新年おめでとうございます。
かつて日本人は元旦を迎えると一斉にひとつ歳を重ねました。
数え年の話です。
例えば、昨年大晦日に生まれた赤ん坊は、翌日元旦には2歳になります。
平成28年で1歳、平成29年で2歳です。
幾度か経験したお葬式の打ち合せでの話。
その年の誕生日を迎えずに亡くなった方の享年は、満年齢に2歳プラスされます。
「お母さまの享年は80ですね」
と申し上げると、
「わざわざ歳を増やさないでください。満年齢の78でやってください」
と、故人の娘さんから言われることがあります。
女性にとって、歳を重ねることは喜ばしいばかりではないようです。
私ごと、昨年あたりより老眼の症状が急に表れました。
小さい文字が読みにくく、財布の小銭入れの中など、暗く細かいところが見えにくい、といった具合です。
不便はありますが、多少の不具合は意識のおごり(この肉体は俺もの、健康順調あたりまえ)を諫めてくれ、老いへの心づもりを促してくれるとして、頂こうと思っています。
思うに、若く万全な肉体とともにあった我が意識は、不遜で傲慢だったものです。
意識は活動していくうえに不可欠で、世間でも“意識高い系”など言われ、高い意識、よくはたらく意識があるのは良い状態と捉えられます。
ところが、仏教は過ぎた意識は慢心過信を生むとして諫められます。
禅の教えでは、心意識の運転を止める坐禅が修行の柱とされます。
宗祖道元禅師は、ココロとカラダを説く際、“身心”と、カラダを先にココロを後に記しています。
ココロは非常に不安定なので、坐禅によりよくカラダを調える。そこに調ったココロが備わると考えます。
武道や茶道、書道といった、道が付くものも同様で、まず形を大事にします。
道元禅師は坐禅の用心を記した普勧坐禅儀の中で、
「諸縁を放捨し、万事を休息して、善悪を思わず、是非を 管することなかれ。心意識の運転をやめ、念想観の測量を止めて、作仏を図ることなかれ」
と仰っています。
坐禅する際は、世事をなげうち、善も悪も、是も非も、あらゆる判断をわすれ、かしずかず、心意識や念想観といったはたらきを全て停止させることを勧められます。
お悟りを開こうという想いさえも戒められるのです。
歳を重ね老いるごと、足元を確かめつつ歩んでまいりたい。
日々を丁寧に、真心込めて勤めてまいりたいと思います。
本年もよろしくお願いいたします。
かつて日本人は元旦を迎えると一斉にひとつ歳を重ねました。
数え年の話です。
例えば、昨年大晦日に生まれた赤ん坊は、翌日元旦には2歳になります。
平成28年で1歳、平成29年で2歳です。
幾度か経験したお葬式の打ち合せでの話。
その年の誕生日を迎えずに亡くなった方の享年は、満年齢に2歳プラスされます。
「お母さまの享年は80ですね」
と申し上げると、
「わざわざ歳を増やさないでください。満年齢の78でやってください」
と、故人の娘さんから言われることがあります。
女性にとって、歳を重ねることは喜ばしいばかりではないようです。
私ごと、昨年あたりより老眼の症状が急に表れました。
小さい文字が読みにくく、財布の小銭入れの中など、暗く細かいところが見えにくい、といった具合です。
不便はありますが、多少の不具合は意識のおごり(この肉体は俺もの、健康順調あたりまえ)を諫めてくれ、老いへの心づもりを促してくれるとして、頂こうと思っています。
思うに、若く万全な肉体とともにあった我が意識は、不遜で傲慢だったものです。
意識は活動していくうえに不可欠で、世間でも“意識高い系”など言われ、高い意識、よくはたらく意識があるのは良い状態と捉えられます。
ところが、仏教は過ぎた意識は慢心過信を生むとして諫められます。
禅の教えでは、心意識の運転を止める坐禅が修行の柱とされます。
宗祖道元禅師は、ココロとカラダを説く際、“身心”と、カラダを先にココロを後に記しています。
ココロは非常に不安定なので、坐禅によりよくカラダを調える。そこに調ったココロが備わると考えます。
武道や茶道、書道といった、道が付くものも同様で、まず形を大事にします。
道元禅師は坐禅の用心を記した普勧坐禅儀の中で、
「諸縁を放捨し、万事を休息して、善悪を思わず、是非を 管することなかれ。心意識の運転をやめ、念想観の測量を止めて、作仏を図ることなかれ」
と仰っています。
坐禅する際は、世事をなげうち、善も悪も、是も非も、あらゆる判断をわすれ、かしずかず、心意識や念想観といったはたらきを全て停止させることを勧められます。
お悟りを開こうという想いさえも戒められるのです。
歳を重ね老いるごと、足元を確かめつつ歩んでまいりたい。
日々を丁寧に、真心込めて勤めてまいりたいと思います。
本年もよろしくお願いいたします。