時事寸言

時に応じ事象に応じて寸言。

記譜法は

2013年12月22日 | 日記
記譜法を知らなくても楽譜は音に出来ますが、
政治を自分に定義出来なくても政治家と云うが如し。

音符の球を見なくても棒の先端はオクターブを指しますが、
グレゴリア教皇に仕えた女性が若し、居なかったら、
現在の楽譜と記譜法は存在しなかったと思われます。

扨、楽譜は姿形の無い音を記号として全ての人に伝達出来ますが、
深く知る必要は無さそうで音の長さや高低が解れば良い様です。


便利に使うと云う感じですがアマデウスやバッハも、テレパシーに依って、
得た内容を其の記号に依って紙面に記述したと霊魂主義です。

楽譜と音符は何もしませんが人は此れを使って表現できます。

人の身体は本能に依って動作行動を見せますが、
思索考察は姿に現れる事は在りません。

音を使った表現では楽譜を見て、演奏して実現、表現と成りますが、
楽譜を見ても記号のイメージが描けないと観たり聞いたりは出来ません。

人の社会の様に人が沢山、唯、居たとしても社会でも国家でも、
無いのと同じ様に其処に人同士の約束事が守られて初めて秩序は出来、

人の社会と云え国家と云えますが其の国民としての定義が、
自分に出来ない人の場合は悲惨な国家と成りユーラシア大陸に見る、

光景は悲惨を通り超へ終焉を感じますが、
此の日本も例外では無く教育や躾の欠如は御覧の状態です。

音楽も例外では無く、
レオポルド・モーツアルトが嘆く状態と成って居ますが、
地球上でされる音楽も音学では無い様で唯快楽の伴奏品に過ぎず、

嘆かわしい事と思いますが、
当時よりの遺産は唯、音にされて居るに過ぎません。

弾けて何ぼやからとお楽しみも結構ですが、
其の遺産に尊敬や感謝が伴わないと云うのでしょうか、

残された楽譜や表現は勝手放題に改編されての演奏ですが、
作者はよろこんで居るのでしょうか。

自分が演奏する時、自分に作品が無い為、
他人の作品を自分勝手な解釈で演奏すと受け取れますが、

違って居れば幸いと思いながら今、在る演奏形態での演奏を、
鑑賞しなく成った自分を感じています。

然し、其の自分もやがては其の身体を終える事でも在り、
世間から見て一老人の戯言と一笑に付されて終わる事と思いますが、
現在感じた儘を述べるとしたら上記に成るかも知れません。

バッハを演奏する時、
書かれた楽譜は未だ対位法と思われますが、

対位法での約束事がをロマン派時代の約束事で、
演奏は出来ますが少し違うのではと思う私は、

其の演奏を聴きたくないと思い聞かないのですが、
其れも在るのかとも思いますが、
其れは其れを好む人に任せ、作品への尊敬と感謝は其れを拒みます。

バッハの表現を聴けない年代に生まれ、
其の曲の表現がどの様な響きや演奏、演奏習慣での、

若し出来るなら其れを再現したいと望むからですが、
唯、演奏の為の曲と観るなら此の文章は無駄文です。

再現芸術と云うなら現在の自分の思いや手法は否定されますが、
幸い、其の時代の演奏習慣を知り得る翻訳本も在る事ですから、

其の気に成れば叶うと思いますが其の気が無ければ其れまでの事。

然し、私の場合は楽譜再現する時、感じる其の内容を、
現在行われているロマン派以後の音楽手法での演奏とは違う感じで、

感じるのですがロマン派時代の作品を音にする時、
バロック時代の演奏習慣で感じる事は無く、

何故、そう成るのかと不思議に思いますが、
演奏技術が高度に成れば其のレベルと成るとは思いたくない為、
技術と音学感覚は違って在るのかと思えて成りません。

フランス・ベルギー奏法で御指導頂いた指導者は、
演奏見本や解説の無い状態で私が楽譜を解釈した結果を、

何故、解るのかと何時も云われましたが、
楽譜を音に変えながら其の意義が感じ取れないとしたら、

唯の記号翻訳ですが其の記号の音学を感じないとしたら、
私は不思議に感じますしテヌートではロマン派の場合は、
拍一杯でバロックの場合は両隣の音に際立ててと感じます。

感じないとしたら何をか云わん演奏屋。

トリルもそうですが全く違う音学内要と云えます。

然し何を言っても其々、自分の事ですから何かを云う必要は無い。

聴いて、弾いて、楽譜解釈も時代や年代作者に依っても違いますが、
違いが解らないとしたら何も云う事は在りません。

御自分に合った音楽をどうぞ。
コメント