つぶやき、或は三文小説のやうな。

自由律俳句になりそうな、ならなそうな何かを綴ってみる。物置のような実験室。

月と三文思考

2016-05-16 21:58:47 | 文もどき
月がとっても蒼いから、遠回りして帰ろう。
最短コースの家路で歌う。
月の沙漠を遥々と、ふたつ駱駝が往きました。
アスファルトを踏み鳴らして唄う。
月が綺麗ですね。
面映ゆい気持ちで立ち尽くす。
彼女はあの日、見知らぬ私にそう言って月を見上げた。原宿駅は目の前、歩道橋での出来事だった。
楚々とした品のある婦人の声は雑踏をすり抜け、まっすぐに飛び込んできた。はたと足を止め、見上げるは蒼くまろやかな満月である。スーパームーンとかいうゴージャスな言葉が台頭する以前のことだ。あの日の月は、ただ瀟洒に夜に浮かんでいた。
しばし月を見上げて同じ時を共有していた我々の逢瀬を破ったのは連れである。確かに仕事の途中ではあった。だが、あまりに不粋がすぎる。
内心で憤慨した私を傍目に、婦人は気を悪くした風でもなく別離を口にした。さようなら、と言ったのか。それとも、ごめんください、か、ごきげんよう、だったか。今となっては失われた言葉で、思い出すことに意味はない。
遠い日の記憶が、月を前に鮮やかに浮かびあがる。彼女は今も月を見上げているだろう。生ある限り、私たちはいつまでも同じ月を見ている。