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無神論の本質

2011年11月07日 00時00分00秒 | 日記・ご紹介記事・つぶやき等

無神論の本質
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土佐のくじらさんの日記の転載です

 

こんにちは。

我々は信仰者でございますが、実は、
無神論者も、「神様なんていない。」という教義を持つ、

堂々とした信仰であります。

私は、共産主義を唱えたカール・マルクスの資本論も、
「神は死んだ。」と言った、ニーチェの著作も読んではおりません。

ただ彼らは、

自身の論説の中心である無神論を、”確認”したわけではない・・・

このことは理解できます。

なぜなら、

神がいらっしゃらない・・・ということを、確認する術などないからであります。

同様に、「あの世なんてなかったよ。」と、
あの世に行って(笑)、確認した人もいないのであります。

でもまぁ、彼らとて悪気があってそんなことを唱えたかどうか・・・
恐らく、そうではないだろうと推測いたします。

彼らは彼らなりに、人々に幸福をもたらそうとはしていた・・・とは思います。

共産主義のカール・マルクスは、皆さんご存知のとおりユダヤ人です。
共産主義のユートピア思想も、労働者が指導する彼なりの理想社会も、
旧約聖書から来ているということは、

総裁先生の経典にも記載されていることですね。

つまり、共産主義・・・というのは、

ユダヤ教マルクス派・・・というのが、
一番しっくり来る分類・・・ではないかと思いますね。

つまり、カール・マルクスは、

ユダヤの神を、信じることができなかった・・・

ということではないかと思います。

人はみな、死・・・というものを怖れます。

童謡で、確か・・・

オバケなんてないさ、オバケなんて嘘さ・・・・♪♪

っていう歌が、あるじゃないですか。

ああいうノリが、無神論や唯物論にはあると思うのですよ。

つまり、
ユダヤの神は、裁きの神ですし、妬む神ですよね。

羊飼いのような存在で、人を生かしているのか、
食料と見て、峻別しているのか、さっぱりわからん存在ですね。

そういう宗教思想のもとでは、
死後に、どんなイチャモンを神からつけられるか、全くわからんですよね。

ただでさえ死は怖ろしく、忌むべきものであるし、
誰もが逃れられない、必ず通らなければならない現実なのに、

それを仕切っている”神”なる存在が、羊飼いのような神、
妬み、裁き、罰を与える、ドSキャラの神であるならば、
人は結局救われないのですよ。

そんな神、信じられるか!
そんなの、あってたまるか!

神などいない!
死後の世界もないから、何も怖れるものなどない!

という感じではなかったか・・・と、推測しますね。

こういう流れが、共産主義や無神論には流れているんじゃないかな・・・
と、私は思うのです。

ある意味でマルクスは、神は愛である・・・ということを、
本質的には感じ取っていたかも知れませんね。

結局、死を怖れる人間の本能からの逃避と、
旧約聖書に記載されている神観が、無神論の本質ではないでしょうかね?

素朴な疑問ですけど、
旧約聖書の神は、妬む神・・・ですけど、
この神様は、なぜ妬んでいるんでしょうね?

自分より格下の存在に、妬む必要はありませんね。
自分より、評価の低い存在に、妬む必要もありません。

この、妬む神・・・という表記には、

この神よりも、上の存在、
この神が、妬まざるを得ない存在が、実在する・・・

という意味が、知ってか知らずか、込められているんです。

つまり、旧約の神というのは、
唯一の神でもなければ、トップの神でもない・・・ということですよ。

ですから、現代の無神論者を辿って行けば、
カール・マルクスという教祖が唱えた、立派な宗教なんですけど、

生前のカール・マルクスの見抜けなかった聖書知識もありますし、
科学が進み、時代が進歩し、

新たな評価する母数が変わってきていますので、

今一度その教義自体を、見直さなければならない時期が来ていると、
私は思うんですね。

それこそが、

科学的思想を自負する、彼らの心情に沿うのではないか・・・
と、私は考える次第であります。

つまり、無神論者が本能的に忌み嫌っている神なる存在が、
実はもう、実像が違ってきているんじゃないでしょうか・・・?

ということです。



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