ザウルスの法則

真実は、受け容れられる者にはすがすがしい。
しかし、受け容れられない者には不快である。
ザウルスの法則

”謝罪”とは何か? ”謝る”とは何か?

2012-11-28 11:20:49 | 哲学・歴史・考古学

 ”謝罪”とは何か? ”謝る”とは何か?

ある言葉が一般的にどのように理解されているかを知るためには、いわゆる権威があるとされている国語辞典を参照するのが手っ取り早い。

 

 「謝罪する」「謝る」 

     過失や罪を認めて  許しを求める。 (広辞苑)

      A                 B             (筆者の補助記号)      

 

この定義は一見単純な構造を持っているように見える。しかし、前半と後半の関係があいまいであることがすぐにわかる。「Aして,Bする」は2つの行為が時間的に順に継起するかのようである。ところが、よく吟味すると、「過失や罪を認めるという条件で」ということであって、“条件”の意味であることがわかる。いずれにしても、Aだけでは謝罪にならない。Bだけでも謝罪にならない。AとBがいわばセットになって「謝罪」が成立するという構造であるように見える。

 さらに前半部分Aから分析してみよう。この「過失や罪を認めて」はどういう意味か。ふつうに解釈すれば、責任を承認することである。相手のこうむったその被害の原因が自分にあること、もしくは自分の行為が社会のルールに反していることを認めることであろう。事実認定を含む責任承認 と理解してよさそうである。しかし、この「過失や罪を認めて」はいわゆる“反省”の意味を含意しない。「過失や罪を認めている」からといって、いわゆる“反省している”ことにはならない。“責任承認=反省”ではない。因果関係や反社会性・違法性を認めながらも、逆に挑発的な“無反省”という場合もありうる。

 

 「よーするに、わたしの前方不注意で轢いちゃったのよ。そうね、わたしに100%原因があるわよ。でもさ、もう起きちゃったことはしょうがないじゃないの」

 「持ってたのは事実さ。今さら否定なんかしねーよ。それが法律違反だってことも認めるさ。でもよ、誰にも迷惑かけてねーんだぜ」

 

広辞苑の定義、「A:過失や罪を認めて、B:許しを求める。」をそのまま当てはめると、こうなる。

 

「A:よーするに、わたしの前方不注意で轢いちゃったのよ。そうね、わたしに100%原因があるわよ。でもさ、もう起きちゃったことはしょうがないじゃないの。

B:ちゃんと認めたんだから許してちょうだいな」

 

 「A:持ってたのは事実さ。今さら否定なんかしねーよ。それが法律違反だってことも認めるさ。でもよ、誰にも迷惑かけてねーんだぜ。

B:堪忍してくれや、頼むよ」

 

広辞苑の定義によれば、これらも「謝罪」ということになろう。 いかがであろうか。責任承認を意味する「過失や罪を認めて」のフレーズは「謝罪」の定義に不可欠の条件であろうか?むしろ「過失や罪を認めること」は「謝罪」の定義の条件としては不可欠どころか不要ではなかろうか。

 はっきり言わせてもらえば、「謝罪」に必要なのは「責任承認」ではなく 「反省」 ではなかろうか。両者は別物である。反省のないただの責任承認では被害者が満足しない 公算が大である。なぜか?世間一般ではそういうものを「謝罪」とは認めないからである。申し訳ないが、広辞苑による「謝罪」の定義はいささか常識に乖離している印象がぬぐえない。そこで、広辞苑の定義を少しいじくらせていただく。

 

 過失や罪を認めて  

  反省の意を示し、  許しを求める    (代替案1)

  

こうすれば、被害者側に受け入れてもらえる公算が多少大きくなるように思うが、いかがであろうか。

 さてそれでは、次に後半部分Bの 「許しを求める」 を見てみよう。まず、一つの素朴な疑問がある。「謝罪」には果たして「許しを求めること」 が必要条件であろうか?「求める」ということは何らかのかたちで要求することである。何らかの要求をする場合、人間社会では通常、言語を用いる。

率直に尋ねよう。ひとは「謝罪」 に際して必ず 「許してください」 と言うであろうか?「堪忍してください」 「勘弁してください」 でもいい。このグループのフレーズを口に出して言わないと 「謝罪」 として成立しないであろうか?わたしはそうは思わないのである。これらのフレーズを口にして許しを乞う場合もあろうが、それは一般の謝罪においてむしろ例外ではないだろうか?仮に例外ではないとしても通例ではないとわたしは確信するのである。少なくとも通例ではない、つまり一般的ではないのであるならば、定義に加える条件としての資格に欠けやしないだろうか?ここでおそらく人やあって、「求める」 は単に 「願う」 の意味で、「平和を求める」 と同じであって、必ずしも言葉に出すとは限らないという指摘があると思う。しかし、あいにくそれは間違いである。その根拠を「広辞苑」自体が別のページで提供してくれている。

 

求める  ③ 他に対して要求する。「謝罪を求める」

 

おわかりであろうか。「許しを求める」 も 「謝罪を求める」 も言葉で要求するものとふつうに解釈すべきではなかろうか。すると、「許しを要求する」 という行為は社会的慣習としても必ずしも一般的ではないという事実から、やはり定義にはそぐわない可能性が出てくる。すると、とりあえず以下のようになる。

 

過失や罪を認めて  許しを求める    (広辞苑)

反省の意を示し、              (代替案2)

  

さて、「許してください」 と相手に向かって言明することがそんなに多くはないとしても、“許す”と呼ばれるような行為はもちろん存在する。しかし、そもそも 「許す」 とはどういうことを言うのか。「許さない」 とか 「許せない」 という否定形もよく使われている動詞である。

 

わたしの考えはこうである。

「許す」 とは相手に対する”債権”を放棄することである。もう債務者を追求しないことである。「許さない」とは”債権”を放棄せず、債権回収のために債務者を追求し続けることを意味する。「許せない」となると、債務者であるあなたに対する追求をぜったいにやめないと言うに等しい。

 とすると、「許しを求める」 とは 「“債権”の放棄を求めること」 に他ならない。つまり「棒引きにしてくれ」「チャラにしてくれ」 と言うことである。”債権”といったが、別の言葉のあやで、単に “貸し” といってもいいかもしれない。

 たしかに謝罪において言葉に出して 「棒引きにしてください」 「チャラにしてください」 と言えば、むしろ逆効果になる可能性もあるだろう。しかし、加害者側、つまり“謝罪者側”のその謝罪はそもそも何が目的なのかというと、まさにこの “棒引き” ではないだろうか。すべて “チャラ” になることであり、“負債がゼロ” になることである。しかし、ここでは言葉による要求である 「許しを求めること」 とは違う行為が必要なのである。

 

それは 「要求」 ではなく、 「期待」 である。「期待」は顕在的な言語的要求と違い、潜在的な心理的願望である。この差は大きい。人間関係においても外交関係においても非常に重要な違いがここにはある。「要求」においては、主体は要求する側である。しかし「期待」においては、主体は期待されている相手側である。そうである、謝罪する側が要求するというのはそもそも“厚かましい”のである。 “頭(ず)が高い”のである。だからこそ 「許してください」 という言明すら、ありそうでいて実際はあまり使われないのである。いくら丁寧に言明しても、しょせん “性急でおこがましい要求” なのである。謝罪する側にできることは、許されることをせいぜい 「期待すること」 なのである。

 さて、前後して恐縮だが、話を “棒引き” に戻したい。さきほど、“棒引き” とは “チャラ” であり、晴れて “債務” が “ゼロ” になることであると理解した。しかし、いったい何が債務なのだ?何がゼロになったのだ?“負債”、つまり“負い目”であろうか?たしかに“負い目”はなくなるだろう。しかし、ここでわたしは疑問に思うのである。謝罪する人間は果たしてみな “負い目を解消する” ために謝罪しているのだろうかと。東京電力の代表は本当に自分の心のうちの “負い目を解消” したくて土下座をしたのだろうかと。電車の中でひとの足を踏んでとっさに 「あ、すみません!」 と反射的に口にするとき、われわれは本当に自分の心のうちの “負い目を解消” しようとしているのであろうか。

 

そこでわたしはこう考えた。

わたしがひとの足を踏んで 「あ、すみません!」 と言うのは、“負い目”という自分の内面的問題からよりも、相手からの “非難の回避” のためであると。より厳密には“相手からの非難の予防もしくは抑止”とも言えるだろう。さて、「謝罪する」 ということがどういうものであるかを知るには、「謝罪しない」 場合を考えてみるのがいいかもしれない。

 

「あ、ちょっと、もしもし?」

「は?」

「困るんだよ、ちゃんと犬のフンは始末してくれないと・・・」

「ああ、ちょっと今日は袋を忘れたんで・・・」

「お兄さん、カドの斉藤さんとこのお坊ちゃんでしょ?」

「ええ、まあ・・・」

「いっつもうちの玄関先にこういうことされて、ほんとうに迷惑なんだよね」

「いつもじゃないっすよ。今日はちょっと・・・」

「ねえねえ、まずはちゃんと謝ったらどうなんだ?ひとのうちの門柱にいっつも引っかけたり・・・」

「うちの犬じゃないっすよ、うちの犬がする前からかかっていましたよ」

「言い訳はいいから、ちゃんと謝ったらどうなんだ」

「だから、うちの犬だけじゃないっすよ、よその犬だってしているの見たことありますよ、それをみんなうちの犬がしたみたいに・・・」

「あんたね、よその犬がどうのこうのはいいんだよ。そのお宅のワンちゃんが今さっきしたのは間違いないだろうが」

「・・・」

「だったら、まずきちんと謝らなくっちゃな、・・・違うかい?」

「気がつかなかったんですよ、ほんとうに」

「でも、さっき袋を忘れたと言ったよね。ということは気がついていても始末しなかったんじゃないのか?そうだろう?そんな言い訳が通ると思ってるのかい。君、いくつだい?」

「・・・・・・」

  

このように、もしわたしが適切な謝罪を怠り、するべき謝罪を回避し続けると、通常、非難や攻撃を浴びることになる。言い換えると、自由に非難する権利を相手に与えてしまうことになるのである。そして相手は多くの場合非難する根拠を十分に有しており、一方こちらはそれに反論する論拠を十分に有しておらず、非常に不利な立場に立つことになる。

相手はほしいままにわたしを非難し、周囲の支援を得てわたしを孤立させることができる。そして、相手は世間一般のわたしに対する道徳的評判を低下させて、わたしの社会生活にじわじわと不利益をもたらすことができる(「あそこのせがれはたちが悪いんだよ!」)。そうしたことをする権利と能力と材料を相手に与えてしまうのである。それも、こちらにそれに対して対抗すべき方策が得られる保証がまったくないままにである。

 さて、さきほどの疑問に戻りたい。加害者は“債務者”で、被害者は“債権者”であるとした。では “債務” とは何か?その “債権” とはけっきょく何なのか?お答えしよう。“債権” とは “謝罪を求める権利” であり、謝罪をするまで相手を “非難し続ける権利”(たとえば相手を睨むこと)である。“債務” とは “謝罪をする義務” であり、その実質は “反省の意を示す義務” なのである。

 さて、言うまでもなく、国際関係、外交問題でもこの「謝罪」という問題は非常に重要である。謝罪を求める側は相手に対して一つの権力をふるうことができる。謝罪を求められる側はしばしばその権力の行使に対して屈するほかはない。謝罪を求める被害者側は国際世論を容易に味方につけることに成功し、それを後ろ盾に加害者側を孤立させ、様々な不利益を強いることもある。さらに極端な場合は、被害者側は加害者側に寄生して自分にとっての利益の源泉にする場合すらある。このように謝罪の欠如、回避は場合によっては大きなリスクを伴うことがある。

 謝罪をせずにいると困ったことが起きる可能性に道を開いてしまうことになるのである。まともな人間はこの潜在的な危険を放置することはない。さきに謝罪の欠如、回避に対する 「非難や攻撃」 と言ったが、実質的には謝罪の欠如に対する手痛い “報復攻撃” と見ることができるかもしれない。核ミサイルとは違って、物理的損害を与えるのが目的ではなく、精神的損害、道徳的損害を与えるのが目的である。もっとわかりやすく言えば、反論できない屈辱感を与え、さらには相手の評判を落とすことが目的である。りっぱな“報復”である。この報復攻撃は未然に防ぐ必要があるだろう。

 

「謝罪する」「謝る」 

   □ 過失や罪を認めて  許しを求める    (広辞苑)

 

 広辞苑の定義は現実と乖離していて、まったく役に立たないことがはっきりした。

 

   ■  非難の予防もしくは抑止を期待して、相手に反省の意を示すこと  

(ザウルスの定義)

  

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15 コメント

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面白い! (Alinamin2011)
2014-02-23 12:25:39
これは面白い!
反省の考察を早く見たいです。

私もちょっと考えてみました(長くてすみません)

「甲が乙に謝罪する(例えば、自分が相手に謝罪する)」ということを考えるときに、
乙に正義があり、甲に正義がなければ、甲は乙に謝罪することに意味があります。これは、ザウルスさんが今回解説した内容になる。

もし、乙に正義がなく、甲に正義があれば、甲は謝罪することに意味がない。
逆に乙が甲に謝罪すべきで、「甲が乙に謝罪する」ということは、不義としかいいようがない。

ここからわかることは、「正義の有無は、謝罪することに非常に影響を及ぼす」ということ。

「正義とは何ぞや」という話はややこしいので、ここでは「自らが正義だと信ずれば、正義がある」と定義しておきます。

すると、以下のような表が書ける。

横軸に甲(例えば自分)に
    正義が ある⇔ない
縦軸に乙(例えば相手)に
    正義が
        ある
         ↕
        ない

謝罪の意味を考えた上記2例は、この表の右上マスと左下マスの例。
右上・・・謝罪に意味がある
左下・・・謝罪に意味がない。あべこべ。ナンセンス。やったら、理不尽。
で確定。

さて、
左上のマス、すなわち、甲に正義があり、乙に正義があるときを考える。
どちらも自らが正義と思っているので、謝罪行為は欺瞞といえる。
左上・・・欺瞞 で確定。

問題は最後の右下マス。
甲にも乙にも正義がない。

<ケース1>
もし、甲が乙に謝罪するとすれば、
甲は、自分に正義がなかったことに対して相手からの非難の予防や抑止のために反省の意を伝える。
と解釈するのが自然。
そうでないなら、欺瞞という解釈になろう。

<ケース2>
もし、甲が乙に謝罪しないとすれば、
甲は、自分に正義がなかったことは認める(マス位置の前提)が、相手からの非難の予防や抑止のために反省の意を伝えない。
ということになる。
これは、
「相手に正義がなかったことに謝罪の必要はない」という前提(Aと呼ぶ)に立てば自然。
そういう前提に関わらず、「単に謝罪行為をしない」と解釈される。

以上ですべての場合が尽くされている。

そこで、乙が「甲が謝罪しない」ことに対して非難している場合に、乙は何を主張するのかと考えると

(イ)乙に正義があり甲に正義がないのに、甲が謝罪しない不正義を正そうとする(事態が右上マスであることを甲は認めよという訴え)

(ロ)乙に正義はないが、甲に正義がない(=右下マス)ので、乙の非難を防止・抑止する行動をとるべきと要請(ケース1の「自然な解釈」)

(ハ)乙に正義はないが、甲に正義がないので、乙の非難を防止・抑止するために欺瞞を要請(ケース1の欺瞞)

(二)乙に正義はないが、甲にも正義がなく、正義がない者同士でも謝罪しあうべきと、前提Aを否定した価値観の共有を要請。

(ホ)乙に正義はなく、前提Aも認めるが、甲が謝罪しないことは認めず、甲に論理的でない行動を要請。

ここで「甲に謝罪を求めているのが、当事者である乙」だから、(イ)以外は、理不尽と言わざるを得ない。

すなわち、謝罪を要求するのが当事者乙であるなら、事態が(イ)であること、すなわち右上マスであることを証明するために
・乙は正義があったと甲に認めさせること
・甲に正義がなかったと甲に認めさせること
の両方を成立させなければ、要求は成就しない。

そう考えると、「謝れ!」と相手を怒鳴りつけている人は、自分の正義と相手の不正義の両方を相手が認めると信じている人、もしくは、単に理不尽なことをしている人
ということになります。

いわんや、
謝罪を強要した乙が、甲が謝罪しても非難をやめなかったとすれば、それこそ謝罪の意味を冒涜した、理不尽極まりない行動を乙はとっているわけで、
甲は謝罪をする意味がもはやどこにもないということですよね。

いやぁ、何か、すっきり。


反省編を期待してます!
Unknown (クー)
2015-04-16 21:31:11
興味深く拝見させていただきました。

謝罪って、社会的にありふれた行為でありながらその本質はそう単純なものではない気がします。
そう思って検索しているうちにこちらにたどり着きました。

ザウルスさんのエントリを読んで、より自分の考えがまとまってきたような気がするので、ここにフィードバックさせていただこうかと思います。


結局、謝罪行為の直接目的というのは許しの獲得なのだと思います。その先に、報復の抑止や批難の回避という個別の目標があるのではないでしょうか。ここではこの許しの獲得という目的を軸にして、謝罪という行為を考えてみたい。

人間関係の行為を、無機的な利害のやりとりと見なして単純化してみます。この場合許しとは、害の清算、帳消しであると言えます。マイナスを帳消しにするにはプラスを重ねるのが通常ですが、これは人間関係において償いと呼ばれます。

しかし謝罪において、償いはない。
ここに謝罪という行為の特殊性、人間は的な面白さが現れているような気がします。

謝罪と償いは組になることはあれど、謝罪は償いを包含しません。謝罪そのものに、直接償いをせずに許しを得る効果があります。
それはおそらく、謝罪ということが、未来における償いを期待させるからでしょう。謝罪を受ける側は、(無意識的にせよ)将来にわたる打算をもって、許しを与えるわけです。逆に、普通償いの姿勢が見られない謝罪は「反省していない」とみなされて、受け容れられません。

以上の考察から、私なりの謝罪の定義をまとめます。現象論的な謝罪行為そのものの定義というよりは、謝罪の果たすべき機能的説明と言えるかもしれません。

・謝罪する: (過ちを認めて)償いの姿勢を表明することで、許しを求める。

いかがでしょうか。
クーさんへ (ザウルス)
2015-04-16 22:40:06
クーさんの考察はなかなか洞察に富んでいると思います。ただ、けっきょく 「許しを求める」 という広辞苑の定義に使われているフレーズをそのまま流用しているのが気になります。

その 「許しを求める」 という漠然としたところをわたしは 「非難の予防もしくは抑止の期待」 と言ったのです。平たく言えば、「もう責めないでくれ」 ということです。つまり謝罪される側はニュートラルな状態で突っ立っているのではなく、謝罪する側に対して 何らかの“攻撃的”な意図を有して睨んでいると考えるべきなのです。その攻撃性の実現を阻止するのが謝罪の “機能” であるというのがわたしの主張です。
とにかく広辞苑の定義に戻ってはしまっては、元の木阿弥で、考察した意味があまりないと思います。
Unknown (にしだい)
2016-08-03 11:37:23
謝罪とお詫びが混在している気がする。。
↑ にしだい さんへ (ザウルス)
2016-08-03 13:48:14
「謝罪とお詫びが混在している気がする」  ということは、“謝罪” と “お詫び” が別物だということですね?それではその2つがどう違うのか教えて下さい。

わたしには “徒歩” と “歩き” の違い、 “理解する” と “わかる” の違い と同列に思えます。
Unknown (↑失礼します。)
2016-10-09 23:02:27
私も自分の持論かもですが、

謝罪の言葉自体は謝って欲しい側が考えたものだと思います。
詫びは謝る側の考えたものだと思います。

徒歩は歩いてる人を見た人が考えた言葉かと思います。歩きは徒歩と同じです。
歩くは歩いてる人の考えた言葉だと思います。

当事者の両方で言葉が違うのかと思います。

いかがでしょうか?
↑ 「詫びは謝る側の考えたもの」? (ザウルス)
2016-10-10 07:09:31
ある動詞の起源を、その動詞の意味する行為の “主体” や “視点” に求めることができるかどうかは、はなはだ疑問に思えます。

「謝罪の言葉自体は謝って欲しい側が考えたもの」 「詫びは謝る側の考えたもの」 とのことですが、「謝罪」 と 「詫び」 を入れ替えた逆の説も同じように成立するかもしれません。その逆の説をきちんと反論、否定できるだけの根拠がありますか?

漢語的な熟語は第三者の視点で発生し、大和言葉的な動詞は当事者の視点で発生した、と言いたいのかもしれませんが、確実に言えることは、漢語的な熟語のほうが歴史的にあとから発生したということだけです。ということは、漢語的な表現が出てくるまでは “詫び” は “謝罪” と同じように、つまり “視点” に関係なく使われていたのではないでしょうか?

仮に、あなたの説が証明できたとしても、それによって、“謝罪する” と “詫びる” に本質的な意味の違いが出てくるでしょうか?

ちなみに、「徒歩」 と 「歩き」 はほぼ同じ意味の名詞であり、「歩く」は動詞です。品詞の違いという点が決定的です。視点や主体の違いはまったくありません。
ご教示下さい (K)
2019-08-08 11:11:11
とても興味深く読ませていただきました。議会等の懲罰委員会で陳謝文を作成するのが、陳謝する本人ではなく陳謝を受ける議会側が作成するのどうしてですか。ご教示下さい。
K さま (ザウルス)
2019-08-08 15:38:45
謝罪文の原稿をどちら側が作成すべきかは本質的な問題ではないと思われます。しかし、謝罪という行為のイニシアチブは当然謝罪する側にあります。

謝罪文を謝罪を受ける側が作成すれば、校正や訂正の手間が省けるというメリットはあるでしょう。しかし、それが謝罪する側にとって結果的に不利にならないという保証はまったくありません。
とはいえ、謝罪する側がその謝罪文に対して特に異論がなければ、同意してそのまま使って問題ないでしょう。


Unknown (k)
2019-08-08 18:11:32
 ありがとうございます。議会等では陳謝する方が陳謝文を作成するのは認められていません。内容の如何にかかわらずそのような(陳謝する側が作成したもの)陳謝文は受け付けません。陳謝を受ける側の陳謝文しか認めないところに「謝る」の本質(議会特有のものでしょうが)垣間見えはしないかと考えました。「議会」から入ってもそのようなことに言及してある本はなさそうですし・・・。「謝罪」から入るとして、何か「謝罪の哲学」のような本はありませんか。

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