最近はとても嬉しいことに、尊敬できる、有り難い助言をしてくださる人達ばかりに出逢えるようになってきた。色んな人の、そのままの人間性の魅力を楽しめるようになった自分はとても幸せだと感じる。
かく昔の自分は(小学校から社会人になっても)先生や師匠に恵まれていないと強く思い込んでいる不届き者であった。ようは、誰も尊敬できずにいた捻くれ者だ。
そしてあの頃は強烈に自己批判ばかりしていた。
だからなのか、目の前に現れる人間も、ことごとくどこか足りないと批判し、友人でさえもどこかにダメなところを見つけることが癖みたいになっていたのである。
外から自分がどう思われてもいるか、という自意識の芽生えとともに、その思考の使い方が激しくなり、ついには感性の自分を否定して、自分の手の組み換え位置を無理やり変えたりしたのだ。なぜかというと、理知的な人は右手を上に組む、という文章を読んで以来、理知的な人間に思われたくて、20年間も無理して思考の優先順位を左脳側に寄せたのである。20年以上強制的に捻じ曲げられた私の意識が、歪んだ事象を映し出していた。
ある日のこと。
とある気功道場に招待されて行った際、キョロキョロして落ち着かないおばちゃんが、私を新参者とみて、思いっきり彼女の思う
“正しい手の型“に合わせて私の手を強い力で捻じ曲げてきたのだ。
道場の先生は達人で、 適当に〜
がモットーで、それが気功上達の方法とずっと言っているのだが、、、真面目過ぎる人は何度気功教室に通おうがその言葉が内側に届くには時間が必要らしい。
しかしそんな現象も、私自身の長年の自我が私という潜在意識を襲った現れなのかもしれない。自分に対して相当無理をさせてきたのだろう。
おばちゃんも気功教室の師匠も、
私が私に気づくために自分がつくりだした
役者なのかもしれないな。
今まで社会的には、一応空気の読める人と思われてるらしい。
だがもう自分がどう思われているかなど、考えるのをやめるつもりだ。
”外から自分をみるというのは、内側に自分ないこと” とどこかでそのセリフをきいて衝撃的だった。私は私という肉体の中に意識がなかったのか?
自分が選んできただろう色んな思考や肉体スペック、それはこの人生で一度きりなのに、なぜ他人と比べたりする必要があるのか?
今まで何十年も肉体の中に意識不在という状態で社会に合わせて生きてきたようにも思えた。
乙女座🌕満月から2日が過ぎ、私はどんどん色んなことやものを手放している。そして、
唯一目指すこと。日々感謝に満たされているという感覚なのである。
余計な力抜いたら、春に小鳥さんが
近くまでよく遊びに来てくれるようになった。今までは鳥が警戒してるのではなく、
自分が緊張してたからそれが伝わってしまってたのだろう。
そして今子供を幸せな環境で育てるのも大切だが、それよりも、どんな環境にあっても幸せでいられる子を育てられる母でありたい。
私はやっと自分の肉体の内側に意識を戻し始めた気がする。
幸せだから、幸せと思うことがいっぱい起きるんだなぁ〜✨ めちゃくちゃシンプルだ。
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呼吸を整えて、心を落ち着かせる。
心が落ち着いていれば、周りは落ち着いて映る。
世界は自分が映し出している。
自分を愛でて、愛して、敬おう。
この身体は切ったり貼ったりするだけでは
動かない、どこかに偉大な存在が居てくれている。
自分という生命の偉大さに感謝しよう。