革命と市民革命であった。フランスにおけるナポレオンの登場と、大陸を駆け巡った彼の征服戦争、ウィーン会議(1815年)を経て、ヨーロッパの国民国家の秩序はおおかた確定した。これ以降、ヨーロッパの国々が、あるいは愛国精神、あるいは経済利潤の追求、あるいは宗教的情熱から、ヨーロッパの外に乗り出して、しのぎを削るようになる。

アフリカ大陸においては、まず英国がアフリカ内陸部の植民地化を試みる。まず、ウィーン会議(1815年)で英国はケープ植民地(現南アフリカ)を手に入れ、次いでスエズ運河を株買収により支配(1875年)、これを契機にエジプトを保護国とし(1882年)、ナイル川を南に下る南下政策を開始した。こうした時期に、19世紀半ばのリビングストンの探検と、彼を引き継いだスタンレーの探検が、国民の熱狂をもって迎えられる。英国は、エジプトから南アフリカまで、大陸を縦に貫くかたちで植民地を拡大していこうと試みた。

これに対抗したのが、フランスである。フランスはまず、アフリカの地中海沿岸を支配下に収めようとした。1830年、アルジェに軍を送りこの町を占領、アルジェリアの保護国化を宣言した。地元の抵抗運動が激しく起こったが、結局屈服させられ、1847年にアルジェリアの植民地化を完了する。さらに、チュニジアを保護国とし(1881年)、次いでサハラ砂漠周辺の広大な地域を植民地として囲い込んでいく政策を進めた。1895年には、現在のセネガル、マリ、ギニア、コートジボワールに相当する地域をもって、「フランス領西アフリカ(l'Afrique-Occidentale française)」を設立すると宣言した。そして、西アフリカから、東の方向にアフリカを横断するかたちで、植民地を拡大する政策をとった。

他にも、イタリア、ドイツ、ベルギー、ポルトガルなどヨーロッパ各国は、アフリカ大陸の分割支配に乗り出していた。ドイツのビスマルクの提唱により、1884年、ヨーロッパ列強をはじめ14ヶ国がベルリン会議を開催した。この会議で、沿岸部を領有した国は、その後背地の領有に権利を有すること、などの植民地化の原則が合意された(1885年)。こうして、アフリカ大陸にどのような王国や民族の現実があるかに全く係わりなく、ヨーロッパ諸国によるアフリカ大陸の線引きと分割が進められていくことになった。

さて、コートジボワールである。フランスは、すでに18世紀の初めごろから、沿岸に貿易拠点を築いてきていた。アビジャンの東の海岸沿いに、アッシニ(Assini、東80キロ)、グランバサム(Grand-Bassam、東40キロ)という2つの町がある。フランス人の植民活動は、1843年にこの2つの町に拠点を築くことから始まった。しかし、しばらくは地元部族との衝突などもあり、部族長たちとの折衝で協定を結び、1857年に、アビジャンの西50キロにある、ダブ(Dabou)という町に貿易拠点を置くことになった。

この当時、つまり19世紀から20世紀の初めにかけても、コートジボワールの南半分はまだまだ深い密林で、人々の進入を簡単には寄せ付けなかった。この密林地帯については、フランスとしても、南の海岸沿いに拠点を設けて、探検を試みて支配領域を拡大していくしかなかった。一方で、北半分のサバンナ地域は人々が住み、経済的にも有意義な地域なので、こちらには軍を派遣して制圧しようとした。ところが、この地域、つまりギニア山間部に至るニジェール川の流域で、地元の部族はたいへん強い抵抗を示した。フランス軍は大いに手こずってしまう。その抵抗運動の代表的なものが、「サモリの抵抗」である。

サモリ(Samory Touré、1830年頃-1900年)は、ジュラ商人の家に生まれ、そのうちにヨーロッパ人から交易を通じて武器を手に入れて、傭兵部隊を作る。1864年に、その頃ニジェール川から北側の地域を広く支配していた「トゥクロール帝国(Toucouleur)」が、王様の逝去とともに分裂した。帝国の傘下にいた将軍たちは、てんでに帝国領土を分割して、自分の王国を作った。この時、サモリも1867年頃までに、武装勢力の一人として王国創設にとりかかる。

そして、今のシエラレオネに拠点を置いていた英国から、最新鋭のライフル銃を購入、またギニアの金鉱山を制圧して、多額の資金調達を可能にした。1878年、サモリは、今のギニアとマリの国境地帯であるカンカン地方(Kankan)を本拠地に、「ワスル帝国(Wassoulou)」の成立を宣言した。ワスル帝国は、3万~3万5千の兵力と、5千頭の騎馬を擁する大軍団であった。そして、サモリ王の「ワスル帝国」は、たちまちフランスの植民地拡大の動きと衝突した。

「ワスル帝国」は、一時は今のギニアからマリ、ブルキナファソ南部、ガーナに至る広い領域を傘下に収めた。しかし、帝国が強大になることを恐れたフランスと英国が、共同してワスル帝国攻略にとりかかる。サモリは敗れ、ギニアの本拠地を捨てて、コートジボワールの北部に移動、そこで態勢を立て直して、引き続きフランス軍との戦争に挑んだ。しかし、1898年、ついにフランス軍に捕らえられ、サモリの抵抗は、完全に制圧された。

フランスは、サモリ制圧の以前に、すでに1893年3月10日、コートジボワールを「フランス植民地」であると宣言していた。この時から、フランスは密林の内陸部への探検を進めて、コートジボワール全土に進出し、人口の集合する大きな村には出先を置いて、植民地支配を制度化していった。それでも、現地のアフリカ人たちは、抵抗を諦めたわけではなかった。20世紀の前半には、各地の部族が抵抗をするのを、フランス軍が武力で制圧するという事件が頻発した。

そういう抵抗を抑えながら、フランスはコートジボワールの植民地化を、着々と進めていった。首都は、最初グランバサムに置かれていたが、1900年にその場所で黄熱病が流行したので、ベンジャビルに移され、最後に1933年にアビジャンに落ち着いた。そして、コートジボワール各地に、行政制度を全国に網羅し、国を南北に縦断する鉄道を敷設し、道路を延ばし、学校・診療所を設けた。同時に、農園開発型の農業を導入し、熱帯木材伐採、天然ゴム栽培からはじまり、やがてカカオ、コーヒー、綿花、ヤシ油といった商品作物の大農園が開発されるようになった。

1950年代には、アビジャン港の開港(1950年)、コス発電ダムの完成(1959年)などを経て、フランス領の植民地の中では最も、開発の進んだ地域となった。そして、コートジボワールの歴史はようやく、ウフエボワニの時代にまで届くのである。

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