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凶悪犯待望の救世主か、藤田孝典とその純粋なイデオロギーの笛

2019-06-25 14:13:21 | メディア時評

凶悪犯待望の救世主か、藤田孝典とその純粋なイデオロギーの笛

  

2019年5月28日の 川崎スクールバス襲撃事件 は、引きこもりと思われる51歳の容疑者が児童らを刃物で襲ったあとに自殺するという異常な展開で世間の人々の心胆を寒からしめた。

この事件の直後、「川崎殺傷事件「死にたいなら一人で死ぬべき」という非難は控えてほしい」 というタイトル記事を公表した藤田孝典氏という人権派の評論家が不思議ともてはやされた。

どうしてこんなメッセージが瞬く間に注目されて、マスコミやネットで多くの人たちが持っていかれてしまうのか不思議に思いながら遠くから見ていた。しかし、ほぼ1年前の新幹線無差別殺傷事件と比較することによって、その美しいメッセージに潜む危険なイデオロギー が透けて見えてきた。

 

「死にたいなら一人で死ぬべき」 などと言うと、却って類似の事件を誘発するからやめてほしいと言うのだ。そして、見る見る賛同者を集め、「死ぬなら一人で死ね」 は、にわかに “言葉狩り” のターゲット にされ、そういうことを言うから凶悪犯罪は再発するのだ、間違っても言ってはいけないとまで言われだした。

 

 

同氏はまた 「社会はあなたを大事にしているし、何かができるかもしれない。社会はあなたの命を軽視していないし、死んでほしいと思っている人間など1人もいない」 という “愛情あふれる心優しいメッセージ” を潜在的凶悪犯たちに今こそ発する時だと言うのだ。ひょっとしたら、この  美しすぎるメッセージ” に心を動かされたひとも多いのではなかろうか?

 

ちょっと待ってくれ。一人称で 「わたしはあなたを大事にしているし、何かができるかもしれない。わたしはあなたの命を軽視していない」と言うのならまだわかる。しかし、一体どういう立場で、どういった権限で 「社会はあなたを大事にしているし、何かができるかもしれない。社会はあなたの命を軽視していない」 などと語れるのだ?さらに 「死んでほしいと思っている人間など1人もいない」 などと、どうして言い切れるのだ?このような理想と現実がごっちゃになった文を平気で書く人間の神経も疑うが、こんなメッセージに感銘し、賛同し、ツィートしている人間がネット上やテレビ視聴者の中には無数に蠢いていることも驚きである。

 

 

同氏は 「類似の事件をこれ以上発生させないためにも、困っていたり、辛いことがあれば、社会は手を差し伸べるし、何かしらできることはある」 とも言っている。

「社会全体でこれ以上、凶行が繰り返されないように、他者への言葉の発信や想いの伝え方に注意をいただきたい。」 とも言っている。

今回犠牲になった児童たちとその親たちよりも、むしろ凶悪犯予備軍(危険人物)に寄り添い、無限の愛と優しさをアピールすることによって一躍 “凶悪犯待望の救世主” としてデビューした恰好である。

 

要するに、一般大衆に “再発防止のために 凶悪犯予備軍(危険人物)の機嫌を損ねないように彼らに寄り添いましょう!” と呼びかけているのである。罪のない児童たちを刃物で次々に襲った凶悪犯に対して世間の人々が怒りの声を上げているまさにそのときに、潜在的な同様の凶悪犯たちに対して温かい救いの手を差し伸べるポーズで “愛と優しさによる凶悪犯罪の抑止” を訴えるという、意表を突いたこの人権派評論家の離れ業 はかなり功を奏したようだ。

 

そして、ネットやテレビではこの無責任な安請け合いと卑屈な警告に少なからぬ有識者が相次いで賛同したのである。

 

そして多くの一般大衆もそれに流された。「そうか、僕たちは凶悪犯の予備軍に対しても惜しみなく愛と優しさを注いであげなければいけなかったんだ!まだまだ僕たちは心が狭かった!危険人物の皆さん、今まで無視してごめんなさーい!だから、もう凶悪犯罪は起こさないでくださいね!」 と言いたいのだろうか。

 

 

さて、この凶悪犯予備軍待望の救世主の主張を少し整理してみると、以下のような命題が潜んでいるように思える。

命題1.凶悪犯予備軍を刺激するな。

命題2.犯罪の発生は社会に責任がある。

命題3.人命尊重はすべてに優先する。

  

これら3点にまとめられる命題のどれもが 客観的、科学的な根拠など何一つない恣意的なイデオロギー なのだ。これら3つの命題はほとんど宗教的とも言えるほどの独断的かつ独善的な主張で、客観的な根拠や裏付けは残念ながらゼロである。しかし、一部の平和ボケの日本人はこうした客観的な裏付けなどまるでない、幼稚な、ほとんど “宗教的な教義” を無防備にも丸ごと呑み込んでしまうのである。そうそう、あなたのことだ。

 

それでは、上の命題を個々に吟味してみよう。

 

命題1.凶悪犯予備軍(危険人物)を刺激するな。

潜在的な凶悪犯は社会に対して復讐心を抱いているからヘタなことを言って彼らを挑発して凶行に走らせてはいけない、ということのようである。つまり、潜在的な凶悪犯の機嫌を損ねないように言動に気を付けましょう、と言っているに等しい。早い話が、“ヤクザにからまれないようにしましょう”、と言っているのと同じだ。さらに言い換えると、凶悪犯罪の再発防止のために一般大衆の言論の自由は多少制限されてしかるべきだ と言っているのである。

しかし、なぜ反社会的分子のご機嫌をそこまでうかがって遠慮しなければならないのか?びくびくとまるで腫れ物に触るような扱いをしなくてはならないのはなぜなのか?凶悪犯予備軍を祭り上げ、優遇し、権力まで与えるのは、単にコワいから卑屈になっているだけではないか?

凶悪犯予備軍のご機嫌をとるのは、けっきょくヤクザに愛想使うのと変わらないのではないか?

 

 

命題2.犯罪の発生は社会に責任がある。

凶悪犯予備軍の救世主、藤田孝典氏は 「類似の事件をこれ以上発生させないためにも、困っていたり、辛いことがあれば、社会は手を差し伸べるし、何かしらできることはある」 と言うのだが、いったい何様のお言葉?まるで自分が日本社会をしょって立っているような言いぐさではないか。自分が個人として凶悪犯予備軍に手を差し伸べるというのならそれは自由だが(しょせん口先だけのポーズだろうが)、「社会は手を差し伸べるし、」 と、いとも簡単に言ってのけてしまう神経とはどういうものか。一国の首相か厚生労働大臣にでもなったつもりであろうか?どうやら反社会的分子に対して社会が手を差し伸べて寄り添うのは当然のことで、社会にはその責任があるとでも思っているようである。

そして、凶悪犯罪の実行を思いとどまってもらうために 「困っていたり、辛いことがあれば、社会は手を差し伸べるし、何かしらできることはある」 とまで言うのは、まさに42年前にハイジャック犯の言いなりになって世界を呆れさせた、かつての日本の総理大臣のようではないか。

 

 

 

 

 

 

 

「日本政府はこれ以上の交渉や武力での解決を良しとせず、1977年10月1日に福田赳夫内閣総理大臣が「一人の生命は地球より重い」と述べて、身代金の支払いおよび「超法規的措置」として、収監メンバーなどの引き渡しを行うことを決めた。 」ウィキペディア 「ダッカ日航機ハイジャック事件」 


 

たしかにいかなる犯罪も特定の社会環境において発生するいじょう、社会と無関係とは言えない。しかし、「関係がある」イコール「責任がある」ではないだろう。犯人の知人であるというだけでその犯人の犯した犯罪に責任があることになったら大変だ。ましてや見ず知らずの凶悪犯の犯罪に対して同じ国に暮らしているというだけで日本人、日本社会がその責任を負うかのような人権思想は非常に倒錯的ではなかろうか。社会に責任があるということは、そのぶん凶悪犯自身の責任は大きく減殺されることになるわけだ。犯罪、貧困といった現象は社会の責任であり、犯罪者も貧乏人も社会の欠陥や無策の犠牲者だという独善的で偏った人権思想 がこの論者の頭脳に深く根を下ろしているようだ。

 

“わたしたちが手を差し伸べてあげなかったから、この51歳の引きこもりの容疑者はスクールバスの児童たちを襲撃し、最後はかわいそうに自らの命を絶ってしまったのね。ああ、罪はほんとうは救いを求めていた彼を無視してきたわたしたちのほうにあるんだわ!本当にごめんなさーい!” というのが、この人権思想家と彼の支持者たちの心の内ということになるだろう。そしてこの “自虐的な人権思想のハーメルンの笛” に日本中の多くの “未熟で純粋な心の持ち主たち” が踊らされたのである。ああ、心優しき日本人!

 

 

命題3.人命尊重はすべてに優先する。

人命に至高の価値を与えると、ものごとを非常に簡単に考えることができるというメリットがある。人命は数えることができるので、人命に関わる重要な決断を算術的、機械的に下すことすらできる場合がある。早い話が、2人死ぬよりは1人死ぬほうがましということになる。死亡者数1名よりは死亡者数ゼロのほうがいいことは幼稚園児にもわかる。こんなにわかりやすい話はない。これを “最小実害の原則” という。

 

しかし、この原則はテロリストや人質誘拐犯によっていとも簡単に逆手に取られる。1人の人質の人命を救うためには、政府は人質誘拐犯の要求をすべて呑むべきだということになる。死亡者数1名や30名よりは死亡者数ゼロを選ぶほうが “人道的” というわけだ。こんな明快な結論は、現実からまったく乖離した机上のイデオロギーからこそ導き出せるものである。ハイジャック事件の際の福田赳夫元内閣総理大臣の頭の中も、世界の笑いものになったこの空疎な人命尊重のイデオロギーしかなかったのである。

 

新幹線の車内で女性が凶悪犯に刺されていても、その場にいる男性たちは自分たち自身の大切な人命を最優先に確保するために女性を見捨てて一斉に逃げるのがいちばん正しいということになる。そうすれば被害は拡大せず、最小限にとどまるだろう。“最小実害の原則” である。そして、女性を救おうとして犯人に立ち向かって刺されて死んだ男性は、わざわざ “余計なこと” をして死んだ “ドジな男” ということになる。よせばいいのに “英雄気取り” をして、その報いを受けただけということになる。

 

 

こうした 幼稚園児にもわかる “人命最優先の思想” は “人道主義” という装いで、1977年の日本赤軍ダッカ日航機ハイジャック事件の「一人の生命は地球より重い」 以降もずっと日本人の頭脳を支配してきている。

しかし、これこそが、“悪への屈伏”  “犯罪に対する萎縮”  “犯罪の合理化・正当化” の温床となり、“法の軽視” “正義に対する冷笑” “良心の放棄” “勇気の喪失” の蔓延、つまり “人間としてのモラルの低下” につながっているのだ。これに気づいているひとがどれだけいるだろうか?もちろん、当事者であるほとんどの日本人は気づかないであろう。

ちなみに調べてみると、「人の生命は地球より重い」 のニュースがテレビで放映されていた頃、藤田孝典氏は5歳だった。彼も幼いころからモロに洗脳されていたのではなかろうか。


 さて、上記の昨年の2018年5月28日の新幹線無差別殺傷事件では、「女性を助けようと立ち向かった男性のおかげで多くの乗客が助かったという見方と別に、却(かえ)って容疑者を刺激し、結果として最悪の事態を招いてしまった可能性もある」という報道があった。

https://www.j-cast.com/2018/06/11331041.html?p=all

 

つまり、男性はわざわざ余計なことをしただけでなく、それによって却って被害を拡大したという見方である。この男性が余計なことをしなければ当人も含めて被害は最小限にとどまったはずだという理屈である。ヒーローを演じようなどとはせずに、刺されている女性なんか見殺しにして自分は逃げるのが正解、という “下劣な論理” である。

人命保護を最優先すべし」というと聞こえはいい。しかし、何の事件も起きていない平時のときは利他的なスローガンとして美しく響いているが、有事の際は利己的な言い訳(自分の人命の保護を最優先)として自分の保身と打算の正当化に使われる。

 

新幹線無差別殺傷事件の際の この “下卑(げび)た論理” はそのまま “危険人物を刺激するな” 論 としてほぼ一年後の川崎スクールバス襲撃事件の際 にもマスコミやネット上に再び浮上したのである。それが今回の藤田孝典氏の「川崎殺傷事件「「死にたいなら一人で死ぬべき」という非難は控えてほしい」という主張である。「その美しいメッセージに潜む危険なイデオロギー が透けて見えてきた。」と文頭のほうで書いてあったのを思い出していただきたい。

 

 

                幼少時に刷り込まれた可能性? 

 

同氏はこう言っている。「社会全体でこれ以上、凶行が繰り返されないように、他者への言葉の発信や想いの伝え方に注意をいただきたい。」と。つまり、人命の損失につながりかねない凶悪犯罪を未然に防ぐためには、危険人物をうっかり刺激するな と言っているのである。違うだろうか? 危険人物を腫れ物に触れるように扱い、彼らのご機嫌を損ねないようにしろ と一般大衆に警告しているのである。この藤田孝典氏は、潜在的な凶悪犯のために “先払い”(注1) となって「下に~、下に~!」(注2)と一般大衆に掛け声をかけて先導しているのである。

 

 (注1) 先払い:  ③  貴人の外出の際、前方の通行人をその場から追いやること。また、その役を務める人。前駆。先追い。先使い。(大辞林)

(注2) 下に下に:  (下におれの意) 江戸時代、将軍、大名の行列が通行するとき、先払いが庶民に土下座をうながした掛け声(日本国語大辞典)

 

繰り返すが、これは “暴力団のご機嫌を取れ” と言うのと同じである。

同氏の考え方からすれば、凶悪犯予備軍は恐怖の対象であるというだけで権力を有するのだから、将軍様扱い、大名様扱いで当然なのである。われわれ一般大衆は同氏によって、潜在的凶悪犯たちの “逆鱗” に触れないようにしなさい と親切にも警告してもらっているというわけである。

 つまり、こうである。いつ凶悪犯罪を起こすかもしれない凶悪犯予備軍によって、日本国民は人質に取られている ということだ。そして、勝手に “交渉人” を買って出た藤田氏が “凶悪犯予備軍は何をするかわからないから、彼らを怒らせずになだめすかして希望通りにしてやったほうが世の中のためですよ!” と熱っぽく説得しているのが今回の「死ぬなら一人で死ね」騒動 の図である。 

 

藤田氏はなぜこのような滑稽なことを大真面目にやってしまうのか?それは同氏の思想に深く根を下ろしているように思える2つの極端な命題に起因している。

 

  • 犯罪の発生は社会に責任がある。
  • 人命尊重はすべてに優先する。

 

 この2つから一歩進んだ予防策として、

  • 凶悪犯予備軍を刺激するな。

 

が自動的に出てくるのだ。

同氏は論理的に物事を考え、一貫性のある論理を駆使するが、出発点となる価値観じたいが宗教的な信念と変わらない幼稚で極端なものなので、現実の具体的な事件に当てはめれば当てはめるほど滑稽になってしまうのである。

彼は本当に “理想に燃える純粋な心優しい救世主” なのか、それとも “幼稚なイデオロギーで理論武装しただけの小心で卑屈な打算家” なのか?

 

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1 コメント

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もちろん (希ノ醍 輝平左ヱ門)
2019-06-25 22:12:18
ザウルス様、お世話になります。
(話がくだらなければ、消してください)

要するに、この藤田孝典氏は、彼自身が犯罪者予備軍の同類さんで、お仲間を擁護する思想を広めることを通して、一般市民に対して、自分をも含めて犯罪者予備軍を守れと言っているわけですか? 目論見が甘いなあ。

現実世界では、当事者の行為を通して犯罪者認定をするので、未来の可能性を論じて予防的措置など無用ですから、犯罪者予備軍に遠慮などせず、犯罪発生時点でビシビシ取り締まりをすればよろしいかと。

藤田氏のそんなやわな考え方で自己防衛をしても、将来犯罪発生の責任を取らされるでしょう。(まいた種はご自身で刈り取ることになる)

犯罪者たちに殺され、怒りに燃えた、(警察にも怖気付かない)一般市民(被害者遺族たち)のリンチが横行することになりますね。

藤田氏はその過程で処分されるかと。

考え過ぎでしょうか ?


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