真理の探求 ― 究極の真理を目指すあなたへ by ぜんぜんおきなわ

日々考えたこと、気づいたことについて書いています。

第百二十三回 「無限」は「有限」において自らをあらわす(その四)

2017-09-14 11:42:16 | 思索
有限の上に有限を重ね、さらにその上に有限を重ねる。そういう風に、永遠に有限を積み重ねたものは、真の無限ではありません。真の無限は、有限な物(もの ding)に自らをあらわします。

イエス・キリストはこう言います。
「木を割りなさい。私はそこにいる。石を持ち上げなさい。そうすればあなたがたは、私をそこに見出すであろう。」(トマスによる福音書)

色即是空。空はあらゆる色に自らをあらわし、存在はあらゆる存在物に自らをあらわします。宇宙でさえ、存在の一つの顔にしか過ぎません。顔と存在そのものは違う。しかし、その一つの顔に、存在の全ては十全に顕示されるのです。

それゆえ、開かれた意識からすれば、宇宙とは、スペースシャトルに乗って見に行くものではない。小鳥や樹木、あるいはそのへんの石ころを見れば、そこに無限の宇宙がある。それらは計り知れない深さをもっており、その深さは一言で言えば、究極の「謎」なのです。

つまり、「謎」や「奇蹟」といった言葉の意味が変わるわけです。それまで、「謎」や「奇蹟」といった言葉は、イエスが水の上を歩くこと、超能力者がとんでもないことをやること、UFOや宇宙人、その他科学的にありえないことを意味しております。

しかし、石ころに「無限」を見るならば、そうした「奇抜な事」には興味がなくなります。特に不思議と感じない。イエスが水の上を歩いたら、なぜそれが奇蹟なのだろうか、イエスが道の上を歩くことがなぜ奇蹟でないのか。

究極の「謎」はまわりにいくらでも転がっております。しかし、それら無限の深さを持った「謎」に対して、「小鳥」「樹木」「石」といったレッテルを貼り付けてしまえば、無限の奇蹟はそのレッテルの奥に隠されてしまいます。

石ころを見て、「石ころ」というレッテルを見ることは、「石ころ」を見ずして「石ころ」の観念を見ているだけに他なりません。「石ころ」という観念を見ても、その場には何の驚嘆も奇蹟も存在し得ない。観念は干からびた死体でしかないからです。

他方、出会いは観念ではありません。出会いは、常に、生きて躍動する生命です。

頭の中で好きな女の子のことをいくら想像しても、それは観念でしかなく、架空の人間でしかありません。しかし、外を歩いていて、道の曲がり角で不意にその子に出会ったならば、その人間はまぎれもなく、生きて躍動する奇蹟なのです。

有限とは、反対概念である無限と対比されるべき哲学的思念なのではありません。

有限とは、正に、今、ここで、無限と出会っている私自身のことなのです。それは頭の中の観念なのではなく、今、正に、その有限を生き、無限という底知れぬ謎と直面している私なのです。

その時、世の中で神秘主義と呼ばれている思想は、その直面の現場では、「主義」でもなければ「思想」でもなく、正に生(なま)の体験となのです。

日本が世界に誇る哲学者、井筒俊彦(1914-1993)は、その生々しい現場について、こう語ります。

以下引用

本来から言えば、神秘主義は人間の根源的欠陥性に、人間の弱点に於いてのみ成立するのである。人間が神ではないから、また如何にしても絶対に神には成り得ないからこそ神秘主義が起るのだ。神秘主義は飽くまで両極間の矛盾的緊張であって、多くの論者が誤解しているような同一性の体験ではない。

「私はただ神と霊魂との二者のみを識らんことを欲する、他のなにものでもなく」というアウグスチヌスの有名な言葉は、この矛盾的緊張の両極を端的に指摘したものであって、此等両極のうちいずれか一方を欠き、或は一方が他方に完全に融合同一化して了う場合は矛盾的緊張関係が在ろう筈はなく、従って其処に神秘主義のあろう筈もない。・・・中略・・・

故に神と魂とは最後まで神秘主義の両極である。そして、若し然りとするならば、此等不可欠の両極のうち、個々の神秘主義的体験の性格を決定し、それに夫々の色彩を与えるものは当然、神ではなくて魂の側に、人間の側にあるのでなければならない。

神は何時、如何なる処、如何なる人にとっても唯一絶対なる実在であって、若し神秘主義の個的性格を決定するものが神であるとすれば古今東西の別なく全ての神秘主義は一になって了うであろう。いや、その場合には、最早、神秘主義ということもなくなって了うであろう。

神秘主義は或る意味に於いて、神と人間との協力なのであり、この協力は具体的な個的人間の魂を場としてのみ生起する。そして、その場の如何によって、個々の神秘主義は決定的に色付けられるのである。

引用おわり
(「読むと書く」 井筒俊彦 慶應義塾大学出版会 381-382頁)

道端の石ころに無限の宇宙を見ることは、意識における究極の状態ではありません。それはVia Mystica(神秘道)のはじまりにしか過ぎないのです。

無限の宇宙は、個人の魂を場として生起するものです。その神秘は、個々の魂という場の如何によって、決定的に色付けられます。

つまり、無限の宇宙について文章を書くとしても、「場」としての個人が未熟なら、未熟なものしか書けないということなのです。

それゆえ、私がこれまでブログを長々と書いてきて痛感することは、まだまだ私には修行が足りないということなのです。


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