2.
「上洛の準備をせよ。家康に頭を下げに行かねばならぬ」
上杉家の苦闘の道のりは、まだはじまったばかり
・・家康は終始にこやかで機嫌がよく・・景勝に頭を下げさせ、臣下の礼をとらせただけで、(おおいに重畳(ちょうじょう)・・・
上段ノ間に座した家康に対し、武家礼装の布袋をまとった主従は、身を折り曲げるように深く頭を下げた。
「上杉家百二十万石の所領のうち、会津、庄内、佐渡合わせて九十万石を召し上げる。残る米沢三十万石は、従来どおり安堵してつかわす」
・・内陸部の米沢には、日本海側の湊はなく、佐渡の金銀山もない。
翌日、兼続は伏見城にいる本多正信を訪ねた。
「願いの儀とは、何かな?」
「本多どのには、ご子息があられましたな」
二二歳になる二男政重は、いささかいわくつきの人物で・・諸国流浪ののち転々・・関ヶ原合戦後は福島正則の家臣となっている。
(本多政重は諸大名の動きを探るために放たれた、徳川の隠密であろう・・)
「わが息子のことが、何か」
「それがしには、八歳になる嫡男竹松のほかに娘が二人おります」
「ほう・・」
「長女のお松は一三歳・・・ゆくゆく長女お松の婿に、貴家の政重殿をお迎え申し上げたい」・・・
「本多どのさえご承知いただければ、嫡男竹松を廃し、政重どのに直江家の家督を譲りたいと考えております」
そして米沢への引っ越しは、雪の深くなる前におこなわれ、やがて春をむかえた。
内々に兼続が縁組みをすすめている本多正信の二男政重は、福島正則のもとを去り、加賀前田家に仕えるようになっていた。
「政重どのは、徳川の諜者だ。前田家にいつまでも腰を落ち着けているつもりはあるまい。げんに父の正信どのは、わしが竹松を廃嫡し、政重どのに直江家を継がせると言った話に、乗り気になっている」
「諜者と知りながら、お松の婿にお迎えになるのですか。しかも、竹松を廃してまで・・」 とお船
「奥州のかなめの会津から追い出し三十万石に封を削っても、徳川から見れば、上杉家は目ざわりな存在だ。取りつぶしの憂き目にあうかもしれぬ。そうさせぬためには、あえて毒を飲み、家康側近の本多家と太い絆をつくっておくことが必要なのだ」
つづく
凄いと思う。 この決断力と実行力。