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LDとアスペルガーのボーダーの息子と共に歩いている母の日記

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『だいじょうぶの小石』

2012年05月06日 | 子供のこと
先日、娘の試合の都合で急きょ、娘と二人で実家に泊まることになった。
娘を試合会場に送って実家へ。早朝だったため、パジャマ姿の父が出迎えてくれた。
娘と一緒に朝食を済ませていた私は、ふたりが朝食を摂っている間、手持無沙汰で
両親の定期購入している月刊「人間」(人間社)の表紙の「生死を考える」に興味を引かれ、
読み始めた。杉田百郎さんの「生死を考える」、その内容に、ちょっと感動!!
 中でも、一番目から鱗だったし、時にどうにもならない時こんな受け入れ方もあるのか!!
とおもったのが、「だいじょうぶの小石」ちょっと本文を抜粋
だいじょうぶの小石
渡辺和子著「忘れかけていた大切なこと」(PHP文庫)に、青山俊董老師の著書「禅のまなざし」(鈴木出版)
の中から引用されていた「だいじょうぶの小石」の話がある。 
 これから手術を受けようとする人に「だいじょうぶ」と書いた小石を手に握らせたので、その人は、
手術がだいじょうぶと思っていたら、そうではなく、どっちに転んでもだいじょうぶということだという。
 手術がうまくいってもいかなくても、また、運悪く亡くなってしまったとしても、だいじょうぶという
ことである。 腹をくくってお任せする以外どうしようもない事があり、どっちに転んでもそれも運命と
諦める以外にはないが、なかなかそう思えないものである。
 渡辺氏はそれを、祈れば神は私の思い通りにしてくださる・・・とういのではなく、どっちに転んでも
だいじょうぶ、神は悪いようにはなさらないという信頼、腹の据わった心構え、そのものをもって祈る
ことが大切なのだときづいたのである。「祈りは神を変えません。私を変えるのです。・・・私たちの意の
ままになる神は、神ではなくなります。私がどう願おうと、神はご自分の御心を行ないになるのです。
私は欲しいものを願うけれど、神は要るものをくださるのです。」
 これは、病気になった時の苦しみや天災、人災を自分の運命として日々送るのではなく、神のはからい
として受け取ることが、だいじょうぶと言うのである。

 特に、宗教の本ではないけれど、子どもの頃、文章の中に宇宙とか気とか出てくるので、
わけがわからず殆ど読まなかった。でも、この歳になって読むと何やらしっくりきたりする。
 自分のことも、卵巣がんと闘っている友達のことも、利用者さんたちのことも・・・
いろんなことが必要なことなのかな~と思ってみようとしたけど、
まだまだ私にはそこまでの境地に達することはできない。
運命を腹をくくって受け止める・・・難しいでしょう。息子のことで毎日イライラしてしまう私には・・・  
 でも、いつかもっと理解できる日が来るかもしれない。
人に「だいじょうぶ」と言うのは好きじゃない。気休めみたいな言葉はかえって突き放すみたいで嫌い
なんだけど、だいじょうぶにも、いろいろあるんだな~。でも、やっぱり簡単に人には言えない。
 でも、なんとなく思うのは、「神は要るものをくださる」ってことかな。
 息子のことを育てながら、この子のせいで、この子がいるから・・・といつも息子のことを叱りながら、
私の人生が台無しじゃん!!みたいに思っていた。だから、なおさら息子のやることに腹が立った。
ほんとにこのまま死んでしまいたいと何度も思ったけど、行き着くところまで行った時、
「今私に起こっている息子の問題は、息子ではなく、私に出されている問題(宿命)なのかも!!」と、
ふと思って、それがすごく腑に落ちて、楽になった。
何とか私の力で息子を変えようとしてたけど、変わるべきは私自身だったのか!!
 あの日から、息子との関係がすごく変わったと思う。
日々振り回され、ストレスも今だいっぱいあるけど、息子は息子で自分の問題を抱えて頑張っている
息子なりに。それにかかわる私の思いやストレスは自分で何とかするしかないのだし、
私が変わっていくチャンスなんだ、と。
息子の存在は、私が変わる為に必要なものなんだと。
 だいじょうぶ、とは違うけど、視点を変えるって大事だと思う。自分の為に。
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