修飾語や印象を示す言葉から
頭ごなしに影響される時代は終わったか?
報道管制も無く、また談合報道がままあったとしても、
WEB等にも取材及び表現の自由が確保されている場合、
修飾語や印象を示す言葉は共感されるとは限らない。
TV報道レポーターが印象など主観的な修飾を付けて
伝えるとき、どの立場からの視点かが垣間見られる。
印象操作?
修飾語や印象を示す言葉の例
「自らのイメージを良くしようという狙いを感じさせる」
「このように否定してみせました」
「はぐらかすような一面」
------------------------------------------------
以下 新聞報道での参考記事
通常、社会面では修飾語や印象を示す言葉で記者の目と読者の目がつながることが多い。
“「信じられません」と語った”と、“「信じられません」と悔しそうに語った”では、たった5文字増えるだけで、語った人と記者と読者の心情が交感できる。
例えば、記者が問いかけて、答えを聞き出し、別れ際に挨拶した時、相手が笑みを浮かべたとしよう。
そういう場合に、この笑みを無視するか、笑みを表現するかふたつに分かれる。
表現するとしたら、“寂しそうな笑顔を見せた”と“乾いた笑顔を見せた”と“笑い飛ばした”などと笑みにかぶせる言葉で、取材対象のイメージがまったく別な像を結ぶ。
寂しそう…というと弱者の諦めが浮かび上がり、乾いた、ならクールに事態を受け止めている印象、笑い飛ばした、だと自力で何とかしていけそうな気配を受け取る。そこに記者が伝えたい背景が凝縮されることすら可能になるのである。
政治面や経済面では、修飾語や記者の印象をかぶせる表現は、通常少ない。どう語ったかより語られた内容そのものが大事であり、決定事項の正確な伝達や冷静な分析に重点が置かれるわけだから当然といえばいえる。
党首討論に記者の「読み」を読む
頭ごなしに影響される時代は終わったか?
報道管制も無く、また談合報道がままあったとしても、
WEB等にも取材及び表現の自由が確保されている場合、
修飾語や印象を示す言葉は共感されるとは限らない。
TV報道レポーターが印象など主観的な修飾を付けて
伝えるとき、どの立場からの視点かが垣間見られる。
印象操作?
修飾語や印象を示す言葉の例
「自らのイメージを良くしようという狙いを感じさせる」
「このように否定してみせました」
「はぐらかすような一面」
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以下 新聞報道での参考記事
通常、社会面では修飾語や印象を示す言葉で記者の目と読者の目がつながることが多い。
“「信じられません」と語った”と、“「信じられません」と悔しそうに語った”では、たった5文字増えるだけで、語った人と記者と読者の心情が交感できる。
例えば、記者が問いかけて、答えを聞き出し、別れ際に挨拶した時、相手が笑みを浮かべたとしよう。
そういう場合に、この笑みを無視するか、笑みを表現するかふたつに分かれる。
表現するとしたら、“寂しそうな笑顔を見せた”と“乾いた笑顔を見せた”と“笑い飛ばした”などと笑みにかぶせる言葉で、取材対象のイメージがまったく別な像を結ぶ。
寂しそう…というと弱者の諦めが浮かび上がり、乾いた、ならクールに事態を受け止めている印象、笑い飛ばした、だと自力で何とかしていけそうな気配を受け取る。そこに記者が伝えたい背景が凝縮されることすら可能になるのである。
政治面や経済面では、修飾語や記者の印象をかぶせる表現は、通常少ない。どう語ったかより語られた内容そのものが大事であり、決定事項の正確な伝達や冷静な分析に重点が置かれるわけだから当然といえばいえる。
党首討論に記者の「読み」を読む
4月9日の党首討論は、いろいろな意味で興味深かった。大連立の頓挫で党内では共通の傷を負いつつ、ガソリン税問題や日銀人事でぶつかっている両者が至近距離で向かい合うのだから、人間としての感情がどう絡み合うのか固唾を飲んで見守っていた。
お互い感情を素直に表さないオトボケ系の割には、決して我慢強くはなさそうで怒りっぽいふたりが、あそこまで接近すれば隠しようもなく心の底が滲み出るはず。思わず滲み出ちゃったものは、けっこう本質に近いエキスだったりするから、つい目をこらしたくなるのだ。
さて今回は、そういう感情のにじみや場の雰囲気を新聞はどう活字にするのだろうかという「新聞案内人」としての役割意識も加わって、楽しみに新聞を広げた。
通常、社会面では修飾語や印象を示す言葉で記者の目と読者の目がつながることが多い。“「信じられません」と語った”と、“「信じられません」と悔しそうに語った”では、たった5文字増えるだけで、語った人と記者と読者の心情が交感できる。
例えば、記者が問いかけて、答えを聞き出し、別れ際に挨拶した時、相手が笑みを浮かべたとしよう。そういう場合に、この笑みを無視するか、笑みを表現するかふたつに分かれる。表現するとしたら、“寂しそうな笑顔を見せた”と“乾いた笑顔を見せた”と“笑い飛ばした”などと笑みにかぶせる言葉で、取材対象のイメージがまったく別な像を結ぶ。
寂しそう…というと弱者の諦めが浮かび上がり、乾いた、ならクールに事態を受け止めている印象、笑い飛ばした、だと自力で何とかしていけそうな気配を受け取る。そこに記者が伝えたい背景が凝縮されることすら可能になるのである。
政治面や経済面では、修飾語や記者の印象をかぶせる表現は、通常少ない。どう語ったかより語られた内容そのものが大事であり、決定事項の正確な伝達や冷静な分析に重点が置かれるわけだから当然といえばいえる。
ただ、この度の党首討論は、両者の議論がどこから発せられているか深く読もうとすると、感情のからみや場の雰囲気がけっこう重要なポイントになるのではないかと思っていた。カギカッコだけでは、伝えきれない要素が多くなった時、どんな言葉でそれを伝えるのか、それとも中味だけを伝えるのか。これもまた各紙のカラーを滲み出させるという点で、記者の「読み」を読むという読み比べが楽しめるというわけだ。
一面にしては珍しくスポーツ紙的な見出しで「おおっ!」と目を引いたのは、朝日新聞。“真っ向対決”“逆質問”というのは、スポーツ的かつ芸能的である。リードでも、“感情を爆発させ”“激しくなじった”“負けじと切り返した”と観戦記的な臨場感をかもし出し、文中にも“怒りをあらわにした”“苦笑いした”など、両者の発言がどのような雰囲気の中で行なわれていたかの実況中継の要素が感じられた。
日経はさすがに臨場感より淡々という感じだったが、それでも批判だけでなく“厳しく批判” 反論に“真っ向から”を付け、応酬には“異例の激しい応酬”とした。
読売は、主に福田総理の発言に修飾語をつけた。小沢氏の発言については“首相の批判にも「…(略)…」と反論した”だったが、福田氏の方は“厳しく批判した”“強い不満を示した”と怒りを表現している。
各紙の一面を読み比べてみると、やはりひと言の修飾語で場が再現でき、それによって感じ取れた場の雰囲気でカギカッコ内の発言が深まったり、強まったり、時には額面以下に感じられたりする。
笑いをどう伝えるかでも、印象は変わる。テレビを見た限りでは、福田氏が“逆質問”で“青筋たてて詰め寄った”時に、小沢氏は笑っていたように記憶している。笑いで何を表そうとしたのか、あるいは何を隠そうとしたのか。知りたくて思わず画面ににじり寄ったのだが、小沢氏の笑いには新聞は触れてないんだなあ…と思ったら、読売新聞の一面の写真が秀逸だった。討論を終えて引き上げる両者を映した1枚で、半身に振り返って睨む福田氏に対し、小沢氏は正面からにんまり笑っている。
どんな写真を選ぶかも大きなメッセージで、なるほど!と、こちらまで思わずにんまりしてしまった。
By吉永みち子